113.新たな命の誕生
痛みは、まるで容赦のない波のように、彼女の身体を何度も打ちつけてきた。
ひとつ、またひとつ──
その間隔はどんどん短くなり、もはや呼吸を整える余裕すらない。
「……っ、はぁ、ああっ……!」
ディーズベルダは、ベッドの縁をぎゅっと掴んでいた。
青白い指先が震える。額からは汗が流れ落ち、白い寝間着の背中までも濡らしている。
室内には助産師が三人。
部屋の空気は張り詰めていて、かけつけてくれたスミールでさえ普段の穏やかな表情を崩し、眉間に深くしわを寄せている。
そして、その傍ら──椅子にも座らず立ち尽くしていたのは、エンデクラウス。
彼の紫の瞳には、どうしても隠しきれない不安がにじんでいた。
「もうすぐです!深く息を吸って──はい、ゆっくり、吐いて!」
助産師の言葉に、必死で頷きながら、ディーズベルダはか細く息を吸い込む。
「はぁ……っ、く……っ!!」
けれど次の瞬間、背筋を稲妻のような激痛が走り、身体がびくりと跳ねる。
痛みの波が強すぎて、意識すら遠のきそうになる。
それでも、彼女は手を離さなかった。
握っていた手──エンデクラウスの温かな手だけが、
今の彼女にとって唯一の灯のようだった。
「ディズィ……大丈夫です、俺の手を握り潰してしまっても構いません。」
その声は、普段の冷静な彼からは想像もつかないほどに震えていた。
ディーズベルダは、まぶたの隙間からちらりと彼を見やる。
その顔が、泣き出しそうに歪んでいるのを見て、
彼女の唇が、ほんの少しだけ曲がった。
「……泣きそうな顔……してないでよ……」
皮肉めいた口調だけれど、その声にも余裕はない。
「すみません……でも、見ていることしかできないのが、こんなに苦しいとは……」
エンデクラウスは、濡れた髪をやさしく撫で上げ、額にそっと口づけを落とす。
その仕草ひとつひとつに、愛しさと無力さが滲んでいた。
陣痛の波が、また訪れる。
「……っ、んぐ……あああああっ!!」
全身を鋭い刃で裂かれるような痛みに、思わず叫びが漏れた。
視界がじわりと滲み、世界が揺らいで見える。
それでも──彼女は諦めなかった。
(クラウ……あなたも、こうして産んであげられれば……)
思わず、心の中で愛しい我が子の名を呼ぶ。
最果ての荒れ地にある魔王城の地下。
そこに残されていた“錬成装置”を使い、
興味本位で生み出した我が子──クラウディス。
機械任せで、ほんの数秒で、まるで魔法のように“生まれた”命。
だが今、彼女は身を持って知っていた。
命が宿り、育ち、こうして苦しみを乗り越えてこの世に送り出すことの、
どれほど深く、尊いことか。
「もうひと踏ん張りです!次の波で、力を入れて!」
助産師の声が響くが、波のような痛みはまだ頂点には達していない。
むしろ、次の波が、さらに大きなものになる予感がした。
「……ディズィ、大丈夫です。俺がここにいます。ずっと、いますから……」
エンデクラウスの声が、耳元でささやかれる。
その手は、彼女の手をしっかりと包み込んでいた。
痛みと恐怖で身体が震える中、ディーズベルダは目を閉じる。
──これは、“誰かに作られた子”ではない。
──これは、“私が、あなたと一緒に育んだ命”。
「……ああ……っ……!」
堪えきれない呻きがまた、唇から漏れる。
力を抜けば、何もかも終わってしまいそうで。
だからこそ、ディーズベルダは手を握りしめ、歯を食いしばる。
(来る……また、くる……)
ひときわ大きな波が、容赦なく彼女の身体を襲った。
「っ……あああああああああっ!!」
その瞬間、視界が白く弾けた。
まるで何かが、身体の奥から一気に押し出されるような感覚。
──息が詰まる。
──思考が飛ぶ。
──けれど、それは、確かに「終わり」ではなかった。
「はいっ、頭が出ました!……もう少し、もうひと押しです!」
助産師の叫びが耳元で響き、誰かがそっと彼女の背を支える。
「っ、ん……ぐぅっ……!」
最後の一滴まで、全身の力を振り絞って。
そのときだった。
「──オギャアッ! ……オ、オギャアアアッ!!」
産声が、部屋に響き渡った。
一瞬、空気が止まった気がした。
苦しみに満ちた数時間を切り裂くような、確かな命の音。
「……男の子です!元気な、男の子!」
助産師が、涙ぐみながらそう叫んだ。
手早く布でくるまれた赤ん坊が、まだ赤みを帯びた身体を震わせながら泣いている。
「……ディズィ……」
エンデクラウスの声が、震えていた。
彼はその場に膝をつき、言葉もなく彼女の手を握りしめたまま、ただ、見つめていた。
その目に、光るものがあった。
静かに、頬をつたう、それは──涙だった。
けれど、エンデクラウスはそれを拭おうともしない。
ただ、目の前にある奇跡を、まっすぐ見つめ続けていた。
「……男の子です!元気な産声です!」
助産師の手の中で赤ん坊が暴れるように泣き、その小さな手足がかすかに動いた。
けれどディーズベルダの腕には、まだ抱かれていない。
「赤子をお預かりします。──身体を拭いて、体温を測ります」
助産師の一人が、そう言って慣れた手つきで赤ん坊を布で包み、湯の入った盆の方へと連れていく。
エンデクラウスが、一歩だけそちらへ歩みかけ──けれど、足を止めた。
「……ディズィ、大丈夫ですか?」
振り返った彼の声は、あくまで優しかった。
ディーズベルダは、わずかに頷く。
呼吸はまだ浅く、髪も汗で頬に張りついていたが、その瞳には確かな意識と輝きが宿っていた。
「……なんとか、ね……」
彼女の声はかすれていたが、確かな強さがあった。
(やっと、終わった……)
そう思った瞬間、ふっと全身の力が抜けていく。
いまにも意識が落ちそうだったが、スミールがそっと背に布を掛け、ディーズベルダを支えてくれた。
助産師たちは、慌ただしくも丁寧に赤ん坊を拭き、体温を測り、産湯で身体を温めていく。
泣き声は少しずつ落ち着き、やがて小さな呼吸の音だけが部屋に残った。
エンデクラウスはその様子を見守りながら、ベッドに戻り、ディーズベルダの手をそっと握る。
「……ありがとうございます…」
その一言には、言葉にならないほどの思いが詰まっていた。
ディーズベルダは、彼を見上げる。
「……見てた? わたし、ちゃんと産んだのよ」
「はい。……あなたは、本当にすごい人です」
それだけを言うと、エンデクラウスは彼女の手にキスを落とした。
彼の表情は、いつになく柔らかく──そして、誇らしげだった。
しばらくして。
「お母さま、よろしければ──今、お子さまを」
助産師が、ふわりと布に包まれた赤ん坊を抱いて戻ってくる。
「準備が整いました。母子ともに、異常はありません」
ディーズベルダがゆっくりと身体を起こすと、スミールがそっと枕を整えた。
エンデクラウスがその背を支える。
彼女の腕の中に、ようやく、ふわりと小さな命が降りてきた。
「……こんなに……小さいのね…」
ディーズベルダは、震える指で赤ん坊の頬に触れる。
赤子はもう泣いていない。
静かに、すうすうと寝息を立てながら、まるで彼女の温もりを感じて安心しているようだった。
──会えた。
胸の奥から、何かが溢れるようにこみ上げてくる。
涙とともに、ディーズベルダはようやく微笑んだ。
「……あなたに、会えてよかった」




