126.ご褒美
数週間後、ルーンガルドの開拓地には、早くも第一便の資材が届き始めていた。
王都や周辺領地から取り寄せた高品質のグラニットは、磨かれた灰白の石肌が美しく、見る者に圧倒的な安心感と重厚さを与えていた。
外壁建設の準備が着々と進むなか、魔王城では――
執務室に呼び出されたディルコフ・ドルトールが、落ち着きのない足取りで扉をノックしていた。
「失礼します。……どうされましたか? 蚕のほうは、順調に繭を作り始めておりますよ」
やや自信ありげな笑みを浮かべて入室したディルコフだったが、
部屋の中に並ぶ顔ぶれ──ディーズベルダ、エンデクラウス、そしてジャケル──のただならぬ空気に、スッと背筋が伸びる。
「そのことなんだけど」
ディーズベルダが微笑みながら立ち上がり、言葉を続ける。
「やっと、飼育員が見つかったの」
「……ほ、本当ですか!?」
ディルコフの目が一気に輝く。
それはまさに、長期戦からの解放を告げられた兵士のような喜びの表情だった。
「とうとう……ついに私は自由に……!」
しかし。
「えぇ。でも」
ディーズベルダの口元に、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「次の仕事に、取りかかってほしいの」
「……………え?」
時が止まった。
まばたきすら忘れたような顔で、ディルコフは絶句する。
表情から血の気が引いていくのが、視覚的に分かるレベルだった。
「そ、そんな……」
「まぁまぁ、まずはその前に」
と、エンデクラウスが優しく口を挟む。
「ディルコフ、あなたにはこれまで本当に多大な貢献をしていただきました。
そこで……正式に、報酬を受け取ってもらえませんか?」
その言葉に、ジャケルが静かに頷き、扉の奥から数人の係を呼び込む。
次々と運び込まれてくる──木箱、木箱、木箱。
蓋が開けられると、中にはぎっしりと詰まった金貨が輝きを放っていた。
その数、五箱。どの箱も、ずっしりと床に沈むほどの重み。
「こ、こ、これは……!?」
目の前の光景に、ディルコフの声が裏返る。
「あなたへの報酬です」
エンデクラウスがにこやかに告げるその笑顔には、もはや神々しさすらあった。
ディルコフは箱の山を前に、しばし呆然と立ち尽くした。
一歩下がって眺め、もう一度前に出て数えてみる。
(ま、待ってくれ……これは……一生遊んで暮らせるくらいある……!
だが、だが待てよ……もしこれを受け取ってしまったら……)
脳内で冷や汗の嵐が吹き荒れる。
(これは“買収”だ。いや、“前払い”だ……いや、“終身雇用の地獄契約”!?)
ぐるぐると回る思考。心の中のディルコフが何人も集まって緊急会議を開いていた。
(どうする!? 受け取るか!? いや断るか!? ……でも、金……!)
そして──
「……あ、ありがたく……頂戴します……!」
カクカクとした動きで頭を下げながら、ディルコフは箱に手をかけた。
ディーズベルダは、くすりと微笑む。
「ふふ……やっぱりお金に弱いのね」
エンデクラウスは静かに頷いた。
「……ですが、それでも、彼は決して手を抜かない男ですから」
報酬は、誠意であり、信頼であり、そして次なる試練への道標だった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その日、青空の下、石材を積んだ大きな荷馬車と共に、ディルコフは騎士たちを引き連れて国境方面へ向かっていった。
荷馬車の車輪が乾いた土を踏みしめ、鈍く重たい音を立てながら進んでいく。
「それじゃ、行ってきますよー!」
遠くから響くディルコフの元気な声が、風に乗って魔王城の方へと届く。
その姿を──
エンデクラウスとディーズベルダは、魔王城の二階、寝室の窓辺から見送っていた。
柔らかなカーテンが揺れる窓辺に並び、肩を寄せるようにして、ふたりは静かに外を眺めている。
「……ディズィ、今さらですが」
ふと、エンデクラウスが目を細めながら問いかける。
「ディルコフの荷馬車に、何か入れてませんでしたか?」
「……あら、ばれた?」
ディーズベルダが肩をすくめ、くすりと笑った。
「うん。地下室の装置で、久々に“錬成”したのよ。カップラーメンをね」
「やはり……」
「大丈夫よ。騎士たちにはちゃんと作り方を教えておいたし、お湯の準備も完璧。
ディルコフ、好きでしょ?ああいう味」
「ええ、絶対に喜びますね。あの人のテンションの上がり方、目に浮かびます」
そう言って笑ったエンデクラウスは、そっとディーズベルダの背中に手を回し、そのまま後ろから優しく抱きしめた。
「……全く、とんでもない悪女です」
「えぇっ!? どこがよ!」
ディーズベルダが振り返ると、エンデクラウスは微笑みながら彼女をそのまま抱きかかえ、ベッドへと運んでいく。
「どこって……」
ベッドに腰を下ろすと、ディーズベルダを膝の上に乗せ、その目を真っ直ぐに見つめた。
「俺のように──あなた無しではいられない体にしていくところ、です」
その声音はいつになく真剣で、けれどどこか照れくさそうでもあって。
ディーズベルダは一瞬だけ目を見開き、すぐに口元を緩める。
「……それって、もしかして」
いたずらっぽく微笑みながら、エンデクラウスの胸元に指先を軽く押し当てる。
「やきもち?」
その問いに、彼はほんの一瞬、返事を迷ったような間を置いて──
ゆっくりと、満足げに目を細めて、こう言った。
「……かもしれませんね」
そう言って微笑んだエンデクラウスの胸に、ディーズベルダはそっと身体を預けた。
背中にまわされた腕があたたかくて、守られていると実感できる。
「……ここにいると、貴族だとか、そういうこと全部忘れちゃいそう……」
小さく呟いた彼女の声は、まるで自分に言い聞かせるように、少しだけ震えていた。
エンデクラウスは、そんなディーズベルダの髪に顔を寄せながら、静かに囁く。
「……そうですね。
ここは──いずれ、誰かにとっての“理想郷”となることでしょう。
あなたが創るのですから」
その言葉に、ディーズベルダは自然と微笑む。
けれどすぐに、現実を思い出すように目線を上げた。
「……でもやっぱり、人手が足りないわね。
このままだと、建設も畑の整備も手が回らなくなるわ」
「そのことですが」
エンデクラウスは思案するように顎に手を当て、視線を窓の外に向けた。
「国外の貧民を受け入れるのはどうでしょうか。
まずは言語が共通する近隣諸国から……。
職を求めている者は多いはずです」
「……なるほど。確かに、労働力としてはありがたいわね」
ディーズベルダは膝の上で指を組みながら、考え込む。
「でも、それだと──スパイとか、混じってくるわよ?」
「えぇ、当然そのリスクはあります。だからこそ、“出さなければいい”のです。
この領地から外に出られる手段は限られています。壁さえ完成してしまえば、唯一の出入り口はエルキン村に建てる門──それと、海だけ」
「……確かに。あの広さに囲いをつくれば、出入りの管理はできるわね」
「そして、重要な仕事を任せる者には──“誓約書”を交わさせましょう」
「誓約書?」
エンデクラウスは頷いた。
「聖属性の力を借りて、契約の文言を刻みます。誓いを破ったときは生命活動に必要な力を失う。もしくは……“見張りの目”が作動する。そうすれば裏切りや情報漏洩はかなり防げます」
「すごいわ、それ。……さすがエンディ」
ディーズベルダの瞳に、尊敬の色が浮かぶ。
それは単なる夫婦の愛情ではない。“共に築く者”としての、強い信頼だった。
「ふふ……さて──」
エンデクラウスが、わずかに口元を緩める。
「……そろそろ、“俺へのご褒美タイム”にしても?」
その言い方が妙に堂々としていて、ディーズベルダは吹き出しそうになる。
「……はいはい」
彼女は笑いながらも素直に、エンデクラウスの胸にぴたりと寄り添った。
外では荷馬車の音も、槌の音も遠ざかっていく。
けれどこの部屋の中だけは、時間がゆっくりと流れていた。
まるでふたりだけの、静かな理想郷のように──。




