116.再びルーンガルドの地へ
そうして、とうとう──
ルーンガルド一家が領地へ戻る日がやってきた。
王都の別邸前。
朝露に濡れた石畳の上で、最後の荷物が馬車へと積み込まれていく。
その傍らには、ベリルコートが穏やかな微笑を浮かべて立っていた。
「僕はここに残っておくよ。この屋敷の管理、メイドや騎士たちの教育も含めて任されてるからね」
やや長めの銀髪が風に揺れ、陽光を反射して静かに光る。
涼やかな瞳が、淡く微笑んだまま家族を見送っていた。
「どうかよろしくお願いします」
エンデクラウスは、クラウディスを片腕に抱えながら、礼儀正しく一礼する。
クラウディスは父の肩越しに「べるー!」と手を振っていた。
「ありがとう、お兄様」
ディーズベルダもまた、ヴェルディアンを抱えたまま、丁寧に頭を下げる。
赤子はまだ眠たげで、母の胸元に頬をすり寄せながらすぅすぅと寝息を立てている。
荷がすべて積まれ、準備が整うと、ルーンガルド一家は馬車へと乗り込んだ。
外からベリルコートが軽く手を振ると、クラウディスはそれに応えて元気いっぱいに「ばいばーい!」と叫ぶ。
「……やっと、領地に戻れるわね」
馬車が動き出すと同時に、ディーズベルダがぽつりと呟いた。
揺れる窓の外には、王都の街並みが徐々に遠ざかっていく。
「ですが、来年のこの時期には、また王都に来なければなりません」
隣に座るエンデクラウスが、落ち着いた口調で言葉を返す。
「新年の祝賀会と、妹の婚約式──今回をうまく重ねてくださったことで、負担がだいぶ減りましたね」
「ほんとにね。でも……」
ディーズベルダは、ちらりと意味深な笑みを浮かべ、彼を横目で見る。
「──どっかの誰かさんが、私を置いて勝手に会議に行くから……。
もしかしてその会議で、“重ねておきましょう”って進言してたんじゃない?」
くすりと笑う彼女の視線に、エンデクラウスは一瞬口を開きかけて──
けれどすぐに目をそらし、静かに微笑んだ。
その頬に落ちた微かな影。
(……まさか、本当にそうだったの?)
ディーズベルダは眉をひそめたが、もはや驚きはなかった。
この夫は、しれっと裏で根回ししておくタイプだ。昔から、ずっと。
──まぁいいわ。
彼女はため息の代わりに、ヴェルディアンをふわりと抱き寄せる。
頬ずりするように、そっと温もりを確かめるように。
「……こんな可愛い宝物に、出会わせてくれたんだもの。許してあげるわ」
小さな寝息と、あたたかいぬくもりが、胸いっぱいに広がる。
その隣では、クラウディスがもじもじと身を乗り出してきていた。
「……ママ、ヴぇーん……さーる!さーあーる!」
「優しくよ?」
ディーズベルダがそう声をかけると、クラウディスはこくんと真剣に頷いた。
「……あぃ! やーしく! やしく!」
ディーズベルダは、クラウディスがヴェルディアンをなでる様子を、目を細めながら静かに見守っていた。
兄としての最初の優しさ。
小さな指先で一生懸命に優しさを表現しようとする姿が、愛しくてたまらない。
(彼らの未来が、どうかこのまま……穏やかで、あたたかいものでありますように)
そんな母としての願いを胸に、彼女はそっとヴェルディアンの背を撫でた。
と──
「ディーズベルダ様ぁぁぁぁぁっ!!」
突然、馬の蹄の音とともに、必死な叫び声が遠くから近づいてきた。
(……え?)
馬車の小さな窓から顔を出して見てみると──
そこには、泥の跳ねた外套を揺らしながら、必死で馬を走らせて追いかけてくる男の姿が。
「ドルトール伯爵……!?」
彼女が呆れたように呟いたその直後、馬が馬車の脇につけられ、派手に止まる。
「おいていくなんて、ひどいじゃないですかぁ!!」
泥だらけのコートの前をはだけながら、ディルコフ・ドルトール伯爵は半泣き顔でこちらを見上げてきた。
「ずっと取り合ってもらえないし、返事もくれないし! このままじゃ見捨てられるかと思って……!」
「……エンディー……」
ディーズベルダは、ジト目になって隣の夫を見やった。
呆れ半分、諦め半分。
「またあなた、返事を先延ばしにしてたわね?」
「ふふっ……バレてしまいましたか」
エンデクラウスはというと、まったく悪びれた様子もなく、爽やかに微笑んでいる。
それはもう、爽快なほどに。
その笑顔に、ディーズベルダは軽くため息をつきながら、でも表情はどこか楽しげだった。
「……移住の件でしょ?」
窓の外のドルトール伯爵に向かって、彼女はしっかりとした声で言った。
「歓迎するわ。最果ての地でなら、あなたの地属性もきっと役立つもの。早くいらっしゃいな」
「はいっ!!ありがとうございます!!今すぐ準備します!!」
ドルトール伯爵は、まるで背中に翼でも生えたかのような勢いで返事をし、満面の笑みで馬を回した。
その姿を見送りながら、エンデクラウスは横で小さく肩をすくめた。
「さて、また賑やかになりそうですね」
エンデクラウスが、のどかに揺れる馬車の中でぽつりと呟く。
馬車の窓からは、遠ざかっていく王都の街並み。
人の声も石畳の喧騒も、次第に小さくなり、代わりに春の風が頬を撫でるように吹き込んできた。
「ええ……そうね」
ディーズベルダは微笑みながら頷き、腕の中のヴェルディアンをそっと覗き込んだ。
小さな寝顔はまだ夢の中。静かな息遣いが、彼女の胸を優しくあたためる。
「……帰ったら、何から始めますか?」
ふいに、エンデクラウスが隣で問いかけた。
彼の声は静かで、けれどどこか楽しげで。
この平穏な時間が本当に嬉しいのだと、その表情が物語っていた。
「えっとねー……前に作りそびれた洗濯機を作るわ。
世に出さずに、自分用にね。人手が足りないし、まずは私たちの生活を楽にしなきゃ」
ディーズベルダは少し得意げに肩をすくめて、エンデクラウスを見やった。
「自分用に、でしたら……問題ありません」
エンデクラウスはそう言って微笑むと、彼女の手にそっと手を重ねた。
「……俺も、見てみたいです。
ディズィが、どんな世界で生きてきたのか。どんなものを便利だと感じていたのか──
あなたの環境に触れられるのが、素直に嬉しい」
彼の紫の瞳が、まっすぐにディーズベルダを見つめる。
その眼差しに、彼女の胸がじんわりと熱くなる。
(ほんとに……この人は、ずるいわ)
なんでもないように、自然に、優しい言葉をかけてくる。
そのたびに、心の奥の方がふっとほぐれていくのだから。
「……ありがとう、エンディ」
小さく囁いたその瞬間──
「──あああああん!! むぅぅぅぅぅぅっ!!」
隣から突如として響いた大きな声に、ふたりは同時に振り返った。
そこにいたのは、ふくれっ面のクラウディス。
ちょこんと座っていたのに、いつの間にかディーズベルダの膝の上に身を乗り出し、
ヴェルディアンにぎゅうっとしがみつこうとしていた。
「……クラウ?」
「むーーーっ!! だめー!! ぱぱとまま、だけー!! あーん!!」
明らかに、やきもち全開。
エンデクラウスとディーズベルダが甘い雰囲気になった瞬間に、何かを察知してしまったらしい。
「ふふっ……あっははは!」
思わずディーズベルダが吹き出し、エンデクラウスも目元を和らげながらクラウディスの頭を撫でる。
「はいはい、クラウは大事なお兄ちゃんですよ。ママもパパも、ずーっと一緒ですからね」
「むぅぅ……やーくちぃ……」
クラウディスは唇をとがらせながらも、頭をなでられて満更でもなさそうだった。
いつも読んでくださってありがとうございます。
たくさんのイイネやブクマに、日々とても励まされています。
本作はまだまだ完結には至りませんが、現在コンテストに出している関係で――
このままだと、うっかり締切までにとんでもないところまで進んでしまいそうなので……更新ペースを少し落とすことにしました!
とはいえ、これからも変わらず、まったり楽しく書いていきますので、
引き続きどうぞよろしくお願いします!




