141.夜の森に、想いを重ねて
馬の足取りが、とうとう止まった。
「……っ、ここまで……ね」
ディーズベルダは、鞍の上からぐらりと身を起こし、馬の首筋をそっと撫でた。
荒く息をつくその馬は、限界をとうに越えていた。
長い距離を一気に走らせたせいで、汗が毛並みにまとわりつき、脚も小さく震えている。
「ごめんなさい……無理、させちゃったわね」
その声は、風に揺れる木の葉にまぎれて、どこか頼りなく響いた。
ディーズベルダはゆっくりと馬から降りると、水筒から冷たい水を出して器に注ぎ、それを馬の前に差し出す。
馬はわずかに頭を動かし、ありがたそうに水を飲みはじめた。
「……あなたも、頑張ってくれたものね」
目元に浮かんだ汗を拭いながら、彼女はふと森の奥へと目を向ける。
月明かりが木々の合間から差し込み、白く静かな光が地面にまだら模様を描いていた。
足元に落ち葉が敷かれたその先に、一本の大きな木が目に入る。
広い根元が、ちょうど背を預けるのに良さそうだった。
「……少しだけ、休ませてもらおうかしら」
ディーズベルダはふらりと歩み寄り、木の根元に腰を下ろした。
背中を幹にあずけた瞬間、肩から一気に力が抜けていく。
体中の筋肉が悲鳴を上げていたことに、そのとき初めて気がついた。
(……限界だったのね、わたしも)
頬にかかる髪を押さえながら、月を仰ぐ。
夜風がそっと頬を撫でた。
まぶたが重くなっていくその中で──ふと、彼女は懐かしい声を思い出していた。
「……お兄様……」
ぽつりと、こぼれた声が夜に溶けていく。
(思えば……まだ前世の記憶がなかった頃)
──アイスベルルク侯爵家は、当時、没落の瀬戸際にあった。
家計は火の車。父と母は日々、冷たく険しい表情を浮かべ、家中には笑い声など一切なかった。
そして、そんな両親は、子供たちに向ける愛情さえ削っていた。
幼いディーズベルダに与えられたのは、言葉でも抱擁でもなく、無関心という名の孤独だった。
それでも──
「……お兄様だけは……」
ベインダルは、そんな家の中でただ一人、彼女を守ってくれた。
厳しく、完璧を求め、冷たく見えるその態度の奥で──
彼は誰よりも繊細に、妹を見つめ、考えてくれていた。
泣いているのを見れば、理由は聞かずともそっとそばに座ってくれた。
体調を崩せば、無言で水を持ってきてくれた。
(無口で、気難しくて、ほんとに……“ザ・貴族”って感じの兄だけど)
それでも、わたしは知っている。
お兄様は、誰よりも優しい。
──そういえば。
初めてワックスを作ったときのこと。
試作品だったあの瓶を、家族は誰も興味を示さなかった。
だが。
「……ふむ。成分は?」
そう言って、真っ先に試してくれたのは、ベインダルだった。
無言で髪に手を通し、丁寧に撫でつけて──
見事なオールバックに仕上げたその姿は、衝撃的だった。
真顔で。
誇らしげに。
「……お兄様、それ……似合ってますわ」
そう言ったとき、彼は少しだけ目を細めていた。
──あのときから。
彼は、ずっとワックスを愛用してくれている。
今でも。完璧なまでに整えられた髪型を、ずっと。
けれど、そのあたたかい記憶のあとに──
じわりと胸に広がってきたのは、不安と、怖れだった。
(今も……戦っているの? 無事なの? どれだけ傷ついてるの?)
こらえきれない思いが、喉元までせり上がる。
「……お兄様…………」
その呟きと同時に、全身から力が抜け落ちた。
意識が、ふわりと遠のいていく。
深い闇が、そっと瞼の裏に広がって──
それは、気絶に近い眠りだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
──意識が、ふわりと遠のいていったはずだった。
けれど、次に感じたのは、どこか柔らかく、あたたかな感触。
陽の光が、まぶたの裏をやさしく照らしてくる。
「……ん……」
まぶたが、ゆっくりと動いた。
太陽の光がきらきらと降り注ぐ中、身体がぽかぽかと温かく、何ひとつ痛みがなかった。
まるで──
ひと眠りしただけの、穏やかな朝のように。
(……あれ……?)
まどろみの中、視界が少しずつクリアになっていく。
そこには──見慣れた黒髪と、紫の瞳。
そして、心臓が跳ねるほどに懐かしい、強くしなやかな腕。
「……エンディ……?」
その名を呼んだ瞬間、エンデクラウスの瞳が、そっと自分を見下ろした。
彼の腕の中で、自分がしっかりと抱かれていることに気づいたとき、ディーズベルダは一瞬だけ息を呑んだ。
彼の表情は──一見、いつもと変わらない。
けれど、目の下には薄く、疲労の影。
寝ていないことが、一目でわかった。
そして何より──
その瞳の奥には、静かな怒りが宿っていた。
「…………エンディ……どうして……ここに……」
ディーズベルダの声が震える。
その問いに、エンデクラウスはしばし沈黙したまま、自分の腕に納まる彼女を見つめ続けた。
そして──口を開く。
「ディズィ…………あなたは、酷い人だ」
その言葉は、驚くほど静かで、けれど芯があって──
心をじくりと責めるような響きだった。
「俺から離れるなんて。……片時も離れたくないと、あれほど言ったのに」
「それは……っ。でも……聖騎士が五人も重傷を負って……。心配で……」
絞り出すように言い訳を口にすると、エンデクラウスの紫の瞳が、ふっと細くなった。
「勝手に飛び出せば──あなたと同じように、俺が心配すると考えられませんでしたか?」
その言葉に、ディーズベルダは小さく息を飲んだ。
「……それは……ごめんなさい……。でも……本当に……体が勝手に……」
「体が勝手に“ベイル”を求めたのですか?」
ふと、目の前の彼の口元が、冷ややかに持ち上がる。
ディーズベルダの顔がかっと赤く染まった。
「ち、違うわよっ!? そんなんじゃなくて……!
ただ……お兄様のこと、本当に心配で……」
言い訳が苦しくなっていくなか、エンデクラウスは、彼女の耳元へと顔を寄せる。
そして──
「……まずはその思考から改善しなければなりませんね」
低く、甘く。
けれどどこか暗い声音で、囁くように言った。
「本来なら、咄嗟に“俺”を思い浮かべて、頼るべきでしょう?」
彼の吐息が耳をくすぐり、ディーズベルダの肩がビクリと震えた。
「……ごめん、なさい……。軽率だったわ……」
素直に、そう謝った彼女の声には、悔しさと申し訳なさが滲んでいた。
だがエンデクラウスは、まだ納得していないように、その腕に力を込める。
「……とはいえ──」
「……え?」
「ディズィがこのまま、別の男のことを考えているかと思うと……やっぱり腹が立つので」
彼はすっと立ち上がり、抱えたままの彼女をそっと馬車のほうへ歩かせる。
「……ダックルス辺境地へ、行ってみますか」
「エンディ……でもあなた、寝てないんでしょう?」
心配そうに見上げると、彼は一瞬だけ苦笑を見せ──そのとき。
「旦那様ー! 馬車の準備が整いましたぞー!」
遠くから、ジャケルのよく通る声が聞こえてきた。
エンデクラウスは、くすりと微笑んだ。
その唇の端には穏やかさが宿っていたが──瞳の奥は違った。
紫の深淵に燃えているのは、狂おしいほどの愛情。
渇ききった男がようやく水を得たかのように、彼女を見つめるその眼差しは、もはや祈りに近かった。
「……馬車の中で、あなたに膝枕でもしてもらうとしましょう」
その声音には、甘やかさと依存が混ざっていた。
ディーズベルダは息を呑みながらも、抗えなかった。
(……また狂わしちゃったかしら。)
恐ろしいほどに深く。
歪みすら愛に変えるほど、純粋に。
その腕に抱かれながら、彼女は幸福という名の檻に、自ら囚われていくのを感じていた。




