121.二人の時間
──そこは、静かで温かな空間だった。
ディーズベルダは、自分の“特別な力”である【心の図書館】の中にいた。
終わりなき書架が、彼女の意識の中に広がっている。
本棚の並ぶその空間は、記憶と知識、そして前世の膨大な情報が眠る場所。
(蚕……蚕の飼育と、生糸の取り出し方について……)
目的の一冊を見つけ、ページをめくる。
そこには緻密な養蚕の流れと、糸の加工工程が記されていた。
(……うわぁ……)
思わず心の中でうめく。
(蚕って……こんな可愛い見た目してるのに、繭ごと茹でるの!? うそでしょ……)
彼女の脳裏に、あのふわふわの白い体でのんびりと桑の葉を食べていた野生の蚕が浮かんだ。
(確かにそうしないと、繭を壊されちゃって、長い糸が取れないんだよね……)
一度は目を伏せかける。
けれど──
(でも、そうしなきゃ“美しいシルク”は生まれない。
うーん……牛や豚だって、わたし達はいただいてるわけだし……)
長く、深く息を吐く。
(ここは心を鬼にするしかないわね。……生命に、感謝しよう)
そう強く心の中で決意した瞬間、視界がふっと揺らいだ。
──そして、戻ってきた現実は。
(あれ……ベッド……じゃ、ない?)
目を開けたディーズベルダがまず感じたのは、柔らかな揺れと、どこか安らぐ熱。
見上げると、穏やかな瞳が彼女を見つめていた。
「エンディ……?」
「お帰りなさい、ディズィ」
エンデクラウスは優しく微笑みながら、膝の上に彼女を抱いていた。
どうやら彼の膝の上で、彼女は眠るように“図書館”へ入っていたらしい。
「ただいま……」
少し照れながらも、ディーズベルダは素直に返す。
ふと目を落とすと、手元には木製の板があり、その上には和紙とペンが置かれていた。
その紙には、見覚えのある図がいくつも描かれている。
(……これ、さっき“心の図書館”で見たもの……)
どうやら無意識に、彼の膝の上でそれを書き写していたらしい。
「寝たままだと、シーツにも書き込んでしまいそうな勢いだったので」
「ありがとう……」
彼の細やかな気配りに、ディーズベルダは心からの感謝をこめて微笑む。
「……ほう、“幻の生地”シルクとは、こうやって作られているのですね」
「えぇ。でも、残念ながら野生の蚕じゃ、そこまで上質な糸はとれないみたい」
「なるほど……やはり飼育の工程で、質が左右されるのですね」
エンデクラウスは図を見つめながら、静かに頷いた。
「でも……」
ディーズベルダは、ふと視線を上げる。
「なんです?」
「もしかしたら、ノートに載ってるかも」
「……魔王の手記、ですね?」
彼は目を細めて言う。
「うん」
ディーズベルダは真剣な表情で頷いた。
(あのノート……まだ全部は読み切れていないけど。もしかしたら、“蚕”に関する何かを錬成できるコマンドが載っているかもしれない)
ふと、思考を巡らせながら息を吐いたそのとき──
「はぁ…」
エンデクラウスの低く穏やかな吐息が頬にかかる。
(……っ、ドキッ)
一瞬、肌が熱くなるような感覚に、思わず心臓が跳ねた。
振り向くと、エンデクラウスが静かにこちらを見つめている。
「どうしたの?」
彼女が問いかけると、彼は少し視線を落とし、静かに答えた。
「こうして、ゆっくりと二人きりで過ごす時間が……最近はなかなか取れていないなと思いまして」
その言葉に、ディーズベルダはふと立ち止まる。
(確かに……)
日々の洗濯機作り、蚕探し、そして何より子育て。
クラウとヴェルの世話は、愛おしいけれどもエネルギーを必要とする。
エンデクラウスが積極的に手伝ってくれるおかげで、侍女やジャスミンの支えもあり、前世の常識からすれば遥かに楽な子育てかもしれない。
──それでも、“夫婦としての時間”は限られていた。
「……ごめんね。もっと気を配るべきだったわ」
そう言って少しだけ眉を寄せる彼女に、エンデクラウスは静かに首を振る。
「いえ……ディズィの頑張りは、誰よりも見ていますから」
ディーズベルダはそっと板と紙とペンを横に置き、エンデクラウスの方を向いて、横向きに座り直した。
膝を軽く抱えて、彼の顔をじっと見つめる。
「エンディ──もし、私を独占したくなったら、いつでも言ってね」
そう言って、彼女はやわらかく微笑んだ。
「私だって、今は……あなたのこと、大好きなんだから」
その一言に、エンデクラウスの目がわずかに見開かれる。
「ディズィ……」
彼はそっと手を伸ばし、彼女の額にやさしく口づけた。
「……これ以上は、贅沢な気もします」
彼の声は静かで、どこかかすれていた。
「貴族、特に──俺のような公爵家の嫡男は、普通は政略結婚が当たり前です。
愛だの恋だのは、絵空事。
けれど、こうしてあなたと出会って、家族になって、恋愛して……まるで夢のようで」
そこまで言って──
「でも、だからこそ……もっと、もっと──って、なってしまうんですよね」
ぽつりと、本音がこぼれる。
ディーズベルダはくすっと笑い、彼の手をそっと握った。
「ふふっ。わかるわ、その気持ち」
彼女は身体を傾けて、エンデクラウスの胸に顔をうずめた。
「だって、私も同じだから」
ぎゅう、と両腕で彼を包み込むように抱きしめる。
その温かさに、エンデクラウスの心がほぐれていくのがわかった。
「……あぁ。どうして、そんなにも可愛いのですか……」
彼は思わず言葉をこぼし、そのままディーズベルダの身体を優しく抱きかかえると──
ベッドの上にストンと、一緒に倒れ込んだ。
白いシーツがふわりと舞い上がり、二人のまわりには、静かで穏やかな時間だけが流れていく。
──それはまるで、春の光に包まれた午後のひとときのように、あたたかく、穏やかで、いつまでも続いてほしい静けさだった。




