107.陛下、ご臨席
ルーンガルド邸の朝は、少しだけ慌ただしかった。
今日は──いよいよ、ベインダルお兄様とエンリセアちゃんの婚約パーティー当日。
屋敷には早朝から仕立て屋が入り、服の最終チェック、髪のセット、靴の艶出しまで入念に行われた。
クラウディスはまだ眠たそうにしながら「いってぇやっしゃい!」なんて言ってくれたけれど、今日は屋敷でお留守番。
パーティーは夜遅くまで続くし、大人たちの社交場に連れ回すにはまだ早すぎる。
──そして夕刻。
ディーズベルダとエンデクラウスは、揃って正装でアイスベルルク侯爵家へと向かった。
二人を乗せた馬車は、王都の石畳を静かに進んでいく。
「……なんだか、不思議な気分ね」
揺れる馬車の中、ディーズベルダが窓の外を見ながらぽつりとつぶやいた。
「お兄様とエンディの妹が、婚約するなんて」
「……俺も、そう思います」
エンデクラウスは苦笑しつつも、少し遠くを見るようなまなざしで言葉を続けた。
「リセの希望だったので推し進めましたけど……まぁ、他に適任もいませんでしたからね。
あの兄上に対抗できるような相手は、そうそういませんし」
「それは……確かに」
ベインダル兄は誰よりも冷静で、誰よりも完璧主義者。そして──恐ろしく手厳しい。
彼と釣り合いが取れる人間なんて、数えるほどしかいないだろう。
その中で“選ばれた”のが、エンリセアだったのだと思うと、やっぱり不思議でならなかった。
やがて、馬車はアイスベルルク侯爵家の正門に到着した。
館の前にはすでに豪華な馬車がいくつも並び、玄関ではメイドや従者たちが出迎えに忙しく立ち回っている。
中に入ると、広間には多くの招待客が集まり、格式高い音楽がゆるやかに流れていた。
空気は張り詰めていて、それでいてどこか祝福に満ちていて──
まるで、舞踏会のような雰囲気だった。
そして、時間になると。
会場の正面に、ベインダルが一歩前に出て、全員に向けて正式な婚約の挨拶を述べた。
「本日この場をお借りして、アイスベルルク家とアルディシオン公爵家との間に、
正式な婚約を結ばせていただきます──」
その声は堂々としていて、余計な感情を一切含まず、ただ静かに重みがあった。
隣に立つのは──エンリセア。
そこにいたのは、ディーズベルダが知っている“フリル大好き・ツインテールのおてんば令嬢”ではなかった。
髪は丁寧にまとめられ、うなじに沿うような優美なまとめ髪。
揺れる髪飾りも、煌びやかではなく、上品な淡いブルーの宝石がひと粒だけ。
ドレスも、これまでのような可愛らしいリボンやレースの洪水ではなく、
深みのあるサファイアブルーに、繊細な銀糸の刺繍が施された、まさに“大人の淑女”と呼ぶにふさわしい一着だった。
ほんの少し緊張したように口元が引き結ばれてはいたが、
ベインダルの隣に立つ姿は堂々としていて、胸を張り、肩をすくめることもない。
──少女が、確かに“ひとつ年を重ねた”のだと、誰もが感じさせられた瞬間だった。
「……本当に……エンリセア嬢?」
「……あれが、本当にエンリセア様か?」
「別人じゃないのか?」
招待客たちはこそこそと囁き合いながら、目を丸くしてふたりを見つめている。
さながら王女の舞踏会を見ているかのような空気が、会場全体に広がっていた。
そのざわめきの中──
重厚な扉がゆっくりと再び開き、ひときわ重厚な衣装を纏った人物が入ってきた。
「……あれは、まさか……」
ディーズベルダが目を細めてその姿を見つめる。
金糸で装飾された濃紺のローブ、深く刻まれた眉、揺るぎない威厳をそのまま身にまとったような堂々たる佇まい。
その後ろには王宮近衛たちが控え、扉の前にぴたりと整列する。
──それは、フィーサルド・ヴィ・グルスタント王。
王国の頂点に立つ、威厳と冷静の象徴その人だった。
「王……陛下!?」
「ご出席とは……っ!」
貴族たちの驚きが、今度は抑えきれないほどのざわめきとなって走った。
そもそも、公爵家以下の婚約式に王が出席することなど、前例にすら乏しい。
それだけで、今日の式が“何か特別な意味”を持っていることを誰もが察した。
そのとき、エンデクラウスが横目でちらりとディーズベルダを見ると、
彼女の耳元にそっと唇を近づけて囁いた。
「──実は」
「建国記念パーティーで、ベインダルとリセのダンスをご覧になって……陛下、完全に虜になってしまったそうです。今日は、“もう一度それを見たくて”お越しになったとか」
「……は……?」
ディーズベルダは一瞬、ぽかんと口を開いたまま固まった。
まさにそのとき。
会場の空気がふっと静まり返った。
グルスタント王が一歩、ゆっくりと中央へ進み出たのだ。
重い足音すら静寂の中に吸い込まれるようで、誰もが息を呑む。
近衛がさっと左右に分かれて道を空け、全ての視線が王の動きに集中していた。
そして──
「──ベインダル・アイスベルク」
その名を呼ぶ低く通る声が、会場の空気を震わせる。
「先日の建国記念祭にて見せた、貴殿とエンリセアの舞。……実に、印象深かった」
瞬間、またしてもどよめきが起こる。
特にリセの親族であるアルディシオン家の貴婦人たちは、思わず息を呑んで振り返った。
「つきましては、本日──ささやかにでよい。
あのときのように、再び“舞”を見せてもらえないだろうか」
ディーズベルダは口元を押さえながら、王の真剣な瞳と向き合うふたりを見つめた。
壇上に立つベインダルは、その表情ひとつ変えず──
「……かしこまりました。陛下のご希望とあらば、僭越ながら、お受けいたします」
と、静かに答えた。
その隣で──
エンリセアはほんのわずかにまばたきをしただけだった。
肩も震えず、顔色ひとつ変えない。
代わりに、その瞳には強い光が宿り、まっすぐに王の視線を受け止めていた。
まるで、当然のように舞台に立つ“主役”の目だった。
──そう。彼女は決して怯えてなどいない。
むしろ、この瞬間すらも“見せ場”だと心得ているような、堂々とした空気をまとっていた。
ベインダルの腕にごく自然な所作で手を添えると、口元にほんのりと余裕の笑みすら浮かべ、静かに──しかし確かな自信を持ってうなずいた。




