122.横着はママ譲り
──数日後。
陽の光が差し込む午後の執務室。窓際に置かれた観葉植物が、そよ風に葉を揺らしていた。
部屋の奥、重厚なデスクに腰かけているのはエンデクラウス。
その膝の上では、クラウディスがちょこんと座り、父の胸に寄りかかりながら、指でペン立てをつついたり、書類に触れようとしたり、落ち着きなく遊んでいる。
「こら、クラウ。これはパパのお仕事の紙だぞ」
「んー!しょーじょ!」
「書状、な……合ってるけど、発音が惜しいな」
エンデクラウスは苦笑しながら、クラウの手をそっと押さえてやる。
一方、部屋の奥のソファでは、ディーズベルダがラフな姿勢で横になり、分厚いノートを読み込んでいた。
手にしているのは、あの“魔王の手記”と呼ばれる不思議なノート。
ページの合間には、錬成コマンドや装置の記述だけでなく、ところどころに走り書きの注意書きが挟まれていた。
(……あ、“量産注意”って書いてある。というか、ちゃんと誰かが後の人のこと考えて書いてくれてるんだ……)
文字は統一されていない。
ページが進むごとに、字体が少しずつ変わっていくことにも、ディーズベルダは気づいていた。
(魔王……一人じゃなかったのかしら。いや、アシスタントでもいたのかな……?)
彼女はそう思いつつも、肩をすくめて心の中で締めた。
(まぁ、どっちでもいいわ。問題は──)
ノートに綴られていたのは、この大陸に存在する“生命”の多くが、地下の錬成装置によって創られたものであるという驚愕の記述だった。
(やっぱり……この国の、いやこの世界の生命体系の根底に魔王の錬成術があるのね。なら、蚕が存在するということは──)
ページをさらにめくっていくと──
「……あった」
目を細めて見つめたそのページには、いくつもの蚕の種類と、それぞれの錬成コードがずらりと記されていた。
(すごい種類……流石だわ。カイコって、種類によって繭の質や絹の色合いまで変わるのよね)
本格的に“織物革命”の予感を感じながら、彼女はそっと手記を閉じかけた──そのとき。
「ディズィ、そろそろ休憩しませんか?」
優しく語りかけるエンデクラウスの声に、ディーズベルダは「えっ」と顔を上げた。
「……あっ」
時計の魔道具に目をやれば、短針はすでに“3”を指していた。
「もう、こんな時間……」
いつの間にか夢中になっていたことに気づき、慌ててソファから上体を起こす。
「きゅーけー!きゅーけー!」
膝の上のクラウディスが、それに便乗して声をあげた。
小さな手を上げて、ぱちぱちと拍手する様子に、ディーズベルダはくすっと笑ってしまう。
「クラウ、今日はジャスミンが、クラウ専用のクッキーを焼いてくれたみたいだぞ。食べるか?」
エンデクラウスが耳元でささやくと、クラウの目がぱっと輝く。
「たべうー!!」
両手をばたばたと振って大はしゃぎ。
エンデクラウスが袋からそっとクッキーを取り出して持たせると、クラウは満面の笑みでかぶりついた。
「……か、可愛い……」
ディーズベルダが思わず呟くように見つめると、クラウはサクサクと音を立てながら、幸せそうにクッキーを頬張っていた。
エンデクラウスもその様子を見守りながら、ふとディーズベルダに問いかける。
「そういえば、ディズィ。洗濯機の方は、順調ですか?」
「あ、うん……」
彼女は少し苦笑しながら、視線を横にそらした。
「やっぱりね、部品の構造が細かくて。錬成すれば早いんだけど、何でもかんでも錬成に頼るのも考えものでしょ?」
「確かに、全てを作れてしまうとなれば、逆に手仕事の価値が薄れてしまいますからね」
「そう。だから、なるべく普通の手法で組み立てていこうと思ってるの」
ディーズベルダは自分の指先を見つめ、そっと握りしめた。
「……半年は覚悟しなきゃ、ね」
ディーズベルダが少し肩を落としてぼやいたその時だった。
膝の上でクッキーを食べ終えたクラウディスが、満足げに手をぺろりと舐め、次の瞬間──親指をちゅっ、と口にくわえた。
「クラウ、指を吸っちゃ──」
やさしく止めようとしたその瞬間。
「──ぶばっ」
「えぇっ!?」
口元から、ぽたぽた……いや、かなりの勢いで水があふれ出したのだ。
「ちょっ、クラウ!? なにそれ!?どこから!?!?」
ディーズベルダは思わず素早くテーブルの上にあった布巾を手に取り、慌ててクラウの口元や胸元を拭いはじめる。
「大丈夫!? 苦しくない!?」
クラウは不思議そうに首をかしげながら、ケロッとした顔で手をぱたぱたと動かしていた。
「……もしや」
隣で状況を見ていたエンデクラウスが、ふと静かに口を開く。
「クラウ……水を飲もうとして、自分の指先から出そうとしたのではないでしょうか?」
「……えっ!? そ、そうなの!? 指をよく吸うのって、そういう意味だったの!?」
ディーズベルダは一瞬フリーズした後、思わず絶句した。
(な、なんと横着な……!)
水魔法の素質があるクラウは、感覚的に“自分の体から水を出せる”と理解している。
そして、おそらくそれを“飲み水にもできる”と考えて──親指から吸おうとしていた、ということなのだろう。
「はははっ」
エンデクラウスが肩を揺らして笑い出す。
「クラウ、飲み物はな、ちゃんとカップから飲むものなんだぞ」
「かっぷー!」
クラウは元気よく、教えられた単語を真似して言う。
ぴょこぴょこと膝の上で跳ねるように動く姿に、ディーズベルダもつられて笑ってしまった。
「これは……今のうちに、きちんと教えておかないとね」
「そうですね。横着癖がつく前に」
ふたりが微笑み合うと、エンデクラウスが少しからかうような口調で付け加えた。
「……ふふっ、クラウの横着さは、どうやらママ譲りですね」
「まま!おーちゃくー!」
すかさずクラウが繰り返して口にする。
「ちょっ、ちょっと!? 誰がよ!? 私は合理的なだけよ!」
「それを“横着”と呼ぶのです」
「むぅ〜〜!」
ぷくっと頬を膨らませて抗議するディーズベルダに、エンデクラウスはにこりと笑う。
クラウは意味もわからず一緒になって笑い、また親指を口に運ぼうとするので──
「ほらクラウ、また吸おうとしてる!」
「んー、みじゅーみじゅー」
そんな三人の賑やかな午後の時間は、やさしく、やさしく、日差しの中に溶けていった。




