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138.頭よりも体が動く時

魔王城の玄関ホールに、静かに佇む一人の男──教皇。


手には、つい先ほど届いた封筒。中から取り出された便箋を、彼は目を細めてじっと見つめていた。


その横から、ふわりと軽やかな足取りが近づいてくる。

ディーズベルダだった。腕には、まだ夢の中にいるヴェルディアンが、小さな寝息を立てながら抱かれている。


「……どうしたんですか?」


小さな声で問いかけると、教皇はゆっくり顔を上げる。目元には、どこか影のような気配が宿っていた。


「いえ……。少々、気になる報せが届きまして」


言いにくそうにしながらも、彼は手紙の一節に指を滑らせ、ため息のように言葉をこぼした。


「戦地に送った聖騎士のうち、五名が重傷を負ったと──」


「……っ!」


その一言で、ディーズベルダの胸が強く締めつけられる。


頭にまず浮かんだのは──兄・ベインダルと、彼の婚約者エンリセアの顔だった。


(そんな……!)


教会の聖騎士といえば、ひとりで百人の兵を凌駕すると言われるほどの猛者たち。その彼らが五人も負傷──。


それが意味するのは、戦況がただごとではないということ。

戦場が、苛烈を極めているということだった。


(お兄様……リセちゃん……無事でいて!)


ぎゅっと唇をかみしめ、ディーズベルダは腕の中のヴェルディアンを見下ろした。


ほんの一瞬、ためらいがあった。

けれど、その目にはもう決意が宿っていた。


「行かなきゃ」


その言葉が出るよりも早く、彼女の腕は自然に動いていた。

小さな赤子を、そっと──だが迷いなく教皇の腕に押しつける。


「え? 夫人!?」


教皇の困惑した声が響くが、彼女の耳には届いていない。


「行かなきゃ!!」


ドレスの裾を翻し、長い髪を振り乱して、ディーズベルダは駆け出す。

足音が石の床を響かせ、玄関を抜けて一直線に廊下を走る。


――お願い、間に合って。


心の奥で、切なる願いが繰り返される。


誰かを守りたい。ただそれだけだった。


気づけば、もう彼女は厩舎の扉を押し開けていた。


(お兄様……リセちゃん……お願い、無事でいて!!)


◇ ◆ ◇ ◆ ◇


その頃──

城の外庭。整備された石畳を踏みしめながら、エンデクラウスはクラウディスを片腕に抱え、巨大な貯水槽の巡回をしていた。


「クラウ、お願いできるか?」


「みずーっ!」


小さな声とともに、クラウディスがちいさな両手をそっとかざす。

ふわりと空気が震え、青白い水の魔力が彼の手から溢れ出た。


貯水槽の底へ、水は澄んだ音を立てて注ぎ込まれていく。

やがて透明な水面がぴたりと一定に満ちると、エンデクラウスは満足そうに頷いた。


「よし……これで──」


その瞬間だった。


突如、頭の奥に電流が走ったような痺れ。

心臓の鼓動が一瞬跳ね上がり、背筋にぞわりと冷たい感覚が走る。


『聞こえますか……教皇です。夫人が、戦地へ──ダックルス辺境地へ向かって走ってしまいました』


まるで内側から直接響いてきたような声。

彼の中に宿る微かな雷の魔力が振動したかのような衝撃に、エンデクラウスは目を見開いた。


「なっ……!?」


驚愕と焦燥で胸が詰まり、咄嗟にクラウディスをぎゅっと強く抱きしめる。


「ぱぱ……?」


無垢な声が、不安そうに首を傾げる。だが、いまは応えてやる余裕すらなかった。


(ディズィ……何をしている……!)


理性が必死に制御しようとする前に、体が先に動いていた。

エンデクラウスはクラウディスをしっかりと抱きかかえたまま、全力で城内へと駆け出す。


靴音が石畳を打ち、外気を裂いて城門をくぐり抜ける。

そして──


「教皇!!」


玄関ホールには、ヴェルディアンを丁寧に抱く教皇の姿があった。


エンデクラウスは息を切らしながら、ほとんど飛び込むように駆け寄ると、躊躇なくクラウディスを差し出した。


「息子を頼みます!!」


「えっ!? ちょ──」


言いかけた教皇の言葉など聞こえていない。

そのまま振り返り、疾風のごとく駆け戻る。


「ディズィ……!」


胸の奥で何かが燃え上がる。


厩舎の扉を開け放ち、待たせていた馬の背に飛び乗ると、馬は主の気迫に応えるように、蹄で地を強く蹴った。


蹄音が夜の静けさを突き破り、風のように──稲妻のように──

エンデクラウスもまた、ディーズベルダを追い、戦地へと駆け出していった。


玄関に残された教皇は、小さくため息を漏らしながら、二人の子どもを見下ろす。


「……私は、ベビーシッターなのでしょうか」


肩をすくめるようにぼそりと漏らした教皇の言葉に、腕の中のクラウディスがにっこりと満面の笑みを浮かべる。


「べびー!」


小さな手をぱたぱたと動かしながら、天使のような声で返されて──

教皇は一瞬言葉を失い、そしてつい、苦笑を浮かべてしまった。


そのとき、廊下の奥から足音が静かに近づいてきた。


「おや……これは教皇様。子ども達と遊んでくださっていたのですか?」


姿を見せたのは、魔王城の執事長・ジャケルだった。いつもの落ち着いた口調と丁寧な所作で、軽く会釈しながら玄関に足を踏み入れる。


教皇は少し目を細めて、ヴェルディアンとクラウディスを見下ろしながら応える。


「これはこれは、ジャケル殿。いえ……実はですね」


教皇は手を軽く持ち上げると、どこか困ったように言葉を選んだ。


「私が──戦地に送った聖騎士のうち、五名が重傷との報せを夫人に伝えたところ、彼女は即座にこの子を私に託し、馬を駆って戦地へと向かわれまして……」


「えっ……?」


「その後、それをルーンガルド辺境伯にも伝えたら、彼も同じようにこの子を託し、追いかけてしまいまして……。つまり私は今──二人の子どもを抱えて、途方に暮れているところです」


顔の端を引きつらせながらの説明だったが、その目元にはどこか温かな憂いもにじんでいた。


だが──


「なんですと!? 行かねば!!」


ジャケルは目を見開いたかと思うと、もはや説明を待たずに身を翻し、驚くほど軽やかな足取りで廊下を走り出した。背中越しに「奥様を追います!」と声を残しながら。


教皇は一瞬、何が起きたのか理解できず、呆然とその背を見送る。


「……え」


玄関には、静けさが戻った──かに見えたが、


「きょーこーしゃま! あそぼー!」


クラウディスがぴょんっと腕を伸ばして、教皇のローブの裾を引っ張る。

その横で、ヴェルディアンが気持ちよさそうにすやすやと寝息を立てていた。


「……えぇ…………」


教皇はただひとこと、乾いた声を漏らし、顔を少しだけ天に向けた。


「……私、教皇なんですが……」


心の中では、かつて魔王と呼ばれ、世界の秩序を調整していた自分の立場が少し遠くなっていくのを感じていた──

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