12.水没事件
窓際の机に向かい、ディーズベルダは建築用の図面を描いていた。
……のだが、手が止まる。
思考がうまくまとまらない。
ぼんやりとペンを弄びながら、ふと外へ視線を向ける。
すると、そこには、騎士たちを前に指示を出しているエンデクラウスの姿があった。
「この奥地に森林が広がっている。半日ほどの距離だが、ここで木材を確保する。」
騎士たちが真剣に彼の言葉を聞いている。
「ただし、魔物が未だに生息している以上、慎重に行動しろ。護衛と伐採班を分けて配置する。」
エンデクラウスは冷静に、的確な指示を飛ばしていた。
その姿に、ディーズベルダは思わず見惚れてしまう。
(……デキる男って、こういうことなのね。)
普段は皮肉屋で、どこか飄々としているのに——
いざとなると、どこまでも頼れる。
(……って、何を考えてるのよ、私。)
彼女ははっとして、視線を戻そうとした。
……が、気づけば彼を見つめ続けていたことに気づく。
(……確かに、すっごいイケメン。)
いや、そんなことは前から分かっていた。
むしろ、意識しないようにしていたのだ。
(スフィーラが、エンデクラウスを好きなことは知っていたし……。)
学園時代、彼とは何かと接点が多かった。
たまたま選択授業が一緒になったり、
たまたまパートナーが一緒になったり、
たまたま席がいっぱいで、ランチを共にする羽目になったり——。
当然、スフィーラはその度に不機嫌になり、
結果的にディーズベルダは悪役扱いされることもあった。
(……いや、待ってよ?)
ここで、彼女は思考を巡らせる。
(もし、これが"たまたま"じゃなくて、エンディが仕組んだことだったら?)
ゾクリ——。
まさか、そんなはずは……。
しかし、過去の出来事を振り返ると、不自然な偶然があまりにも多すぎる。
「……まさかね。」
そう、呟いた瞬間——
「まさか、何が?」
ふわり。
背後から、柔らかな影が覆いかぶさるように近づいてきた。
「……っ!?」
驚いて振り返る前に、机の上に置いた建築図面を覗き込むエンデクラウスの姿があった。
彼の温かな息が、すぐ耳元にかかる。
(いつの間に……!?)
「ずっと見つめられているから、呼んでいるのかと思って。」
「いや……っ。」
「ふふ、俺に見惚れていました?」
彼はくすっと笑い、悪戯っぽく囁く。
「違うわよ! エンディが変なこと言うから、学園時代のことを思い出していただけ!」
「ほう?」
エンデクラウスは興味深そうに微笑む。
「学園で、やたらと接点が多かったのも……あなたの策略かと思っただけ。」
彼は、一瞬だけ沈黙する。
そして——
「そうですよ。」
耳元で囁かれた言葉に、ディーズベルダの背筋が凍った。
「……バッ!!」
驚いて勢いよく振り返るが、エンデクラウスはすでにすっと立ち上がり、
まるで何事もなかったかのように、優雅な微笑を浮かべていた。
「さて、次は区画の指示を出してきます。」
エンデクラウスが優雅に立ち去ろうとした、その時——
「ちょ、ちょっと待って!? いつから!?」
ディーズベルダは思わず詰め寄るが、彼は挑発的な笑みを浮かべるだけで、軽く肩をすくめた。
「さぁ?」
その曖昧な返答に、ディーズベルダがさらに詰め寄ろうとした——その瞬間。
——バンッ!!
勢いよく扉が開かれ、血相を変えた侍女長スミールが飛び込んできた。
「大変です!! 旦那様、奥様! 坊ちゃんが……坊ちゃんが……!!」
息を切らしながら、彼女は焦りの色を隠せない。
「クラウディスがどうかしたの!?」
「坊ちゃんが、手から水を!!」
「え!?」
ディーズベルダとエンデクラウスは驚き、顔を見合わせる。
「まさか……」
——次の瞬間、二人は急いで部屋へと向かった。
◇◆◇◆◇
「……っ!?」
寝室の扉を開けた瞬間、二人は目の前の光景に言葉を失った。
部屋一面が水浸し。
床は水たまりになり、カーテンは濡れそぼち、
家具の表面を水滴が伝っていた。
そして——
ぽた、ぽた、ぽた……。
部屋の中心に立っていたクラウディスが、手を広げて水を操りながら、楽しげに遊んでいる。
「キャッ! パシャパシャ!」
無邪気な笑顔を浮かべながら、クラウディスは両手から水を噴き出させ、天井に向かって飛ばしていた。
(……いや、ちょっと待って。)
ディーズベルダは顔を引きつらせた。
(完全に魔法じゃないのこれ!?)
「クラウディス! だめじゃなーい! こんなに汚して!!」
彼女は思わず駆け寄り、子供を抱き上げた。
しかし、クラウディスはケラケラと笑い、まだ手から水を滴らせている。
「ぱぱ! まま! み!!みう!!」
「水じゃないわよ! もう……!」
ディーズベルダは額を押さえた。
このままでは、部屋が完全に水没してしまう。
そんな中、エンデクラウスは何をするのかと思えば——
指で水をすくい、それを舐めた。
「……真水。」
エンデクラウスはしばし考え込んだ後、真顔で告げた。
「ディズィ! 間違いなく俺たちの子です!」
「真顔で何言ってるのよ!! そんなこと、分かってるわよ!!」
ツッコミどころしかない発言に、ディーズベルダは思わず声を荒げた。
しかし、エンデクラウスは至って真剣な表情のまま、
「ですが、こんなに早く覚醒するのは珍しいですね。」
彼は、クラウディスの小さな手を取る。
指先から、まだ少し水が滴っていた。
「……確かに、普通はもっと後のはずなのに。」
ディーズベルダは、幼い頃の自分を思い出した。
(私も、魔法が暴走しないように、幼少期は手袋をして過ごしていたっけ……。)
「可哀想だけど、早急に手袋をさせましょう。」
魔法の暴発を防ぐには、手袋を着けて魔力の制御を学ばせるしかない。
この世界では、魔法の覚醒者は手から魔法を放つ。
その力をコントロールできるようになるまでは、封じる手段が必要なのだ。
しかし——
「ダメです。」
ディーズベルダがそう決断した瞬間、エンデクラウスの声が響いた。
彼の紫の瞳が、真剣に光る。
ディーズベルダは驚き、思わず彼を見つめ返した。
「……エンディ?」
彼の表情には、普段の軽さはなかった。




