134.その目に、懐かしき時代の影
地下二階の奥──鉄扉のひとつに手をかけた教皇が、軽く肩の力を込めて開け放つ。
ギイィィ……と鈍い音と共に開いたその小部屋は、ほんのり潮の香りが残っていた。
「……あぁ、やはり。年数が経ちすぎていますね」
教皇が苦笑まじりに部屋を見回す。
中には朽ちかけた釣り竿や錆びたリール、割れた木箱やぼろぼろのバケツなどが散らばっていた。
棚に無造作に置かれた釣り餌の瓶はすでに中身が干からび、ラベルも色褪せて判別できない。
「当時はここで釣り道具を整えて、たまに海のほうまで足を運んでいたんですけどね……」
ぽつりと漏らす言葉に、どこか懐かしさが滲んでいた。
「まぁ、必要な道具があれば──ノートに型番が記載されていますから。なんなりと錬成してください」
その軽い口調に、ディーズベルダはくるりと振り向いて、肩をすくめてみせる。
「そうやって何でも使ってくださいって言って、私たちが“悪に染まった”と見なしたら──即排除、なんて考えてるんじゃないでしょうね?」
半分冗談、半分探りを込めた問い。
だが教皇は、動じることなく、静かに──むしろやわらかく頷いた。
「いえ、ご夫妻のことは、ある程度は目をつむりますよ。
ですが──ご子息は別です。クラウディス様の魔力量は、もはや並の魔導士では計れません。
下手をすれば──私が苦労して築き上げたこの“大陸”すら、ひと息で吹き飛ばされてしまう」
その言葉に、ディーズベルダとエンデクラウスは思わず顔を見合わせた。
(……なるほど。そりゃあ、警戒もするよね)
目の前に広がる人工の海、複雑に張り巡らされた排水管、階層を分けた研究施設……
どれも、“チート能力”があってなお、きっと時間と根気を注ぎ込んで作り上げたもの。
それを一瞬で無にされるなんて──考えるだけで、胃がきゅっとなる。
(……なんていうか……マ●クラで何週間もかけて建てたお城を、ク●ーパーに爆破された的な?)
想像してはいけないと思いながらも、頭に浮かんでしまうディーズベルダ。
心の中でそっと頭を振って、その妄想を振り払った。
「……というわけで。しばらくご厄介になりますね、ルーンガルド夫妻」
教皇が穏やかな笑みと共に告げたその言葉に、ディーズベルダは小さく頷きながら、ふと隣の夫を見た。
「エンディ、大丈夫?急に一人増えるけど……」
その問いに、エンデクラウスは即答する。迷いなんて一切ない。
「はい。俺は──ディズィさえいれば、あとはどうでもいいので」
その笑顔は眩しいほど真っ直ぐで、どこか狂気じみているほど。
(な、なんか怖いくらい真っ直ぐ……)
ディーズベルダは内心で小さく戦慄したが、それでも自然と笑みがこぼれてしまう。
「……うん。ま、いっか。エンディがそう言うなら、きっと何とかなるわよね」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
それから一行は、魔王城の地下から地上へと続く階段を上りながら、現在のルーンガルドの状況について教皇へと説明していた。
ディーズベルダが語った“モンスターウェーブ”という架空の危機の仕組み──
それは、外部からの視察時や、余所者に領地の本当の機能を悟られないために用意された“偽装された脅威”。
教皇はそれを聞くと、階段を踏みしめる足を一瞬止めて、興味深そうに小さくうなずいた。
「なるほど……これは非常によく考えられていますね。架空の脅威を設けることで、領地に干渉しようとする者に牽制をかけるわけですか。確かに、現実に脅威があるとされれば、この地を奪おうとする貴族も手を引く……」
「えぇ。だからその“設定”を裏付けるためにも、外壁は絶対に必要なのよ」
ディーズベルダが指先で空を指すようにしながらそう続けると、教皇は目を細めて小さく笑った。
「でしたら、外壁の建設にも協力させてください。せっかく“戻ってきた”のです。居候の礼くらいは」
「助かります。うちの建築家が泣いて喜ぶわね」
そんなやり取りをしながら、重厚な石造りの階段を最後の一段まで上りきった──そのときだった。
「ぱぱーっ!! ままーっ!!」
甲高く弾んだ声が廊下に響いたかと思えば、一直線に駆けてくる小さな影。
「クラウ──ッ!」
ディーズベルダが思わず腕を広げると、銀色の髪を揺らしながらクラウディスが勢いよく飛び込んできた。
短い脚を一生懸命動かして駆け寄る姿に、部屋の空気が一瞬でやわらかくなる。
「ほらほら、転ばないように──」
エンデクラウスが自然にその小さな体を抱き上げると、クラウディスは腕の中で嬉しそうに笑った。
「こわいのーおわった?」
「うん、もう大丈夫よ。ありがと、待っててくれて」
ディーズベルダはそっとクラウディスの頬にキスを落とし、頷く。
「……ふふ。癒されますね」
教皇は微笑みながら、クラウディスの笑顔に目を細める。
その視線は、ただの慈愛ではなかった。まるで遥か昔──彼自身がまだ何者でもなかった時代に、誰かから注がれた優しい眼差しを思い出しているかのように。
「昔は、雷属性さえ備えていれば、テレパシーのように心を通わせることもできたのですよ」
ぽつりと語られた言葉に、ディーズベルダとエンデクラウスがふと視線を向ける。
教皇は何気なく語るようで、その瞳の奥には微かな寂しさがにじんでいた。
「でも……今の人類は、だいぶ“退化”してしまいましたね。」
「それでも、こうして支え合える人たちがいるなら、悪いことばかりでもありませんよ」
ディーズベルダがそう返すと、教皇はほんの少しだけ笑みを深くする。
「そうですね。──あなた方のような人々がいる限りは」
その空気を和ませるように、エンデクラウスが話題を切り替える。
「教皇殿、今夜はどちらのお部屋をお使いになりますか? 四階には空き部屋が多く、眺めも良いので、ゆっくりお休みいただけます」
「いえ、それには及びません」
教皇はそっと手を振って断りの意思を示した。
「今晩中に、教会を建てるつもりです。そちらに住まいを構えましょう。少々、土地をお借りしても?」
「もちろん。空いている土地ならございますが……」
エンデクラウスはそう答えながら、近くの壁にかかっていた大きな地図に歩み寄る。
クラウディスを片腕でしっかりと抱きながら、もう片手で迷いなく一点を指し示した。
「住宅地の中心部──ここなど、いかがでしょう。将来的に領民たちが挙式を挙げる際にも利用しやすく、アクセスも良い場所です」
その指先が指す場所は、ちょうど円形広場の中心に位置する空き地だった。
陽の光がよく届き、遠くからでも視認できる開けた場所。まさに“祈りの場”にはうってつけだった。
教皇はその場所をじっと見つめ、静かに頷く。
「……とても良い場所です。そこに、ささやかな祈りの塔を建てさせていただきましょう。ありがとうございます」
「どういたしまして。こちらこそ、心強いです」
エンデクラウスの言葉には、どこか深い思惑も含まれていた。
敵でも味方でもない──それでも“同類”である教皇の存在は、この広すぎるルーンガルドの地において、決して小さくない意味を持つ。
そして、ディーズベルダもまた、そんなやりとりを見つめながら、少しだけ肩の力を抜いた。




