143.美しき者同士の静かな散歩
教皇は、言葉を重ねる。
「地下にある錬成装置を使えば、生物学的に“父”や“母”という形に拘らず、“遺伝子”さえあれば子どもが構築可能なんです」
その声はまるで、学術会議の説明のように淡々と──しかし確実に現実を突きつけてくる。
「そのために必要なのは、血と魔力の素材。
……そして、白羽の矢が立ったのが──あなた、というわけです」
教皇は、ゆっくりと顔を上げ、氷のごとく整った容姿の青年を見つめた。
「ディーズベルダ夫人とエンデクラウス殿が、“推薦”してくれましたよ。
……その美しさと、魔力の安定性を“後世に残すべき”と、熱烈に」
「……し、白羽の矢……? …………推薦……?」
ベリルコートの整った眉が、わずかに引きつる。
思考の歯車が空回りを始める。
頭の中で、崩れるような音が響いた。
長年完璧に保っていた自制の幕が、音もなく、内側から裂けていく。
「……まさか……そんな……僕はただ……教皇様の手伝いを……それだけのつもりで……」
けれど、教皇は迷いも照れも一切なく、さらりと口にした。
「はい。あなたの血を一滴──それだけご提供いただければ、私との子が錬成可能です」
微笑む教皇。その無表情の奥に、微かな期待と本気が滲んでいた。
ベリルコートは、唇をわずかに開き、そして──乾いた声を絞り出す。
「……えぇっと………つまり、僕に……子どもが、できるということでしょうか?」
「ええ、その通りです。どうぞご安心ください。血を分けていただくだけですし、責任などはすべて私が負います」
教皇は、あくまで淡々と、どこまでも理知的に──だが真剣に頷いた。
「……いえ、ですが……」
ベリルは、その瞬間ちらりと横に視線を移す。
その先には、クラウディスがにこにこと笑いながら見上げていた。
「べりる、ままと同じ? ままになるの?」
子どもならではの無邪気な問い。
その純粋すぎる笑顔に、ベリルの胸が一瞬、きゅっと締め付けられる。
(まま……って…)
その横で、ヴェルディアンがベビーベッドの上で、ジャスミンにあやされながら、きゃっきゃと声を上げていた。
幸福の象徴のような無垢な笑顔──まるで、すでに家族の一員であるかのように。
ベリルは、うっすらと目を伏せた。
「……教皇様。いくら僕でも……血を分けた子の責任を一切取らないなど、そんな非情なこと……できません」
声は小さく、けれどはっきりとしたものだった。
教皇は微笑みを崩さず、静かに問い返す。
「…………では、引き受けてくださらないと?」
その瞬間、部屋の空気がわずかに重たくなる。
ベリルはしばし黙ったまま、目を閉じ──
そして、ゆっくりと首を横に振る。
「……いえ。少し……いえ、数日だけ……考えさせてください」
教皇はその答えに、深く頷いた。
「……わかりました。私も無理強いは致しません。
ただ──ご縁があれば、きっと素敵な子が生まれるでしょう」
その声には、どこか切なげな響きが混じっていた。
そして、そっと視線を下ろすベリル。
彼の腕には、いつの間にかまたクラウディスがしがみついていた。
温かく、小さな命の重みが──胸に、深く染み込んでいくようだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その夜、ルーンガルド城は柔らかな灯火に包まれていた。
照明の魔石が天井から淡く光を放ち、廊下には仄かな金の光が揺れている。
そんな幻想的な空間を、ひとり歩く人影があった。
──ベリルコート・アイスベルルク。
艶のある銀髪は、月光を宿したかのようにゆらゆらと揺れ、長い睫毛の奥に宿る青い瞳は、湖面のように静かだった。
その姿はまさに“美”の象徴。
彼が通り過ぎるたびに、侍女たちの息が止まり、時にはその場にへたり込んでしまう者さえいた。
「……っ、べ、ベリルコート様……美しすぎて……息が……」
「こ、これは夢……では……」
見惚れ、赤くなり、よろける者続出。
まさに“美の魔”そのものの存在だった。
──だが、そんな反応にも、ベリルは特に気を止めなかった。
(……倒れない者のほうが、むしろ珍しい。家族と、その親族……そしてこの城では、きっと)
角を曲がった先。
ぴたりと足が止まった。
「こんばんは」
目先に立っていたのは──教皇だった。
いつもの白い衣を纏い、顔には穏やかな微笑を湛えている。
その佇まいは静謐で、まるで聖堂から抜け出してきたような神秘性を宿していた。
「……はい。こんばんは」
ベリルは、わずかに表情を和らげて答える。
この男には、あの美に酔い倒れる侍女たちのような反応はない。
──きっと、彼も“美しさ”という呪いの中で、生きているのだ。
(互いに、美に縛られた存在……かもしれませんね)
「お散歩ですか?」
教皇の声が、夜気の中にすっと溶ける。
「……え。あ……はい。少し、頭を冷やしに」
「ご一緒しても?」
「……ええ。構いませんよ」
どちらからともなく、二人は並んで歩き出した。
のどかなルーンガルドの庭園。
月明かりが咲きかけた花を照らし、小道には夜露が静かにきらめいていた。
「教皇様は……伴侶など、いらっしゃらなかったのですか?」
唐突な問い。けれど、それは自然に口からこぼれたものだった。
少しだけ間を置いて、教皇が口を開く。
「……伴侶、ですか。……ここだけの話、私は……とても長く生きている者ですから」
その言葉は、どこか疲れたような響きを帯びていた。
「もちろん、過去には……一人や二人、いたこともあります。けれど、私より短命な者ばかりで……結局は死別ばかり。
生きる時間が違うのは、なかなか辛いものですよ」
「……そう、ですか。……すみません……失礼なことを……」
ベリルは小さく目を伏せる。
(軽はずみだった……)
空気が少し重くなる。
──けれど、教皇は微笑を崩さなかった。
「ベリルコートさんは? そういったご令嬢は、いらっしゃらないのですか?」
何気ない問いかけだった。
しかし──その瞬間、ベリルの足が止まった。
「…………僕は…………」
ふと、胸が締めつけられた。
思考が途切れ、呼吸が浅くなる。
目の前が、ふっと滲む。
(──やめろ……思い出すな……)
次の瞬間、幼い頃の光景が脳裏をよぎった。
凍てつく視線。凍りついた心。
誰にも理解されず、誰にも手を伸ばしてもらえなかった、あの孤独な日々。
胸が苦しい。息が、うまく吸えない。
「……っ……は……っ、っ……!」
過呼吸──
体が崩れ落ちそうになるその瞬間、教皇が素早くその体を支えた。
「……大丈夫、ゆっくり息を……」
教皇はそのまま、自身の長いローブの袖でベリルの口元をそっと覆い、遮るように包む。
片手には聖なる灯火を灯し、もう片手で、彼の背をゆっくりと撫で続けた。
「……ゆっくり……焦らず……大丈夫です。ここにいます」
教皇の声は驚くほど優しく、静かだった。
その灯火のぬくもりが、胸の奥にしみていく。
暗闇の中にいた心が、少しずつ、ゆっくりと明るい方へ引き戻されていくようだった。
「……何か、抱えていらっしゃるのですね……」
その言葉に、ベリルの身体がわずかに震える。
もう答えることはできなかった。
意識が、そのままふっと──手のひらからすり抜けるように、途切れていく。
教皇の胸に抱かれながら、ベリルは静かに瞼を閉じた。




