111.誕生日㊤
それは、まさしく“朝から夢の中”のような光景だった。
目を開けると──視界一面が、やわらかな花びらで覆われていた。
ベッドの上だけじゃない。床も、窓辺も、ドレッサーの上も、ふわふわの花びらに埋もれている。
まるで寝室そのものが、巨大な花束に飲み込まれてしまったかのような美しさ。
そして、唐突に押し寄せる現実感。
「……なに、これ……?」
呆然とつぶやいた私の隣で、もぞもぞと動く気配がする。
振り向けば、そこには朝から完璧に整った黒髪の男──夫、エンデクラウスが、しれっとこちらを見ていた。
紫の瞳にほんのりとした笑みを浮かべ、まるで当然のことのように。
「ディズィ……今日が、何の日か分かりますか?」
問いかける声はやけに優しく、そしてどこか自信満々。
「……え? あっ……いや、分かるわ」
呆れ半分、覚悟半分で目を細める。
「誕生日、ね」
「はい。正解です」
満面の笑みでうなずかれた。
……ああ、そうだった。毎年、毎年、忘れようにも忘れられない。
アイスベルク侯爵家の令嬢だった頃──14歳から18歳まで。
いや、それ以前。なぜか毎年、謎にアルディシオン公爵家から届く贈り物も含めて──
この男は、私の誕生日になると、毎年欠かさず何かしら“誕生日という名のサプライズ”を仕掛けてくるのだ。
宝石でできたカバンとか、惚れ薬がしこまれたスイーツとか、とんでもないくらい高価な香水とか──やりすぎラインナップには事欠かない。
「で、エンディ。ひとつ、聞いていい?」
私は起き上がって、軽く髪を整えながら問いかける。
「……私宛に届いた、他の方からのプレゼントは?」
すると、彼はわざとらしく天井の方を見つめ、口元だけで薄く笑った。
「さあ?」
「目ぇそらしてるじゃない!!」
すかさず私は彼の頭を両手でがしっとつかんで、ぐらぐらと前後に揺らす。
「それはしちゃダメでしょう!? 届いたもの勝手にどこやったのよ!」
「ちょ、ディズィ、頭は……! 俺の完璧な顔が歪んじゃいます……!」
「自分で言うなぁ!!」
夫婦の小さな修羅場(?)が展開される中で、エンデクラウスがそっと私の手を取り、動きを止めた。
そのまま、優しく、でも真っ直ぐに私の腕を引いて、顔を近づけ──
「……お誕生日、おめでとうございます」
そう囁きながら、唇を重ねてくる。
「……っ」
瞼を閉じれば、朝の光の中で感じるキスは、不思議なくらいに温かくて、
花びらの甘い香りと混じって、胸の奥にじんわりと染み込んでくる。
(全くもう……)
私はゆっくりと目を開け、彼の顔を見つめる。
本当に、どうしてこの人はこんなに“全力”なんだろう。
寝室中、見渡す限りの花びら。
「……寝てないんじゃないの?」
ふと問いかけると、彼は少しだけ照れたように笑って、でも堂々と答えた。
「ええ。今日が楽しみで……眠れませんでした」
ああ、やっぱり。
(私の妊娠が、匂いに敏感になるタイプじゃなくて本当に良かったわ)
ほんのり香るバラの匂いと、ひんやりした花びらの感触。
──夜中じゅう、部屋いっぱいに花をばら撒いてるこのイケメンの姿を想像したら、なんだかおかしくなってしまった。
「……ふふっ。馬鹿ね。ありがとう」
素直な気持ちがぽろりとこぼれる。
エンデクラウスは、まるでそれを待っていたかのように、再びやわらかく笑った。
そして、腕を伸ばして、花に囲まれた私をそっと抱きしめる。
──なんて甘すぎる朝だろう。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
寝室でのサプライズに半ば呆れながらも、幸せな気持ちのまま廊下を歩いて、ゆっくりと食堂の扉を開けると──
ふわりと甘い果実の香りが広がってきた。
テーブルの上には、色とりどりのフルーツが、まるで宝石のように美しく盛りつけられていた。
熟した桃、つややかな葡萄、黄金色のメロン、淡いピンクのザクロまで──一皿ごとに香りも見た目も華やかで、まるで祝福そのもの。
「うわ……朝からこれって……」
思わず呟いたそのとき、
「ままー!!」
高い声が響いて、椅子にちょこんと座っていたクラウディスが、両手をばっ!と広げてこっちへ伸ばしてきた。
「ふふ、はいはい。来たわね、甘えん坊さん」
私は笑いながら彼を抱き上げ、膝の上にちょこんと乗せる。
「おはよう、クラウ」
「おあよ! おあよ!」
ぱちぱちと手を打ちながら元気いっぱいに返す我が子に、私はふっと目を細めた。
(うん……やっぱり、誕生日の朝は家族と過ごすのがいちばん幸せかもしれない)
そしてふと、テーブルの上にある果物の並びに目が留まった。
「あれ……これって、もしかして……」
見覚えがある。甘さも香りも、そしてこの盛りつけのセンスも。
「……あの店のフルーツじゃないの?」
「覚えてくれてたんですね」
隣にそっと座ったエンデクラウスが、珍しく嬉しそうに声を弾ませた。
彼の手元には、同じフルーツの皿が置かれていて、ナイフで綺麗にカットされた果物が丁寧に並んでいる。
《Fleur de Miel》
──“はちみつの花”。
私たちの初めての王都デートで訪れた、高級果物専門店の名前だ。
彼がこの店に、妙に執着している理由は、なんとなく想像がついている。
……あれが、最初の“ふたりだけの思い出の場所”だったから、だよね。たぶん。
そして、私が果物を好きだという“過去”を、いまだに引きずっているのも──きっと、彼らしい執念と愛の形。
「……いただきます」
そっと手を合わせると、膝の上のクラウディスが真似をして、小さな声で続けた。
「いてぁあいまふ!」
「ふふっ、良い子」
頭を撫でてから、私は桃をひとくち口に運ぶ。
やわらかな甘さが舌に広がって、ふっと肩の力が抜けた。
(……たしかに、子供の頃は果物が大好きだった)
思い返してみると、今はそこまで執着しているわけじゃない。けれど──
(まあ……“家に9歳の頃から間者を送っていた”っていう男だし)
そりゃ、そんな昔の好みまで把握してて当然か……と、苦笑まじりに果物をもう一切れつまむ。
もはや驚くことじゃない。何をされても、「はいはい」と受け止める心構えはできている。
だって、私はもうこの人の妻で──
そして、今日が私の誕生日で──
まだ、朝は始まったばかりなのだから。




