112.誕生日㊦
朝食が終わると、少し不思議な空気が流れた。
「……あれ? 今日って自由時間なの?」
エンデクラウスも急な執務もなく、誰かが訪ねてくる気配もない。
誕生日だから、なのだろうか。
そのまま私はクラウディスと居間に移動し、小さな積み木やぬいぐるみでひとしきり遊ぶ。
いつもは慌ただしい朝も、今日はなぜかふんわりとした時間が流れていた。
そして、昼になるころ──
「ディズィ、昼食の準備が整いました。こちらへどうぞ」
執事のような口調で、しかし妙に張り切った声が響く。
案内されるままにダイニングへ向かうと、白いテーブルクロスの敷かれた長い食卓の中央に、
すでにクラウディスの子供用椅子が用意されていた。
ジャスミンがクラウディスをそっと抱き上げ、軽やかに椅子へと座らせると、その隣に静かに腰を下ろした。
するとすぐに、クラウディスの前には小さな器が運ばれた。
よく煮込まれた野菜スープに、やわらかいパンと、食べやすく刻まれた果物。
「ままー!」
「はいはい、熱いから気をつけてね」
クラウディスがスプーンをじたばたと掴み、ちょっと得意げな顔をしている。
そして──私の前にも、ふわりと香る湯気とともに、ランチプレートが置かれた。
「……ありがとう──って、え?」
配膳したのは、使用人ではなく、目の前の彼。
エンデクラウスが、なぜかシェフのような白いコックコート風の上着を羽織り、満面の笑みを浮かべて立っていた。
「もしかして……エンディが、作ったの?」
「はい。ちょうど今朝、ルーンガルド領から採れたての野菜が届きまして。
その中から、いくつか選んで、俺が調理しました」
どこか誇らしげに胸を張るその姿に、私は思わず口元をおさえる。
(……いや、うん。嬉しい。すごく嬉しいけど)
あまりに完璧で、ちょっと照れくさくて、つい──
「わー……エンディすごーーーい……」
わざとらしく棒読みで言って、乾いた拍手をパチパチと打つと──
「すおおーーーい!!」
クラウディスも、両手をぱたぱたさせて見よう見まねの拍手を始めた。
そのとき。
「……っ」
エンデクラウスの表情が、ほんのすこし、しゅんとする。
「あっ……ふふっ、冗談よ」
私はすぐに笑いながら、クラウディスの頭を撫でると、彼にも笑顔を向けた。
「ありがとう、エンディ。すっごく嬉しい!」
「うーしー!」
クラウディスも嬉しそうにスプーンを振り回しながら笑った。
エンデクラウスはというと、一気に元気を取り戻したように背筋を伸ばし、
「はい! 本日は“腕によりをかけて”ご用意しました!」
と、得意げに言い切った。
それにしても。
目の前に並べられた料理は、ただの家庭料理ではなかった。
野菜の彩りが美しく、キラキラと宝石のように輝いている。
グリルされた野菜、やわらかく煮込まれた根菜のポタージュ、
ほんのり甘く焼き上げたかぼちゃのキッシュ……。
(に、しても……この男、料理までできるの?)
しかも、クオリティが高すぎる。どこの高級レストランよ、これ。
「これが……あの最果ての荒れ地、ルーンガルドで育った野菜?」
まるで、信じられない。
けれど、たしかに──一口食べれば、すぐに分かった。
しっかりとした土の香りと、太陽の恵みを吸い込んだような、力強い味わい。
(よろこばないわけ、ないじゃない)
思わず笑みがこぼれた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
夜は、もちろん甘いスイーツで締めくくられた。
クラウディスには小さなプリンとミルク、私たちには《Fleur de Miel》の特製スイーツプレート。
軽やかなティラミスに、柑橘のタルト。甘い香りとともに、ゆったりとした時間が流れていった。
その後、クラウディスを寝かせ、私たちも寝室へ。
カーテンを閉め、蝋燭の炎を落とし──静けさに包まれた寝室に、やわらかなシーツの音だけが響く。
ベッドに入ると、隣に入ってきたエンデクラウスが、そっと私の身体を腕に引き寄せた。
あたたかくて、落ち着く。
いつの間にか“当たり前”になったこの距離感が、今日はとびきり優しく感じられる。
「珍しく……すごく嬉しい誕生日だったわ。ありがとう」
胸元に顔を預けながら、そう伝えると、彼はふっと微笑んだ声で返した。
「それは……良かったです」
その言葉の奥に、小さな安堵が滲んでいる気がした。
優しく包まれたまま、私は目を細める。
「家族で、ゆったり過ごすのって……最高ね」
「はい……。やっと……俺の手で、ディズィを喜ばせることができました」
その一言に、胸がきゅっと締めつけられた。
昔の私を思い出す。
──素直になれなかった頃。
怖くて、信じられなくて。壁ばかり作っていたあの頃の私。
「……ごめんね。今まで、冷たい態度ばっかりとってて」
そう言って、彼の額にかかる黒髪をそっとかき上げてやると──
彼は目を閉じて、私の手に軽く頬を寄せた。
「いえ……俺の配慮が足りなかったんです。もっと早く……あのゲス女を排除しておくべきでした」
「…………ん?」
「……あ、いえ。“目障りな王女殿下”を、もっと早く排除しておけばよかったと、思いまして」
表情ひとつ変えず、さらりと物騒なことを口にするこの夫。
「ふふっ……あっはっはっ!」
私は思わず吹き出した。
「そうね。よく頑張ったわね、エンディ。大変だったでしょう?」
「……大変だったのは、ディズィの方です」
ほんの少しだけ声音を落としながら、彼は続けた。
「……俺のせいで、たくさん苦労をかけましたね」
その低く静かな声に、私も自然と手に力がこもる。
「んー……でも、結果的に今は幸せだから。いいの」
「あなたは……本当に寛大すぎます」
呆れたように言いながらも、彼の声には明らかに安堵が混じっていた。
「……感謝して?」
そう囁くと、彼はすぐに──心からの声で答えた。
「はい。心から、あなたに感謝しています。……そして、愛しています」
ぽつりと落とされたその言葉に、心がふわっと温かくなる。
ああ、今日は──幸せな誕生日だった。
──明日からも、きっと大丈夫。
そう思える夜だった。




