105.ベリルコート参上
数日後の午後。王都のルーンガルド邸の執務室では、重たい空気が流れていた。
「……うーん……」
ディーズベルダがペン先を唇にあてたまま、視線を天井へ向けて悩み込む。
「……んー……」
エンデクラウスも机の反対側で腕を組み、深刻な表情で沈黙を守っている。
──そしてもう一人。
「んー!」
机の横の椅子に座ったクラウディスが、小さな手で頬を押さえながらふたりの真似をして、同じように唸っていた。
紫の瞳が真剣そのもの。銀髪をくしゃっとさせながら、眉間にしわを寄せるその姿は、まるでミニチュア執務官。
「ふふ……」
思わずディーズベルダが肩を震わせて笑いそうになるのをこらえる。
(真似してるだけなのに……妙にそれっぽいのよね)
けれど、話している内容は本物の“悩み”だ。
「……やっぱり、人手が足りませんね」
そう口火を切ったのはエンデクラウスだった。
「数日やそこらで、騎士たちを鍛え上げることはできませんし。先日の件で露呈した通り、警備の質は……正直、まだ甘いです」
そう。先日、屋敷に侵入した商人によって、護衛たちの緩さが露見してしまった。
ルーンガルドに移る前からわかっていた“人材不足”という問題が、いよいよ表面化してきている。
「俺の私兵は、最果ての領地に置いてきていますからね。王都には連れてこられなかった」
そう言ってエンデクラウスは、肩をすくめた。
「アルディシオン公爵家の兵を使えば、父上に怪しまれるのが目に見えてますし」
「わーしまえまう!」
「……あー、しまえまう、ね。うん、たぶん“怪しまれます”って言いたいのよね?」
クラウディスの一言に、ディーズベルダが笑いをこらえながらフォローする。
だが、それでもすぐに気持ちを切り替え、少し真面目な表情で首を横に振った。
「いいの。無理しなくて。たとえアイスベルルク侯爵家の兵を借りられたとしても、エンディの評判が下がる恐れがある以上……私は借りたくないわ」
「なーわ!」
「……そう、“ならない”方がいいものね」
ディーズベルダが優しく頷き返すと、クラウディスも満足げににこっと笑った。
だが、エンデクラウスの表情は曇ったまま。
「……俺の“株”なんかより、ディズィとクラウの命が優先です。正直、もう……借りるしか、ありませんね」
どこか諦めたような声。けれど、その瞳には確かな決意も光っていた。
ディーズベルダは少し眉を寄せてから、小さく息を吐いた。
「……まぁ、それは、そうなんだけど……」
そのときだった。
コンコン──と、執務室の扉が軽くノックされる。
「奥様。お兄様がお見えです」
メイドの落ち着いた声が続いた。
「……え?」
ディーズベルダが思わず椅子から半分立ち上がる。
「婚約式の準備で、忙しいはずなのに……どうして?」
エンデクラウスと視線を交わしながら、急いで執務室を後にする。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
執務室を出て玄関ホールへ向かったディーズベルダは、来客の姿を目にして、思わず足を止めた。
「──え? えっ……!? ベリルお兄様!?」
あまりにも予想外の人物に、驚きの声が思わず漏れる。
てっきり、メイドの言う「お兄様」はベインダルのことだと思っていた。
だがそこに立っていたのは、アイスベルルク家の次男、ベリルコートだった。
長い銀色の髪がさらりと揺れ、上品な仕立てのコートを羽織ったその姿は、相変わらず女性のように美しい。
その中性的で涼やかな顔立ちは、まるで人形のように整っていて、周囲の空気すら凛とさせる。
「うわ、えーーー……珍しい。ほんとに珍しいわよ!? どうしたの、いきなり!」
ディーズベルダが目を丸くして近づくと、ベリルは小さく微笑んだ。
そのやりとりの横で、エンデクラウスがクラウディスを抱き上げ、しっかりとした動作で一礼する。
「アイスベルルク家、次男ベリルコート様。ようこそ、ルーンガルド邸へ」
「……こちらこそ。公爵家長男殿には、いつも妹がお世話になっております」
ベリルも静かに、だが丁寧な所作で頭を下げ返した。
礼儀を重んじる者同士の、簡潔で洗練された挨拶だった。
クラウディスはというと、エンデクラウスの肩の上できょとんとした顔をして、見慣れない美しい来客にじっと目を向けていた。
初対面──だが、物おじする様子はない。
そんなクラウディスに、ベリルコートが柔らかく微笑みながら、一歩近づく。
「はじめまして。私はおじの、ベリルコートだよ」
やさしい声でそう語りかけると──
クラウディスはぱっと目を見開き、小さな手をぶんぶん振りながら、
「ばーいう! ばーいう!」
と、クラウディスは元気いっぱいに手を振って叫んだ。
ディーズベルダは思わず吹き出しそうになりながらも、口元を押さえて、ほほえましくその様子を見守る。
エンデクラウスも苦笑しながら、息子の頭を軽くぽんぽんと叩いた。
「……かわいいね。ディーズベルダに似て、表情が豊かだ」
ベリルはやわらかい声でそう言うと、微笑みを残したままふっと視線を逸らし、少しだけ肩を落とした。
「──それで本題だけど……兄上が婚約しただろう? そのせいか、やたら最近、僕に“結婚しろ”ってうるさくってね」
先ほどまでの穏やかな笑みから一転、どこか疲れたような苦笑を浮かべながら、ベリルは肩をすくめてみせた。
「──え!? あのお兄様が!?」
ディーズベルダが目を丸くする。
「私が家にいたころなんて、『結婚なんてくだらない』って何度も言ってたのに……!」
(え、あのベインダルお兄様が? 本当に?? えぇ……なにがあったの)
信じられない、という顔で唸る妹の様子に、エンデクラウスもふっと笑った。
「案外、うまくいってるんですね。ベイルとリセは」
「……どうやら、そうらしいよ。あのふたり、思ったより波長が合うみたいで」
やれやれ、と言いたげにため息をつきながらも、ベリルの口調には嫌悪感はない。
むしろ、ちょっとだけ羨ましそうにさえ聞こえた。
「それで……相談なんだけど」
と、彼は真剣な表情に切り替えた。
「僕を、ここに住まわせてくれないかい? 人手が足りてないって風の噂で聞いたんだ。
僕なら兵士五十人分の仕事はできるし……なにより、実家がうるさくて仕方ないんだ」
「ベリル兄様……よっぽど参ってるのね……」
ディーズベルダは呆れたように、でもどこか心配げに兄を見た。
その視線のまま、ちらりとエンデクラウスへ目を向けると──
エンデクラウスはクラウディスを片腕で抱いたまま、柔らかい笑みを浮かべて答えた。
「──俺は賛成ですよ。部屋ならたくさん空いていますし、即戦力が加わるのは助かります」
その言葉に、ディーズベルダもすっと微笑みを返す。
「エンディがいいって言うなら、私も大歓迎よ。ベリルお兄様、ようこそ」
「……良かった……。本当にうるさくて……」
と、ベリルは長いため息をつきながら、まるで逃げ延びた捕虜のように玄関の空気を吸い込んだ。
その様子に、クラウディスが「うーしゃーい!」と元気に叫び、空気がふっと和らいだ。