114.ヴェルディアン
陽が差し込む、穏やかな午後の寝室。
カーテン越しにやわらかな光が入り、窓際のレースがふんわり揺れている。
産後の疲れも少しずつ癒えてきて、ようやく身体を起こして過ごせるようになった。
ディーズベルダは、ふかふかのクッションに背を預け、胸元にそっと赤ん坊を抱えていた。
赤ちゃんは、小さな口を一生懸命に動かして、ちゅくちゅくと母乳を飲んでいる。
その姿がいじらしくて、胸がいっぱいになる。
「……ふふっ……」
思わず、自然と笑みがこぼれた。
部屋には静かな魔道ランプの光と、ほのかに甘い香油の香り。
傍には、ゆったりと椅子に腰かけたエンデクラウスが、優しい目でふたりを見守っている。
「名前は……ヴェルディアン、なんてどうです?」
ふいに、彼が静かに口を開いた。
「……ヴェルディアン?」
ディーズベルダは小首を傾げた。
その響きをゆっくり口の中で転がしてみる。
「ええ。“緑に包まれし静謐の地”を意味する古語から取りました。森のように穏やかで、芯のある子に──そんな願いを込めて」
「ふふふ、素敵な名前……でも私は、エンディにつけてほしいって思ってたの。だから、そうしましょう」
ディーズベルダは優しく微笑みながら、エンデクラウスの顔を見つめた。
赤ちゃんを抱える腕にも、自然と力がこもる。
「はい……ありがとうございます」
エンデクラウスもまた、柔らかく頷いた。
彼が立ち上がり、ベッドの傍に近づくと、ディーズベルダの腕の中の赤子を覗き込む。
そっと指先で、まだやわらかい頬を撫でた。
「あなたの名前は──ヴェルディアンよ。パパが立派な名前を下さったの」
ディーズベルダが、そう優しく語りかけた瞬間──
「……はっ!!」
ふと、赤ちゃんの髪に目を留めて、彼女の声が跳ね上がる。
「この子、黒髪だわ!」
驚いたように叫ぶと、彼女は赤ん坊の頭をまじまじと見つめた。
黒く、やや青みがかった艶やかな髪。まさしく、エンデクラウスのそれと同じ色。
「ふふっ、ディズィ」
エンデクラウスは、口元に笑みを浮かべながら説明するように言う。
「この世界では、髪や瞳の色は“男系”に依存するんですよ。
ですから、クラウのようにアナタの青みがかった美しい銀髪が遺伝することは、とても珍しくて。
前例がないわけではないですが……基本的には、これから生まれてくる子は、俺の髪色と目の色を継いでいくはずです」
「そうだったの!へぇ~……」
ディーズベルダは驚きつつも、どこか感心したように声を漏らした。
目をぱちぱちさせながら、赤ん坊の黒髪をつまんでふわりと撫でる。
(流石、異世界だわ……。遺伝のルールもこっちとは違うのね)
「まぁ、だからこそ──クラウを学園に入れた時がちょっと心配ですね」
エンデクラウスがふと視線を窓の外に向けながら、ぽつりと呟いた。
「よその子だとからかわれてしまうかもしれない」
「大丈夫よ。確かにからかってくる子はいると思うけど……クラウに至っては、エンディ似だから、すっごくイケメンになっちゃいそうだし」
ディーズベルダは、少し得意げに言って笑った。
「ふむ……それは、否定できませんね」
エンデクラウスも苦笑を返し、ほんの少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
「……あとは、火に気を付けないといけませんね」
「そうね。でも、それを見越して──ここの子供部屋を“燃えない部屋”で作ってあるんでしょ?」
ディーズベルダが、さらっと言ってのけると──
「……バレていましたか」
エンデクラウスが少しだけ気まずそうに目を逸らした。
そう、この王都に新たに建てられた“ルーンガルド邸”。
エンデクラウスが一から設計し、魔法防壁や耐火の加工、風の通りまで計算して組まれた、こだわりの邸宅。
その中にある子供部屋は、魔法による火にも絶対に焼けない素材で作られていた。
「ふふ……エンディらしい気配りね。でも、ありがとう」
ディーズベルダは、ヴェルディアンをそっと胸に抱きながら、穏やかに微笑んだ。
腕の中の小さな命は、今も安らかな寝息を立てながら、あたたかな存在感で彼女の心を満たしている。
と、そのとき──
「トントントン……!」
部屋の扉を、控えめながらも元気なリズムで叩く音が響いた。
「ぱぱー! ままー!」
くぐもった声が、廊下の向こうから元気よく届く。
ディーズベルダは目を見開き、ふふっと笑う。
「……来たわね」
エンデクラウスもまた小さく息をついて、ゆっくりと立ち上がった。
扉に近づいて取っ手に手をかけ、やや慎重に開ける。
そこにいたのは──
銀色の髪をふわふわに揺らしながら、ぱたぱたと足踏みしているクラウディスだった。
目をきらきら輝かせ、期待いっぱいに扉の向こうをのぞき込んでいる。
「また来たのか、クラウ」
エンデクラウスは少し呆れたような声を出しつつも、顔は明らかに緩んでいた。
彼はひょいとクラウディスの脇を抱えて持ち上げ、慣れた手つきで腕に乗せると、軽く頬ずりする。
「とーと!」
「おとー!」
クラウディスは大喜びで腕をばたつかせると、すぐさま室内をのぞき込んだ。
ベッドの上、ディーズベルダの腕に抱かれている赤ちゃんを見つけると──
その紫の瞳が、ぱあっとさらに輝いた。
「ヴェルディアンよ、クラウ」
ディーズベルダがやさしく名を告げると、クラウディスは一瞬きょとんとして、それからぱっと笑顔になる。
「べあん!!」
まだ発音がうまくできないらしく、舌っ足らずな声が部屋に響いた。
「おっと……」
と、エンデクラウスが小さく声を漏らしながら、クラウディスの体をすっと引いた。
クラウは“嬉しい”と感じたものには、つい手のひらでポンポン叩く癖がある。
赤ちゃんにも同じようにしようと、今にも手を伸ばしかけていたのだ。
「クラウ、優しく、ね。これは“とんとん”じゃないよ」
エンデクラウスは息子を諭すように言いながら、クラウディスの小さな手をそっと包み込む。
クラウディスはというと、ぽかんと目を丸くしながらも、
弟に向けたままの視線を離そうとはしない。
「クラウ……今日で何回目かしら」
ディーズベルダが笑いながら言うと、エンデクラウスも小さく肩をすくめる。
「ええ……すでに五回目です。午前中だけで」
「ふふっ、もう完全にお兄ちゃんになった気でいるのね」
ディーズベルダは、ヴェルディアンを包み込むように見つめながら、微笑んだ。
クラウディスは再び「べあん……!」と嬉しそうにつぶやき、エンデクラウスの腕の中で体をぐいぐいと乗り出そうとする。
それでも、父にしっかり抱かれているからこそ、赤ん坊との距離は絶妙に保たれていた。
「……かわいいですね。弟って、こんなふうに見えるんですね」
ぽつりと呟いたエンデクラウスの声には、どこか感慨深い響きがあった。
彼の腕の中、クラウディスが好奇心いっぱいに身を乗り出すその様子は、まさに“家族”そのものだった。
──新しい命と、それを迎える兄。
そんな光景を、ディーズベルダは幸福そうに見つめながら、そっとヴェルディアンの小さな額に口づけを落とした。