130.教皇現る
王都・中央神殿前──。
この日は朝から、記者たちがざわめき立っていた。
情報を嗅ぎつけた者たちが、教皇の出発をひと目見ようと集まり、
その美しい姿を写真に収めるべく、神殿前は軽い騒動のような熱気に包まれていた。
だが──待てど暮らせど、その姿は現れなかった。
何故なら、教皇は既に、誰よりも早く“現地”へと赴いていたからだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ルーンガルド──魔王城、一階の正面玄関。
重厚な扉が開かれ、朝の光が真新しい石畳を照らす中、
ルーンガルド一家は整然とした姿で来客を迎えていた。
エンデクラウスが一歩前に出て、優雅な所作で一礼する。
「ようこそ、ルーンガルドへ。教皇陛下。心より歓迎いたします」
その傍らで、クラウディスが父を真似て、小さな体をぺこりと前に倒した。
「よーこしょ!きょーこーさま!」
──その姿があまりにも愛らしくて、出迎えの者たちから小さな笑い声が漏れる。
教皇は微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと視線を向けた。
映像越しではわかりづらかったその姿──
まるで夢幻の中から抜け出してきたような、現実離れした美しさ。
真っ直ぐに伸びた白銀の長髪は月光のように輝き、
その瞳は、宝石のように透き通った金色。
どこか、ディーズベルダの兄・ベリルコートを思わせる中性的な気品と、
それでいて超然とした神聖さを併せ持っていた。
ディーズベルダはその姿を見た瞬間、声を上げた。
「やっぱり!!! 私たちの結婚式の時、祭壇にいたのって……教皇様だったのね!?」
教皇はその声に、ふわりとした微笑みを返しながら頷く。
「はい。お会いするのは、これで二度目ですね、ディーズベルダ様」
その言葉に、ディーズベルダは思わず頬を赤らめた。
(やっぱり……どこかで見たと思ったのよね)
その場の空気はどこか穏やかだったが──
エンデクラウスは一歩引いた場所から教皇を見つめ、
わずかに視線を鋭くしていた。
美しさの裏にある“違和感”──
どこか、つかみきれない異質な気配に、
彼の警戒心が密かに高まっていたのだ。
けれど、その腕の中で無邪気に笑うクラウディスは、
そんな父の不安をよそに、にこにこしながら可愛らしいポーズを次々と披露していた。
「きょーこーさまー、みてぇぇー!」
「はーとっ♡」
クラウディスはエンデクラウスの腕の中で、得意げに指でハートの形を作ってみせる。
その愛らしいポーズに、出迎えのメイドたちはこっそり頬を押さえ、完全にノックアウトされていた。
だが──その瞬間、教皇は一歩、クラウディスの前へと進み出た。
「これはこれは……なんとも純粋で、美しい心ですね」
ゆっくりと手を伸ばすと、クラウディスの額に、まるで羽が触れるような柔らかさで唇を寄せた。
「っ……!」
ディーズベルダとエンデクラウスが息を呑むのと同時に、
淡い光が一瞬、クラウディスの額に走る。
「これであなたは、聖属性も獲得できましたよ」
教皇は静かにそう告げると、微笑んだまま後ろに下がる。
「せーぞくせー!」
クラウディスは、まるでご褒美でももらったかのように無邪気に笑いながら、先ほど教皇が口にした言葉を繰り返す。
小さな両手を広げ、喜びの舞でも踊るようにくるくると身体を揺らした。
──その笑顔の裏で、ルーンガルド夫妻の顔からは、見る間に血の気が引いていった。
「な、なにをしていらっしゃるのですか!?」
エンデクラウスが思わず一歩前へ出て、声を上げる。
教皇という高位の存在を前にしてもなお、その声音には明らかな怒気が滲んでいた。
クラウディスは何も知らずにニコニコと笑いながら、小さな掌をぐっと握り──
「つかいまーす!」
──次の瞬間、彼の手のひらから、聖属性特有の柔らかな光がふわりとあふれ出た。
「っ……!!」
その場の空気が、まるで時間ごと止まったかのように静まり返る。
「……ご挨拶がまだでしたね」
まるで何事もなかったかのように、教皇は微笑んだまま、淡々と名乗った。
「教皇──いえ。私の本来の名は、小林昌と申します」
柔らかく微笑みながら告げられたその言葉は、まるで深海に沈んだ鐘の音のように、静かに、けれど確実に空気を震わせた。
「え……」
ディーズベルダの瞳が見開かれた。
口元がわずかに開き、声にならない言葉が空を切る。
その名を聞いた瞬間、胸の奥に鋭い衝撃が突き抜けた。
“小林”という姓が、決してこの異世界のものではないと、はっきりと告げていた。
(この人……日本人。私と同じ、転生者……!?)
冷や汗がじわりと背中を伝い、足元の感覚が少し遠のく。
「ディズィ!?」
エンデクラウスの低く鋭い声が、現実へと彼女を引き戻した。
彼の顔には明らかな警戒と不安が滲んでいた。
その手が無意識にディーズベルダの腕に触れ、彼女を守るようにそっと位置を変える。
「失礼ですが……お名前を、伺ってもよろしいですか?」
今度は、教皇の方が問いかけてきた。
その目には興味の色が浮かび、まるで答えをすでに知っているような確信すら感じられる。
ディーズベルダは一瞬ためらい──けれど、ゆっくりと深く息を吸ってから、静かに名乗った。
「……ディーズベルダ……………鈴村 依鈴です」
その言葉を口にした瞬間、部屋の空気がさらに重くなった気がした。
それは彼女が、前世で使っていた“本当の名前”。
「鈴にはじまり、鈴で終わる。……面白い名前ですね」
教皇は、微笑みを崩さずにそう言った。
その声音には、懐かしさとも、皮肉とも取れる曖昧な響きがあった。
(この人……私のこと、最初からわかってて……)
ディーズベルダの胸に、ひやりとした感情がわき上がる。
エンデクラウスは、それを察したように目を細め、冷ややかな視線で教皇を睨みつけていた。
その視線には、はっきりとした敵意と──「何かあれば即座に排除する」という、無言の圧力が込められている。
教皇は、それにも動じることなく、あくまで柔らかな態度を崩さない。
だが、その静けさが、逆に底知れぬ不気味さを帯びていた。
──まるで、すべてを見透かし、計算ずくでここに現れた者のように。
(どうして……今このタイミングで、私たちの前に?)




