117.領地!ルーンガルド!
──最果ての荒れ地、改め。
今では“ルーンガルド”と呼ばれるこの地に、ようやく戻ってきた。
馬車の車輪が懐かしい地面を踏みしめ、魔王城の前に停まる。
扉が開いた瞬間、風に乗って広場からの歓声が飛び込んできた。
「ディーズベルダ様ーっ!」「おかえりなさい!」「エンデクラウス様、ありがとー!」
かつては寄せ集めのようだった領民たち──
その誰もが、生き生きとした顔で笑い、拍手を送り、旗を振って歓迎してくれていた。
(……うそ、こんなに人が……)
ディーズベルダは思わず馬車の縁に手をかけて身を乗り出す。
視線の先には、どこか誇りを持ったような表情の人々。
最初にこの地に来たとき、あれほど不安と不満の混じった目をしていた人々が……
今では「ルーンガルド」という地名を誇りにしているようにさえ見えた。
「クラウディス様ーっ!」
その声に、ディーズベルダが思わず振り返る。
クラウディスは、父に抱かれながらきょとんとした顔で群衆を見ていたが、
自分の名前が聞こえると、ぱっと笑顔になって手をぶんぶん振る。
「とーと! あえ! こえ、すごー!」
「ふふ、クラウ人気ねぇ」
「……光栄です」
エンデクラウスはクラウディスを抱いたまま、王族ばりの優雅さで群衆に軽く頭を下げる。
ヴェルディアンを抱いたディーズベルダも、それに倣って手を振ると、さらに大きな歓声が上がった。
(……帰ってきたんだなぁ)
心の奥がじんわりとあたたかくなっていくのを感じながら、
一家はそのまま魔王城へと向かう。
だが──
中へ一歩足を踏み入れた瞬間、そこはまるで別世界のように静まり返っていた。
「……あれ?」
ふと立ち止まり、ディーズベルダは周囲を見渡す。
広い廊下に、人気の気配がほとんどない。
外のにぎやかさと打って変わって、空気はひんやりとしていた。
「……人が、減った?」
「お帰りなさいませ。ご無事のご帰還、何よりでございます」
その声に振り向くと、長身の老執事──ジャケル・ローラーが深々と頭を下げていた。
相変わらず背筋はまっすぐ、無駄な所作ひとつない立ち姿。
だがその顔には、どこか満足げな安堵の色も浮かんでいる。
「ジャケル。全員が外に出てるのは分かるけど……それにしても静かすぎない?」
ディーズベルダが首を傾げると、ジャケルは静かに頷いた。
「はい。実は、王都にいらっしゃる間に、住宅地の整備が進み、領民たちはそちらに移り住んでおります。
現在、魔王城はほとんどが行政と開発部門の者のみでございます」
「……えっ!?」
ディーズベルダは目を見開いた。
「じゃあ……この半年ほど王都にいた間に、家が完成してたってこと?」
「はい。ドルトール伯爵の尽力により、地盤がしっかりと固まり、
その後の計画も着々と進み……現在では、居住区画がほぼ完成しております」
(……そっか。ドルトール伯爵がいた頃に、もう基礎はできていたんだもんね。
半年も空けていれば……そりゃあ、進んでるか)
感心と驚きが混じる中で、ディーズベルダは自然と口元を緩めた。
「すごいわ……なんか、ほんとに“国づくり”って感じになってきたわね」
「はい。もはや“最果て”とは呼べませんな。これからは、“開拓の要”でございます」
ジャケルの口元にも、わずかな笑みが浮かんだ。
そのときだった。エンデクラウスがゆっくりと前に一歩出る。
「ディズィ、もう一度──外へ出ましょうか。」
「……え?」
彼の突然の提案に、ディーズベルダはきょとんとする。
だがエンデクラウスはにこりと笑みを浮かべると、腕の中のクラウディスをジャケルに優しく預けた。
「ジャケル、少しだけクラウを頼む。すぐ戻る」
「かしこまりました。お任せください」
ジャケルはクラウディスをしっかりと抱きとめると、落ち着いた所作で微笑む。
クラウディスは大人しくジャケルの肩に顎を乗せ、目をぱちぱちさせながら父を見送っていた。
エンデクラウスは、魔王城の壁際に立てかけてあった細長い包みを手に取ると──
それをゆっくりと開いた。
中から現れたのは、大きな紫の布。
折りたたまれたそれは、風を孕むような重厚な質感を持っており、表面には精緻な文様がかすかに浮かんでいた。
「……!」
ディーズベルダの胸が、かすかに高鳴る。
(まさか、それって……)
エンデクラウスは何も言わず、しかし自信に満ちた足取りで外の広場へ向かっていく。
彼の姿を追うようにして、ディーズベルダも自然と後を追った。
そして──少し離れた場所で見上げる。
魔王城の天頂、風見塔の先端。
その高みで、エンデクラウスが軽やかに屋根を駆けていく。
その身のこなしはまるで風のよう。
黒髪をなびかせ、片手に紫の旗を抱えたまま、城の傾斜を渡っていく様は、まるで舞うようだった。
(エンディ……)
思わずディーズベルダの口元から、息が漏れる。
やがて、塔の頂点で彼が動きを止めた。
風が吹いた。
彼のマントが揺れる。
そしてその瞬間──
バサッ、と音を立てて、紫の布が翻る。
それは旗だった。
ルーンガルド領の象徴にして、彼らの新たな“家”の印。
城壁を背に、堂々と座る銀灰の狼。
その首元には氷を思わせるシャープな襟飾り。
背には、機械羽のような意匠が精緻に広がり、空を目指す意志を象徴する。
背景には、垂直に立つ重厚な大剣。
まるで、揺るがぬ覚悟と力を示すように、堂々と構えていた。
さらに、歯車と鎖の文様が周囲を囲み、結界のように全体を守っている。
それは、機械文明と魔術の融合を象徴する、ディーズベルダの発明精神そのものでもあった。
「わぁ……っ!!」
ディーズベルダが、思わず声を上げる。
広場にいた人々も、その光景に気づき、次第にどよめきが広がる。
「ルーンガルドの紋章だ……!」 「ついに旗が……!」
歓声がまた沸き起こった。
エンデクラウスはその歓声を背に受けながら、塔の上で旗を高く掲げ──
ゆっくりと両手でその布を伸ばし、風を読んで、しっかりと支柱に結びつけた。
ルーンガルドという新たな名の下、これが「この地の旗」だと。
──完璧な、感動の瞬間。
「……うん、かっこいい……っ」
ディーズベルダは目を細めながら、感動で胸をいっぱいにし──
──その瞬間。
(……あっ)
ふと、思い出してしまった。
数ヶ月前──この紋章を決める打ち合わせのとき。
エンデクラウスがサラッと言い放った、あの言葉。
『実は、この狼――ディズィを表していてですね。
それを俺が“しっかりと捉えている”って構図になってます。象徴的に』
(……ふ、複雑~~~~~~!!)
思わず、顔を覆いたくなるがヴェルディアンがいるのでできない。
確かにかっこいい。絵になる。今こうしてはためいてる旗なんて、めちゃくちゃ感動的。
……でもッ!!
(わたし=狼で、あなたが捕まえてますって……!! 無意識にそういうのを広めるのやめて!?)




