132.名前で呼ぶな!
罪を背負い、孤独を選び、それでもなお、世界の均衡を保とうとしてきた──
教皇という存在の、その背後にある年月の重みを想像するだけで、ディーズベルダの胸はじんわりと痛んだ。
……けれど。
(なんとなく、だけど──)
ふと、視線を落とした彼女の脳裏に浮かんだのは、あの“魔王の手記”。
ただの記録帳ではなかった。
それは、かつてこの地に生きた転生者の足跡であり、生活の断片であり──ゲーム好きの一面すら垣間見える、雑多で人間くさいノートだった。
(……たしか「教皇って楽しそう」とか、「ド●クエっぽい世界にしたい」とか、「モ●ハ●やりたい」とか……そんなことまで書いてあったわよね)
厳粛な錬成コマンドのすぐ隣に、ふいに差し込まれるユルい一言。
真面目な顔をしながらも、根はどうしようもなく“遊び心”にあふれていた。
(……もしかして、この人。“教皇”って立場、ちょっと楽しんでるんじゃ……?)
そんな想像が浮かび、ディーズベルダは思わず眉をぴくりと動かした。
(いや、もちろん悪いことじゃないけど……)
ちらりと目を向けると、教皇は、完璧な姿勢でソファに腰かけ、表情ひとつ崩さず、“教皇”としての役割をまっとうしていた。
……それがまるで、舞台の上の役者のように見えてしまったのは、気のせいだろうか。
(……うん。絶対、楽しんでる)
「ディーズベルダ様?」
教皇の柔らかな声が、静かに思考の渦を断ち切る。
ハッとして顔を上げた彼女は、少しだけ照れ隠しのように微笑んだ。
「いえ、なんでもありません。続きをどうぞ」
──きっと彼は、“魔王”だった。
でもそれと同時に、“ゲーマー”で、“ロールプレイヤー”で──
今を、“教皇”というキャラクターとして生きている。
その在り方が、不思議と憎めない。
ディーズベルダはそう感じながら、ふと唇に苦笑を浮かべた。
ただし、その笑みの裏に、警戒心の火は消えていない。
(……きっと、悪い人ではない。だけど──問題は、“どこまでが本気か”ってことよね)
そんな想いを胸にしまい込んだその時、教皇は、淡々とした口調で口を開いた。
「教会という立場もようやく安定してきましたし、そろそろ“戻って”もいい頃合いかと考えまして……。もちろん、完全に移住するというわけではありませんよ。教会の管理もありますから、行き来は必要になります」
その声は穏やかで、どこか“ただの説明”のように軽く響いていた。
「ですが……」
彼の視線が、ディーズベルダとエンデクラウスの間にある“見えない装置”へと向いた。
「例の装置──錬成機について、いくつか言っておきたいこともありまして。今後のことを考えるなら、見過ごせない要素がいくつかあるのです」
その瞬間、場の空気がわずかに張り詰めた。
しかしエンデクラウスは、静かに息を吐くと、険しい表情のまま問いかけた。
「……それよりも先に、ひとつだけ聞かせていただきたい」
「なにか?」
「なぜ、クラウディスに聖属性を“付与”したのですか」
その問いに、教皇はふっと目を細めた。
「やはり、気づいておられましたか」
と、まるで確認するように頷くと、柔らかく言葉を続けた。
「装置によって生まれた子──そう察しました。知識と反応、そして成長速度。二歳とは思えぬ聡明さに、既視感があったものです」
「……どうしてそれが分かったのですか?」
「経験です。かつて、私も“彼”らを生み出していた時期がありますから」
ディーズベルダの脳裏に、あの時の記憶がよぎる。
──生まれたばかりのクラウディスに、初めて絵本を見せたときのこと。
「これは?」と問いかけると、たどたどしくも正確に、その絵を指して「ぞうさん」「かさ」「うみ」と答えてみせた。
数字や色、果ては調味料の名前まで。知らないはずの言葉を、当然のように使っていた。
でも、泣き虫で、すぐに甘えたがって、抱っこをせがんでくる──
その感情の部分は、まさに“ただの二歳児”だった。
ディーズベルダはそっと頷く。
「……はい。その通りです」
「ふふ、やはりですね」
教皇は、まるで懐かしい日記を読み返すような穏やかな口調で続けた。
「私はあの装置で、人を作るにあたり、“学習の手間”を省くため、あらかじめ必要な知識を与えていました。何もない場所で、一から教えるのは非効率ですから」
(……やっぱり、そうだったんだ)
教皇はクラウディスに視線を向け、柔らかく微笑んだ。
「まぁ、一応“危険な存在”とも言えますから、念のため、聖属性を付与し、もし将来、悪の道に堕ちるようなことがあれば、教会で管理ができるように措置を取らせていただきました」
「管理……」と、思わずエンデクラウスが低く呟く。
だが教皇は、そんな緊張感をほぐすように、冗談めかした声で続けた。
「もちろん、現在は健やかにお育ちのようですし、監視や干渉を行うつもりはありませんよ。心配なさらずに」
その微笑みは、教皇という立場の仮面を外した、どこか“人間味”すら感じさせるものだった。
「……じゃあ、本当に、私たちを助けようと?」
ディーズベルダが慎重に問いかけると、教皇は静かに頷いた。
「はい。そのつもりです。何より、同じ世界を越えてきた者同士。協力できれば嬉しい限りです」
そして、ふと思い出したように、教皇が言葉を添える。
「ところで、鈴村さんは──」
「ディーズベルダでお願いします……」
そう、きっぱりと名乗り直した彼女の瞳には、揺るぎのない意思が宿っていた。
「私はもう“ディーズベルダ・ルーンガルド”ですから」
それを聞いて、隣のエンデクラウスがふいに口を開いた。
「いいえ、“ルーンガルド夫人”で」
きっぱりと、迷いのない声音でそう言い切る夫に、ディーズベルダは一瞬ぽかんとした。
(え、エンディ……? 今、教皇相手にその主張するの……?)
内心で軽くつっこみながらも、その声にはほんのりと嬉しさが滲んでいた。
教皇は小さく笑い、咳払いで場を整える。
「コホンッ……では、“夫人”。夫人は、どのような固有能力をお持ちで?」
ディーズベルダは背筋を伸ばし、ためらいなく答える。
「私の固有能力は──“心の図書館”。 前世で得た知識が詰まった図書館に意識を飛ばし、必要な情報を引き出せる力です」
それを聞いた教皇の目が、わずかに見開かれた。
「なるほど! それで、前世の様々な家電製品や技術をこちらで再現されているわけですね」
彼は感心したように何度も頷きながら続けた。
「中でも──遠隔通信が可能な“宝玉”の魔道具。あれは本当に素晴らしい。王都からも高く評価されていましたよ。あれほど完成度の高い装置は、私には到底……」
教皇の声に、どこか悔しさと羨望の色が滲む。
「私の固有能力“錬成装置”は、召喚型のカタログから選んで錬成するしかなく、しかも魔力消費が激しい。召喚するだけで寝込むほどですから……。汎用性に乏しいんです」
「それで、“ノート”に書き写していたんですね?」
ディーズベルダが思い当たったように言うと、教皇は素直に頷いた。
「はい。その通りです。あれは、備忘録であり、記録であり……自己満足の落書き帳でもありますね」
その口調は、どこか恥ずかしそうで、けれど愛おしむようでもあった。
ディーズベルダは思わず、ふっと笑みを漏らす。
(ほんと、やっぱり“悪い人”じゃないのよね)
でも、どこか抜け目のなさも感じる。そう──彼は転生者であり、“魔王”であり、そして“教皇”という名の舞台で、役を楽しんでいる“プレイヤー”でもある。
それでも、彼の申し出が本気であるなら、こちらもその誠意を信じる必要がある。
そう思いながら、ディーズベルダはそっと隣のエンデクラウスに目を向けた。 彼は微笑んで──しかし鋭い視線のまま、教皇の言葉の裏を見極めようとしていた。
その姿に、ディーズベルダも小さく息を整える。
(さて……ここから、どう出るかしら)




