104.小さな闘い
「ディズィ、ちょっといいですか?」
ノックの音とともに、エンデクラウスが執務室の扉を開け、ひょっこりと顔をのぞかせる。
部屋の奥では、ディーズベルダが大きめの机に向かって、羽ペンを走らせていた。
足元には紙の束。机の上にも書きかけのノートが何冊も積まれていて、その様子はまさに“書斎の主”。
「ん? なぁに?」
顔を上げた彼女は、眼鏡こそかけていないものの、雰囲気は完全に知的な学者モードだった。
「ミカリオ商会のリザルトが、“紙”を扱いたいらしいです。考えておくとは言いましたが……」
エンデクラウスが報告すると、ディーズベルダはふっと眉を寄せた。
「──断って」
ぴしゃり、と即答。
「……ですよねぇ」
エンデクラウスは苦笑しながらも、内心では“やっぱり”と納得していた。
「はい、断っておきます」
彼女が紙にどれほど執着しているか、彼はよく知っている。
紙は、ディーズベルダにとって日用品ではない。
前世の知識──“心の図書館”に眠る、世界に存在しないあらゆる情報を書き写すための“命綱”だった。
「人を増やして、紙を作る人を育てますか?」
ふと思いつきで尋ねると、ディーズベルダは羽ペンを止めて、彼を見た。
「私もね、エンディと結婚する前は、そう考えてたのよ」
懐かしむような微笑みを浮かべながら、続ける。
「でもルーンガルドの地を治めることになったでしょ? しかも、急に国一個分くらいの広さの土地が手に入って」
「……そういえば」
「国中の貧民を受け入れて、住まわせて──今でも、開拓と整備で手いっぱい」
そう言って、彼女は手のひらで頬杖をついた。
「人手……実際、足りてないのよね」
エンデクラウスは少し考えるように唇を引き結び──そして、ふと口を開く。
「……ディズィ、二週間ほど家を空けても良いですか?」
その瞬間だった。
「だめ」
「んっ」
ピシャリと即答され、エンデクラウスはちょっと情けない声をもらした。
「……えっ、もうちょっとこう、理由を──」
「戦争に行って捕虜を捕まえてくる気でしょう? お見通し」
ディーズベルダは視線を逸らすこともなく、さらりと核心を突く。
「っ……!!」
エンデクラウスはまるで心を読み取られたように固まり、胸の鼓動が一気に跳ね上がった。
見透かされている──というより、
彼女が自分をしっかりと“見てくれている”ことが、たまらなく嬉しい。
ちゃんと考えてくれている。心配してくれている。拒否する理由が、優しさなのだと伝わってくる。
(……く、苦しい……)
胸が、きゅうっと締めつけられる。
こんなにも長く一緒にいて、こんなにも近くにいるのに──ときどき不意打ちのように、心がぐらりと揺さぶられる。
「……どうしたの?」
ディーズベルダが小首をかしげて尋ねる。
その何気ない仕草すら、今日はやたらと可愛く見えてしまって。
「い、いえ……その……」
目を逸らしながら、エンデクラウスはごくりと喉を鳴らす。
そして、耐えきれずにぽつりと、絞り出すように言った。
「……好きです」
「──え?」
ペンを置いたディーズベルダの手が止まり、目を見開く。
(どういうタイミング?)
一瞬の静寂。
エンデクラウスはそれ以上言葉にできず、ただ小さく目をそらしながら、耳までほんのり赤くなっていた。
──その瞬間だった。
「きゃあああああ!!」
屋敷の奥から、悲鳴のような叫びが響いた。
ディーズベルダとエンデクラウスが同時に顔を上げる。
「今の……」
「クラウディスの部屋だ」
ふたりは同時に立ち上がり、慌てて廊下を駆けていった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
扉を開けた瞬間──
「っ……!?」
足元に冷たい感触がぶつかり、ざぱーんと水しぶきが上がった。
ディーズベルダとエンデクラウスのふたりは、思わず一歩後ずさる。
足元は膝あたりまでずぶ濡れになり、廊下まで水がじわじわと染み出してきている。
クラウディスの部屋は──信じられないほどの水浸しだった。
床は完全に水に覆われ、まるで浅い池のよう。家具の脚はぷかぷかと浮かび、タオルやぬいぐるみも水の中をゆらゆらと漂っている。
あまりの光景に、言葉を失ったふたり。
そして、そんな浸水した部屋の奥──水浸しの絨毯の上に、へたり込んでいる男がひとり。
全身ずぶ濡れ、顔面蒼白。
金の装飾をジャラジャラつけた、派手なベストの男──つい先ほど、ルーンガルドの塩を馬鹿にし、交渉から追い出した商人だ。
「……貴様、何を、している」
エンデクラウスの声は低く、しかし怒気が籠もっていた。
その場の空気が一気に張りつめる。
商人の肩がびくりと震え、慌てて立ち上がろうとするが、床が濡れて滑り、何度も転びかける。
「な、なんでもありません!! 誤解ですッ!!」
そのまま扉に向かって逃げ出そうと、全力で駆け寄ってくる──
「──ディズィ、危ない!」
咄嗟にエンデクラウスが腕を伸ばし、ディーズベルダの肩を引き寄せた。
男の肩がすれ違いざまにかすり、水滴がぱっと舞う。
(お腹の子に何かあったら……絶対に許さない)
エンデクラウスは、すぐに追うことができなかった。だが、それでいい。守るべきものは、すぐそばにいる。
男が扉の外へ逃げ出すのと同時に、鋭く叫んだ。
「衛兵! 追え!!」
その一声に、廊下に控えていた騎士たちが瞬時に反応し、全速力で後を追う。
室内に残されたのは──
床に倒れている兵士たち。体勢は苦しそうではなく、みなゆるんだ顔で眠っている。どうやら何かの薬で眠らされただけのようだ。
そして、部屋の奥には、全身びしょ濡れになった侍女・ジャスミンが壁際に立ちすくみ、
その前には、同じく水に濡れながらも小さな体で背筋をしゃんと伸ばしているクラウディスの姿があった。
「……何があった」
まだ怒りを沈めきれないまま、エンデクラウスが低い声で尋ねる。
ジャスミンは唇を噛み、震える声で答えた。
「そ、その方が……私に、しつこく言い寄ってきて……。最初は、言葉だけだったんです。でも、段々距離が近くなって……逃げようとしたら、最後には、体中を……っ」
彼女の目には、悔しさと恐怖がにじんでいた。
「泣きそうになっていた時、クラウディス様が……助けてくださって……!」
「──クラウ!」
声を上げたのはディーズベルダだった。
水を踏みしめながらすぐに駆け寄り、クラウディスを両腕でぎゅっと抱きしめる。
小さな身体は冷たく濡れていたけれど、彼の胸は温かかった。
「まま!」
腕の中で、クラウディスが小さな声でそう言った。
「クラウ……ジャスミンを、守ってくれたの?」
「たの!」
誇らしげに胸を張るクラウディスに、ディーズベルダの瞳がうるんだ。
「そう……本当に、ありがとう。クラウ、よく頑張ったわね」
やさしく頭を撫でると、クラウディスはにこっと笑った。
ディーズベルダはクラウディスを抱えたまま、ジャスミンの方を振り返る。
「ジャスミン、風邪を引いてはだめ。すぐに着替えていらっしゃい」
「……はいっ……!」
濡れたスカートを掴んだまま、ジャスミンは小さく礼をして、涙をこらえながら部屋を後にする。
「クラウ、あなたも着替えましょうね?」
「しょーね!」
元気にうなずく我が子に、ディーズベルダの表情がやわらかくほどけた。
エンデクラウスは深く息を吐き、冷静さを取り戻すように視線を室内にめぐらせる。
眠っている兵士たちの顔を一人ひとり確認しながら、眉をひそめた。
「……俺は後処理に行ってきます。こいつらを……一から鍛え直さなければいけませんね」
その背中は、どこか不機嫌そうでありながらも、頼もしい。
「えぇ、お願いね」
ディーズベルダはクラウディスをそっと抱き直し、静かに頷いた。