135.アレと呼ばれる男
その夜。
ふかふかの寝具に包まれたキングサイズのベッドの中──
ディーズベルダは、隣にエンデクラウスのぬくもりを感じながらも、まぶたを閉じきれずにいた。天井を見つめ、思考だけが静かに巡っていく。
(……とりあえず、教皇が敵じゃなくてよかった)
あの人が味方で、しかも協力的でいることは、この広大すぎるルーンガルドを治めるうえで、奇跡に近い幸運だった。
魔物の制御、土地の開発、民の管理──今後に向けてやるべきことは山積みだ。
(次は……交通インフラ、かな。電車や船……まだずっと先だけど)
でも、すべてを前世のように“現代化”してしまうのは、違う気がしていた。
この世界の良さや、営みのリズムを壊してまで進める必要はない。
何より、自分ひとりの判断で決めるべきじゃない。
(また……エンディの意見も聞いて、ゆっくり考えないと)
そう、思ったときだった。
「ディズィ……」
ぬくもりが近づいて、腕がそっと自分の身体を抱き寄せてくる。
「ん? どうしたの?」
甘えたような声かと思えば──
「俺は嫉妬しています」
「え゛っ……」
目をぱちくりさせた。
そのあまりにストレートな一言に、胸がどくんと鳴る。
「俺だけが知っている名前だったのに……“依鈴”。」
その響きに、ディーズベルダ──依鈴の記憶が一気に蘇る。
そう。彼に前世の名を明かしたのは、15歳の頃。
エンディが、我が家──アイスベルク侯爵邸に住み始めて1年が経った頃のことだった。
彼はその夜、突然部屋に現れ、なぜか真顔で彼女の前にしゃがみ込むと──
「教えてくれるまで、ここをどきません」
そう言って、堂々とディーズベルダの膝を枕にして、そこに頭をのせたのだ。
(いや、意味が分からない……っ!)
当時は衝撃で、数秒フリーズしてしまった。 咄嗟に無視を決め込んだけれど、彼は本気だった。じっと動かない。
それどころか──
「知っていますよ。あなたが“異世界から来た”ということ」
と、まるで確信を持ったように囁かれた。
「……っ!? どこでそれを……!」
その反応で、自分はカマをかけられたとすぐ気づいた。
けれど──彼の言葉の中には、本当に“理解”している部分も混じっていた。
ひらがなだけなら、すでに彼はほぼ読めていた。
けれど、理解できていなかったのは漢字。
「依鈴」の名を書きつけていたのを、ずっと不思議に思っていたらしい。
(まぁ、あの時も思ったけど……この顔面で、膝の上って……)
あまりに顔が良すぎて、目のやり場に困ったのを覚えている。
好きなタイプすぎるのだ──というか、もはや目に毒だった。
──だから。
「依鈴……は名前。漢字ですよ」
「漢字?」
「えぇ。異世界、つまり私がいた世界では、ひらがな、カタカナ、そして漢字──この三種の文字で言葉を表現していました」
「……あれだけ聞いても教えてくれなかったのに、案外あっさり教えてくれるんですね」
そのとき彼が見せた、勝ち誇ったような、でもどこか不器用な笑顔。
(あなたの顔が良すぎるせいよ……!)
さっさと話して追い出したくて口を開いたはずだったのに──
不意に彼の手が、後頭部に添えられた。
次の瞬間。
まるで時がゆっくりと流れたかのように、距離はそのまま──そっと、唇が触れ合った。
「ん!? ちょっ、ちょっと!?」
ディーズベルダが驚いて身を引こうとするも、エンデクラウスはさらりと微笑み、少し首を傾けながら囁く。
「ディーズベルダ嬢。あなたのことをまたひとつ知れたのが、嬉しくて……つい、手が出てしまいました」
その声音はいつも通り落ち着いているのに、どこか熱っぽい。
ドキリと胸が跳ねて、彼女は顔を赤らめながら目をそらす。
「な、何するのよ……!」
責めるような声なのに、その響きはどこか弱い。
本気で怒ってはいないと、彼もすぐに悟ったのだろう。
「……良いじゃありませんか。初めてではないでしょう?」
「……あれは、あなたが私に毒を飲ませたからでしょ!!」
あの悪夢のような“ファーストキス”の記憶がフラッシュバックし、ディーズベルダは思わず声を張った。
けれど彼は涼しげに微笑んだまま、ゆっくりと指を絡めてくる。
「それだけではありません。婚約式でも……キスをしましたよ。つまりこれが──三回目、です」
さらっと言われたその事実に、思わず頬が熱くなる。
どうして彼は、こういう時だけ、しっかり数を覚えているのか。
(……ほんと、昔からぶっ飛んでるわよね)
その過去を思い出して、思わずディーズベルダはぷっと吹き出してしまう。
「ふふっ」
「なんです? 俺、今けっこう本気で焦がれているんですが」
ちょっと拗ねたようなトーンに、彼女は口元を押さえながら首を傾ける。
「初めて名前を教えた時のことを、ふと思い出しちゃって」
──まだ、ふたりが婚約して間もない頃。
毎晩のように彼は屋敷の一室にやって来て、なぜかディーズベルダの膝の上で寝ようとした。
どうしても“謎の文字”の意味が知りたいと、子犬のような目で見上げてきたあの顔は──今も、脳裏にはっきりと残っている。
「俺は今も昔も、変わっていませんよ。
こんなにも嫉妬して、焦がれて、あなたに夢中なんですから……」
そう言って、彼はふたたびディーズベルダの唇を奪った。
今度は、優しくも確かな温度を持ったキスだった。
彼女の心臓が跳ねる。
でも、拒まない──拒めなかった。
(……もう、何回目でもいいかも)
「大丈夫よ。身も心も、エンディのものです」
ディーズベルダは、そっと彼の胸元に顔を寄せる。
その声には、どこかくすぐったそうな甘さが含まれていた。
けれど、そのまま彼女はゆっくり顔を上げて──にやりと、ちょっと悪戯っぽく笑った。
「それに……私、エンディが焦ってる理由、知ってるわよ」
不意を突かれたように、エンデクラウスが瞬きをした。
「……え?」
ほんの一瞬だけ、いつも冷静な紫の瞳が揺れる。
彼の反応を確かめるように、ディーズベルダは言葉を続けた。
「だって──結婚の誓いに立ち会ってたのって、教皇様だったでしょ?
つまり、最上級クラスの誓いよ。教皇がその気になれば、いつでも誓いを破る権限を持ってる……」
その真意に気づいていたことを知った彼は、思わず視線をそらした。
(あ、図星だったわね)
そんな彼の顔を見て、ディーズベルダは少し得意げな気持ちになる。
「……誰かさんの妻になったおかげで、そういうところにも考えがいくようになったの」
いたずらっぽくウィンクする彼女に、エンデクラウスは一瞬だけ唇を引き結び──
「……そんなに聡くなられては、俺の立場がありませんね」
そう言いながら、彼はベッドの上で身を乗り出し、ディーズベルダのわき腹を優しくくすぐった。
「ひゃっ!? ちょ、ちょっと!! あははっ、くすぐったいってばっ!」
ベッドの上で身をよじるディーズベルダを、彼は楽しそうに見つめながら、その手をそっと引いて抱き寄せた。
ふたりの間に、くすくすとした笑いと、温かく満ちる空気が広がっていく。
やがて、少し落ち着いた空気が戻ったころ──エンデクラウスが、ぽつりと呟いた。
「……前から言おうと思ってたのですが、俺にも日本語を教えてくれませんか?」
「えっ、日本語?」
ディーズベルダはちょっと驚いた顔をして彼を見つめる。
「でも、日本語って……こっちの世界では意味ないわよ?それに、あれ、結構難しいのよ?」
彼は軽く首を傾げ、柔らかな笑みを浮かべた。
「ええ。でも……教皇が知っていて、俺が知らないっていうのが、少しモヤモヤするんです」
素直な言葉に、ディーズベルダの胸がふっと温かくなる。
(全く、この男は本当に、私のことを全部知りたいんだから。)
そして、自分もまた、彼にすべてを伝えたいと思っていることに気づく。
だから──彼女は微笑んで、そっと頷いた。
「ふふっ……しょうがないわね。特別に、教えてあげる」
「ありがとうございます、依鈴…。」
「ちょっ!その名前で呼ばないで!」
ふたりの笑い声が、夜の寝室にやさしく響いた。




