13.ボディークリーム
「どうしてダメなの?」
戸惑いながらも彼を見つめ返すと、エンデクラウスはゆっくりと言葉を続けた。
「俺は強大な魔力を持って生まれました。」
紫色の瞳が、一瞬だけ遠い記憶を思い出すように細められる。
「ですから、俺とディズィとの子なら……普通の手袋じゃ抑えきれないと思うんです。」
「え!? そっち!?」
ディーズベルダは、思わず声を上げた。
彼が心配していたのは、クラウディスの魔力量そのものが常識の範囲を超えている可能性だった。
(確かに、エンディの魔力量は規格外……。)
「じゃあ、どうすれば……。」
「あなたが開発したボディクリームがあれば大丈夫です。」
「えぇ!? あれ!?」
思わず、間抜けな声が出た。
エンデクラウスは微笑みながら頷く。
「はい。」
「ちょっと待って……。あれって、魔力制御用に作ったものじゃないわよ!?」
「でも、手のひらにクリームがつくと、魔法が使えなくなると騒がれたでしょう?」
「……あ。」
ディーズベルダは、一瞬あの時の出来事を思い出し、顔をしかめた。
——あれは、彼女が貴族向けの美容品として開発したボディクリーム第一号だった。
本来は、保湿効果を重視した高級スキンケア用品として売り出したものだった。
しかし、なぜか使用した貴族たちの間で——
「これを手のひらにつけたら、魔法が発動しない!?」
「手のひらに塗るときは気をつけないと……!」
——と、妙な噂が広まってしまった。
結果として、魔導士や魔法を使う貴族たちの間で「使いづらい」と敬遠され、売れ行きがガタ落ち。
『貴族にとっては致命的です!』
『せめて手のひらだけでも別の仕様にできませんか!?』
そんな声が多く寄せられ、販売は大失敗かと思われた——。
しかし、その裏で——
(でも、どこかの誰かが大量に買ってくれたおかげで、商売としては成り立ったのよね……。)
結局、ボディクリームは一部の顧客向けに受注生産へと切り替え、
すぐに販売戦略を変更して、化粧水や乳液をメインに販売することになった。
(まさか、こんな使い道があったなんて……。)
「わかったわ。すぐに手配する。いくつか持ってきたはずだし。」
ディーズベルダは気を取り直し、倉庫の在庫を思い返す。
貴族女性たちに好評だったボディクリームは、大量に作り置きしていたはずだ。
「それなら、俺も材料を揃えておきます。」
エンデクラウスが落ち着いた声でそう言うと、ディーズベルダは彼の顔を見つめた。
(……本当に、この人はすごい。)
すぐに最善の策を考え、行動に移す。
そして、それがまた的確だから悔しい。
「クラウディスを守るために、早急に準備しましょう。」
「えぇ。」
ディーズベルダは深く頷きながら、部屋を出ていった。
彼女の心の中には、まだ整理しきれない感情が渦巻いていた——。
(それにしても、まさかスキンケア用品が育児に役立つなんて……。)
まさに異世界、予想外の活躍だった。
◇◆◇◆◇
しばらくして——。
ディーズベルダは、クラウディスの小さな手に特注の手袋をはめてみた。
(これで、少しは魔力の放出が抑えられるはず……。)
クラウディスは最初、きょとんとした顔をしていたが——
「みー!」
パシャッ!
(……え?)
普通に水が出た。
ディーズベルダはしばらく硬直し、もう一度確認する。
「クラウディス? ちょっと手を見せて?」
小さな両手を取って観察するが、手袋はしっかりはまっている。
なのに、クラウディスは手袋の上から普通に水を放出しながら遊んでいるのだ。
(……やっぱりダメね。)
確かに手袋は魔力の制御には有効なはずだった。
しかし、それは普通の魔力を持つ者の話。
クラウディスの魔力は、手袋では抑えきれないほど強いのだろう。
(というか、魔力が暴走してるわけじゃなくて、本人が遊んでるだけよね……。)
楽しそうに水を放出しては、手でバシャバシャと叩くクラウディス。
まるで、ただの水遊びの感覚で魔法を使っている。
ディーズベルダは深いため息をついた。
「……しょうがないわね。」
——数分後。
ディーズベルダはボディクリームを手に取り、クラウディスの肌に優しく塗り込んだ。
ほんのり甘い香りのする特製クリーム。
——魔力を抑える効果があると気づいた、例のものだ。
「ほら、いい子ね。じっとしてて?」
クラウディスは最初、気持ちよさそうにしていた。
しかし——
「……ま?」
パシャッ!
水が出なくなった瞬間、クラウディスの表情が一変した。
「……まー!!!」
大きな目を潤ませて、ディーズベルダを見つめる。
(え、泣きそう!?)
クラウディスは何度も手を振り、水を出そうとする。
しかし、出ない。
「んー! んー! みーー!!」
ぷくーっと頬を膨らませ、明らかに不機嫌になった。
(えええ……なんか悪いことした気分。)
「クラウディス、お水はまた後でね? 今は魔法の練習はお休み。」
優しくなだめるが、クラウディスはまだ納得がいかない様子。
「んー!! みぅ!!」
(かわいい……じゃなくて。)
「ねぇ、エンディ。これ、しばらく続きそうなんだけど?」
隣を見ると——。
(……あ、そうだった……。)
エンデクラウスはすでに、農業地帯の区画指示を出しに出かけた後だった。
ディーズベルダは、彼が事前に話していた計画を思い出す。
魔王城が荒れ地に入って目に届く位置にあるため、
農業地帯を広げるには、外部の目に触れないよう、魔王城の裏側に作る必要があった。
ただでさえ、"モンスターウェーブ"という嘘の脅威を設定し、
この地に貴族や王族の関与を避けさせている今、
万が一にも大規模な開拓が進んでいることを知られるわけにはいかない。
だからこそ、農地を隠すように植林も並行して行う計画だった。
つまり、今は的確な指示が必要な大事な時だ。
エンデクラウスは、騎士団とともにその配置を調整しているのだろう。
それなら、彼が戻ってくるまでは自分もできることをやらなければ。
「はぁ……。頑張らないとね。お母さんだし。」
ディーズベルダは、小さくため息をつきながら、膨れっ面のクラウディスを抱きしめた。
——その瞬間、ふと考え込む。
今の私の体って、どこまで"普通"なのかしら?
確かに、魂は転生者のもの。
だけど、今のこの身体の"祖先"は、あの装置から生まれた存在だ。
(つまり、私は地球の常識で考えていいものなのかすら分からない。)
そもそも、私の血がどんな遺伝情報を持っているのかも、
この世界の人体が、どんな仕組みでできているのかも——
(もしかすると、私の体も"純粋な人間"ではないのかもしれないわね。)
いくら転生者とはいえ、ここは"異世界"だ。
地球の理論が通用する保証なんてない。
むしろ、宇宙人の体に転生したようなものかもしれない。
考えれば考えるほど、わからないことが増えていく。
ディーズベルダは、ふっと小さく息をついた。
(……まぁ、深く考えても仕方ないわね。)
ディーズベルダは、ふにゃっと笑いながら、クラウディスの柔らかい髪を撫でた。
「よしよし、もう少ししたら、お水で遊んでいいからね。」
「……ま?」
クラウディスは、少し不機嫌そうに眉を寄せながらも、
母の声に安心したのか、ぎゅっとディーズベルダの服を掴んで小さく頷いた。
(ふふ、ちゃんと聞き分けはいいのよね。)
この子の魔力制御も、開拓も、考えることはたくさんあるけれど——
(きっと、大丈夫。)
ディーズベルダは、母としての決意を新たに、クラウディスを優しくあやし続けた。