142.育児と心の奥の話
魔王城の二階、ひときわ陽当たりの良い部屋──
柔らかな陽光がレースのカーテン越しに差し込み、部屋中に心地よいぬくもりを与えている。
壁には花や動物の装飾が施され、絨毯には小さな玩具がちらばっていた。
その部屋の片隅では、教皇がひとり、ヴェルディアンを腕に抱えていた。
銀の髪をふわふわと揺らす赤子は、心地よさそうに目を閉じ、口にくわえた哺乳瓶をちゅくちゅくと吸っている。
「…………ふぅ」
教皇は長いため息をついた。
(久しぶりに“カタログ”を召喚してしまった……)
それは、彼がかつて使っていた禁呪にも近いチート能力の一つ。
魔力を莫大に消費する代わりに、地下室の錬成装置で錬成できるコマンドがのった神の書物。
(哺乳瓶とミルク……まさか、自分の手で子供用の主食を錬成することになろうとは……)
魔力を使いすぎたせいで額にうっすら汗が浮かんでいた。
(……夫人が戻ったら、一度叱らなくてはなるまい。私に二人の子を任せた責任として)
そんなふうに苦々しく思っていた矢先──
「きょーこーさまっ! ぼくも、ぼくもーーっ!」
弾けるような声が響き、クラウディスが両手をばたつかせて駆け寄ってきた。
その目にはきらきらとした期待の色が宿っている。
「クラウディスさん、いけませんよ。これは弟君の主食です」
「むぅぅぅ〜〜〜や〜〜〜だ〜〜〜!!」
ほっぺを膨らませてじたばたと抗議するその姿に、教皇はふっと目を細めた。
(……この感じも、懐かしいな)
遠い昔の記憶が、ふいに脳裏をよぎる。
──カトレア・ゲルセニア。
かつて愛した女性。今はもう、遠く隔たってしまった存在。
(もし、彼女が今も私の妻でいてくれたら……こんなふうに、子を儲け、共に育てていたのだろうか)
一瞬、表情に影が差す。
その様子に気づいたのか──クラウディスが小さく首を傾げた。
「きょーこーしゃ……きょーこーさま! いたい?」
心配そうに覗き込んだかと思うと、クラウディスは小さな手をかざし、聖属性の魔力をふわりと放った。
優しい金色の光が、ミルクを与える教皇を包み込む。
教皇は思わず目を細め──そして微笑んだ。
「クラウディスさん、大丈夫です。痛いのは……心の方です」
「……こころ?」
小首をかしげるクラウディスの顔に、素直な困惑が浮かぶ。
教皇は、ヴェルディアンを軽くあやしながら、ぽつりと語った。
「はい、私には昔……はるか遠い昔に、妻がいたんです。──お嫁さん、です」
「よめ!! まま!!」
「ふふっ、よく理解できていますね。しかし……喧嘩をしてしまってから、もうどうにもならなくなってしまって」
寂しげな笑みに、クラウディスはしばらく考えこむような顔をした。
──そして、思い出す。
(むずかしい話のときは、ままがうなずいて……ぱぱが目ぇつむってうんってする……)
そう、あれだ!
「うーん……んーっ……」
クラウディスは口をぎゅっと結び、腕を組んでふか〜く頷く。
教皇はその姿にくすりと笑い、目を細めた。
「ふふふ……。理解しているのですか?」
「うーーーーーんっ」
返事ともつかない唸り声に、教皇は肩をすくめた。
そのとき──
「……いたたっ……!」
教皇の頭が一瞬揺れる。
ヴェルディアンが、柔らかな笑顔を浮かべながら、教皇の長い髪をぐいっと引っぱっていたのだ。
「ヴェル、だーーーめっ!!」
クラウディスがすかさず水魔法で注意する──その水が、的確に教皇の顔面を直撃した。
「ぶはっ!?」
勢いよく顔を濡らされ、教皇は一瞬でびしょ濡れに。
「きょ、教皇様ーーっ!!」
部屋の隅で見守っていた侍女たちが、血相を変えて駆け寄ってくる。教皇はヴェルディアンをベビーベッドに寝かせて布を受け取る。
その騒がしさの中で、教皇はただぽつりと呟いた。
「……子育てとは、かくも過酷な試練だったか……」
濡れた顔を布で押さえながら、教皇は心底疲れたようなため息をついた。
ミルクで満足そうなヴェルディアンと、水魔法で教皇を濡らしてしまい、しょんぼり中のクラウディス。
ふたりの子どもに囲まれながら、教皇はしみじみと己の立場を思い返していた。
(私は……教皇だったはずだ……)
だがその思考を遮るように、コツ、コツ、と品のあるノック音が部屋に響いた。
「失礼します」
開いた扉の先から、ひときわ異質な気配が流れ込んできた。
入ってきたのは──まるで氷の精霊が人の姿を取ったような存在だった。
酸素さえ凍らせそうな銀色の長い髪が、光を受けて静かに輝き、
その瞳は冷ややかで深い青。
どちらともつかない整いすぎた顔立ちは、見る者の呼吸を止めさせるほど美しい。
その佇まいは“性別”という枠組みすら超越していた。
一瞬、部屋の空気が凍りついたような沈黙が流れる。
「べりるーーーっ!!」
その張りつめた空気を打ち破ったのは、クラウディスの歓喜の声だった。
ぱたぱたと駆け寄ったかと思えば、そのまま勢いよくその人物──ベリルコートの脚に飛びつく。
ベリルは一瞬目を細めたあと、静かに微笑んだ。
「お久しぶりです。……ずいぶん、綺麗に発音できるようになっていますね」
その言葉に、クラウディスは胸を張って「べーりるっ!」と再び呼んでみせた。
教皇はしばし呆然とその光景を見ていたが、やがてベリルがこちらに向き直る。
「教皇様──」
柔らかい、けれど芯の通った貴族らしい所作で、深く一礼をして続ける。
「ベリルコート・アイスベルルクと申します。ディーズベルダより、教皇様に協力するよう命を賜り、参上いたしました」
その言葉には、一点の曇りもない。完璧な礼節と品格に、教皇も背筋を正す。
「これは……ご丁寧にどうも」
だが──次の瞬間、思わず口から出てしまった。
「……えー……っと、失礼ですが……」
ベリルの整いすぎた顔を見つめながら、教皇は真顔で尋ねた。
「男性ですか? 女性ですか?」
部屋の空気が一瞬だけ固まった。
侍女たちがわずかに息を呑む中──
ベリルは何の表情も変えず、静かに応えた。
「アイスベルルク侯爵家の“次男”です」
その一言で、張りつめていた空気がわずかに和らぐ。
──しかし。
「あぁ……あなたが」
教皇が、ふっと微笑みながら言葉を継いだ。
「私の“番”になる方、ですか」
「………………はい?」
ベリルコートの眉が、かすかに動いた。
反応が追いつかない、とでも言うように、目だけがわずかに見開かれている。
「べりる! ままっ!」
その瞬間、クラウディスの元気な声が響いた。
腕を広げて飛びついてきた幼子に、ベリルは咄嗟に抱きとめる。
──だが、その言葉は決定打だった。
「…………………僕が……“まま”? ………………え?」
完全に硬直。
銀色の睫毛が一瞬揺れ、青い瞳がまばたきもせず宙を彷徨う。
その様子を見かねたように、教皇は小さく咳払いをひとつ。
軽く手を振ると、部屋の隅にいた侍女たちは心得たように静かに下がっていく。
扉が閉まり、静けさが戻ったところで──
教皇は、にこりともせず淡々と語り出した。
「実は……子どもが欲しかったのです」
「………………はい?」
「いえ、私自身に、という意味で」
ベリルコートは、ぴたりと動きを止めた。
その眉が、わずかにぴくりと跳ね上がる。
(…………僕、何をされてしまうのでしょうか)




