110.狂気じみた嫉妬
「……ルーンガルド領に、住む気なの?」
思わずそう問いかけてしまう私に、ディルコフは目を輝かせて力強く頷いた。
「はい! 本気です!」
(えっ、マジで!?)
思ったよりずっと即答だった。
「でも……ダックルス辺境伯が許すのかしら? あなた、まだ軍務についてるでしょう?」
私が少し眉を寄せると、ディルコフはにっこりと笑って──
「ご当主様も……正式に許可してくださいました!」
その言葉に、思わず私はまじまじと彼の顔を見つめてしまう。
(あの、“逃げたら許さん”で有名なダックルス辺境伯が、許可を?)
あの鉄面皮の軍人が……!? まさか、そんな柔軟な判断ができるなんて。
「でも……厳しい土地よ?」
私は冗談めかしてそう言ってみたけれど、心の中では少しだけ“お試し”してみたつもりだった。
今のルーンガルドは、豊かになりつつあるけれど、表向きにはまだ“最果ての地”という認識も根強い。
「──厳しさなら、身をもって味わいました」
ディルコフは、どこか懐かしそうに目を細める。
「過酷な労働に、雨風、倒木、沼地、開拓作業。
でも……あの日々は、毎日が新鮮で、心から楽しくて……」
「ええっ、楽しかったの?」
「はい。ディーズベルダ様の料理も忘れられませんし……!」
(あっ、それが本命ね?)
思わず小さく笑いそうになったけれど、ディルコフの瞳は真剣そのものだった。
「“最果ての荒れ地”じゃなくて、“ルーンガルド”なんです。あの場所は。
だから私は、もう一度あそこに立ちたくて……あの空気の中に戻りたくて……」
まっすぐすぎるその想いに、ちょっとだけ胸が熱くなる。
「……ドルトール伯爵……」
と名前を口にしかけた、そのときだった。
「……そろそろ、失礼させていただきましょうか」
唐突に割って入ってきたのは、隣でずっと静かに様子を見守っていたはずのエンデクラウスだった。
「え?」
私が振り返ると、彼はどこか淡々とした口調で続ける。
「長話は、体に触ります。──妊婦ですので」
「えっ、あ、うん……」
そう言われると、確かに長時間立ちっぱなしだった。お腹も少し張ってきている気がする。
「……続きの話はまた後ほど。席を外させていただきます」
とびきりの貴族らしい笑顔を浮かべながら、でもその目がぜんっぜん笑っていない。
ディルコフは気づかないふりをしながらも姿勢を正し、深々と頭を下げた。
「はい、もちろん。お体にお気をつけて」
そうしてエンデクラウスに手を引かれながら、その場を離れていく。
彼の歩調はいつもよりほんの少しだけ速くて、
私はついていきながら、彼の様子をちらりと見上げた。
「エンディ、急ぎ足じゃない?」
「そうですか?」
「……?」
(なんか……ご機嫌、ちょっとだけナナメ? でも、なんでだろう?)
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
夜の王都を走る馬車の中。
車輪の音が心地よいリズムを刻む中、私はゆったりと背もたれに身を預け──ようとして、ふと気づく。
(……え?)
エンデクラウスが、異様なまでに“隣に密着”して座っていたのだ。
肘がぴったり触れるどころか、体温まで伝わってくるくらいの距離感。
(な、なにこれ。どうしてこんなに詰めてくるの……)
彼はなにか言うでもなく、じっと私の横顔を見つめている。
けれど、その瞳には妙に焦りのようなものが混じっていた。
そして次の瞬間。
「んっ……!」
顎をそっと持ち上げられ──、唇が重なる。
一度、そして二度、角度を変えて深く、何度も。
「ちょっ……ちょっと待って、エンディっ」
唇の合間を縫って、慌てて声を上げる。
「どうしたの、急に……」
けれど、彼は答えず、ただ私を見つめたまま何かを押し殺しているようだった。
(……あ、なるほど)
その視線の意味に、私はようやく気づく。
(わぁ……珍しい。すごく余裕のない顔してる)
いつもの冷静で、余裕たっぷりな彼の顔とはまるで違う。
その目は、どこか“置いていかれた子犬”のように不安げで──でも、燃えるような執着もにじんでいた。
私はそっと、彼の頬に触れる。
人差し指ですべるように、あたたかく撫でながら、優しく微笑んだ。
「大丈夫よ。もう身も心も、ちゃんとエンディのものだよ」
その一言に、彼の瞳が一気に揺れた。
「ディズィ……あなたはっ……!」
声が詰まるように震えたかと思えば、また──キス。
「……あなたって人は……っ」
今度は強く、けれどどこか泣きそうな優しさを含んだ口づけだった。
まるで、“心ごと縛っておきたい”と願うような。
そして、唇を離したあと、彼はぽつりと呟いた。
「……どうすれば……あなたを、俺だけの檻に閉じ込めておけるのでしょうか……」
──こっわ。
思わず内心で青ざめた。
でもその執着が、エンディらしくもあり……私はすぐに、いつもの調子に戻って、ふっと笑った。
「それじゃあ、つまらないわよ。きっと」
「……つまらない?」
「そうよ。だってエンディは、私の“自由なところ”も好きなんでしょ?」
少し挑戦するように言ってみると、彼の目がきゅっと細められる。
「檻に閉じ込められた私と一緒にいても、きっと、幸せにはなれないわ。あなたが“恋をした私”は、檻の中にはいないんだから」
そう伝えると、エンデクラウスはしばらくじっと私を見つめて──
「……ああ、もう……やっぱりあなたは……」
と、静かに抱き寄せて、今度はキスをせずに、ただ私の額に唇を押しあてた。
馬車の中は、静かで、あたたかくて。
外の夜風の音さえも、まるで遠くの世界のように感じられた。