103.塩の交渉
──数日後。
ルーンガルド邸の一室。重厚な扉の向こう、昼過ぎの陽が差し込む客間では、商人との交渉に向けた準備が整っていた。
応接室のテーブルには、温かいハーブティーが香りを立て、焼き菓子が並べられている。だが、それらに手を伸ばす者はいなかった。
招かれていたのは、商売で名の通った商人たち数名。彼らの視線の先には、ゆったりとソファに腰を下ろした男──エンデクラウス・ルーンガルドがいた。
漆黒の髪に、紫の瞳。貴族としての気品と、どこか得体の知れない気迫を兼ね備えたその佇まいは、場にいる誰よりも目を引いた。
彼は茶を一口飲み、カップを受け皿に戻すと、静かに切り出した。
「……今日はお集まりいただき、感謝します。新たに扱っていただきたい品について、ご説明させていただきます」
言葉遣いは丁寧。だが、その口調には揺るぎのない自信が滲んでいる。
話題の中心は、“ルーンガルド領で採れた塩”。
この国では珍しい、“海由来”の特産品だった。
だが──
「……ふん。海でとれた塩、ねぇ?」
鼻で笑うような声が、場の空気をわずかに濁らせた。
「湿気くさくて使いものにならんだろう。山の岩塩に比べりゃ、そんなもの……ただの粗悪品だ」
声の主は、年配の男。装飾の派手な指輪をいくつもつけ、金ボタンのはちきれそうなベストを着ている。
高圧的な口調と態度に、他の商人たちが一瞬、言葉を失った。
──そしてそのとき、エンデクラウスがゆっくりと顔を上げた。
紫の瞳が、氷のように鋭く、男を射抜く。
ほんの少し目を細めただけで、空気がひやりと変わった。
「……なるほど」
彼の声は静かだった。だが、それがかえって恐ろしいほどに響く。
「では、質の悪い品には、質の悪い言葉が似合うということでしょう」
「なっ……」
商人がむっと口を開きかけたが、それより早くエンデクラウスは手をすっと持ち上げ、ソファの肘に肘をかけたまま、扉の方を示した。
「質の悪い人間とは、そもそも交渉したいとも思いませんので。……失礼、扉はあちらです」
言葉に棘はない。だが、その一言は、拒絶というよりも“断罪”だった。
侍女が何も言わずに扉を開けると、男はバツの悪そうな顔をしながら立ち上がった。
「ふ、ふん……覚えてろよ……!」
ぶつぶつと文句を言いながら、商人はその場を後にする。扉が静かに閉じられると、室内は再びしんとした空気に包まれた。
そして、残ったのは二人の商人。
どちらも、先ほどの男とは違い、真剣な眼差しをこちらに向けていた。
その目に宿るのは、好奇心と──わずかな期待。
エンデクラウスは彼らの様子を見て、ようやく口元を緩めた。
「……さて、話を続けましょうか」
エンデクラウスはゆるやかに表情を和らげ、先ほどまでの鋭さとは打って変わって穏やかな微笑みを浮かべた。
向かいの商人に視線を向けると、テーブルの上に並べられた小瓶のひとつを、慎重に手に取る。
瓶の中には、光を反射してきらきらと輝く白い結晶──まるで粉雪のように細やかで澄んだ塩が詰められていた。
「これは、我がルーンガルドの沿岸部で採れた塩です」
エンデクラウスがそう語ると、商人のひとりが思わず身を乗り出した。
その表情には、好奇心とほんの少しの疑念が浮かんでいる。
エンデクラウスは小さくうなずき、小瓶の蓋を静かに開けた。
中からふわりと広がったのは、潮風を思わせるさわやかで清浄な香り。
まるで、海そのものがそこに閉じ込められていたかのような錯覚を覚える。
「この塩は、“海”からとれるんです。陽の光と風──自然の力だけで干して、ゆっくりと、じっくりと乾かす。」
そう言って、彼は小さなスプーンでひとつまみの結晶をすくい、それを商人の掌にそっと落とした。
「ほら。味わってみてください」
商人はためらいながらも、舌先で塩を舐め──直後に目を見開いた。
「……あ、甘い……? いや、たしかに塩味だが……ほんのりと、旨みがある……」
その驚きは、演技ではなかった。舌に乗せた瞬間、一般に流通している岩塩や輸入塩との違いが、はっきりと感じられたのだ。
エンデクラウスは静かに、しかし確信を持って頷いた。
「ええ、そうでしょう」
彼は立ち上がり、手にした小瓶を窓際へと持っていく。差し込む陽光に透かすように瓶をかざすと、中の結晶がまばゆく光を反射して煌めいた。
「これは、ただの塩ではありません」
言葉に力を込めて、彼は振り返る。
「この国の市場では、塩は主に輸入に頼っています。山越えや海路を通るたびに金額は跳ね上がり、しかも……不純物が多く、料理人たちの悩みの種になっている」
「……たしかに、それは……」
商人たちは思わず顔を見合わせた。王都でも上質な塩は常に品薄で、高価な輸入品に頼らざるを得ないのが現状だった。
「けれどこれは違う。純粋で、透明で、癖がなく──ほんのりとした甘みと旨みが、素材の味を引き立てる。まさに、海がもたらした“恵み”」
そして彼は、ゆっくりと紫の瞳を細め、静かに言い添える。
「まるで……“白い金”ですよ」
「……!」
「王都の貴族たちは、まだこの塩の価値を知らない。ですが、先に動いた者が、未来の市場を手にすることになる」
一瞬の沈黙があった。
だがその後、商人のひとりが静かに息をつき、背筋を正して口を開いた。
「……ぜひ、お取引を」
言葉は簡潔だった。だがその声には、本気の意志が宿っていた。
エンデクラウスは満足げに笑みを浮かべ、ゆっくりと小さく頷いた。
「ご決断、感謝します。……未来の“塩の流通”を、共に変えていきましょう」
優雅な笑みを浮かべながら、エンデクラウスは静かに告げた。
──そして、心の中では密かにこう思っていた。
(……俺が交渉して良かった。ディズィを俺以外の男と喋らせたくないからな)
当然のように真顔でそんなことを考えているのだから、もはや病的な愛情である。
だが、その感情が顔に出ることはない。彼は完璧に微笑みを保ったまま、話題の終息を図ろうとした。
──が、別の商人が声を上げる。
「それと……もうひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
エンデクラウスが少しだけ目を細めて、そちらを向く。
喋ったのは、先ほどから黙って様子を見ていた落ち着いた雰囲気の男。記憶を辿る──確か、ミカリオ貿易商会のリザルトという名だったか。
「どうぞ」
エンデクラウスが促すと、男は慎重に言葉を選びながら問いかけてきた。
「……“紙”というものを作られていると、耳にしました」
「……ん? どこでそれを?」
少し驚いたように、エンデクラウスは眉を上げる。
「いえ、風の噂で……ですが、羊皮紙よりも安価で量産できると聞きまして。商品化する予定などは、ございますか?」
(紙、か)
エンデクラウスは内心で呟いた。
“紙”とは、ディーズベルダが前世の知識を使って作り出した特別なものだ。
草木の繊維を使って漉くという、独特の工程で、羊皮紙に代わる新たな媒体として注目されつつある。
ただ──
「……あれは、工程が非常に繊細でして。水加減、繊維の撹拌、乾燥の管理……安定して生産できるようになるには、もう少し時間がかかるかと」
エンデクラウスはそう答えながらも、リザルトの反応を慎重に観察していた。
商人は軽く頷きながら、言葉を続けた。
「ですが、そこを逆に考えましょう。うちと共同で工房を建て、職人を育てていくのです。もちろん、最初の投資はうちがある程度引き受けます」
「──つまり、技術協力という形で?」
「はい。販売の流通ルートはこちらで用意できます。利幅は折半でどうでしょう」
提示された条件は悪くない。相手も、それなりの覚悟で話を持ちかけてきているのが分かる。
(ふむ……ミカリオ商会は、紙の流通には確かに強い)
エンデクラウスは少しだけ沈黙を置いてから、落ち着いた声で答えた。
「──妻と相談して、考えておきます」
「……もちろんです。お返事をお待ちしております」
リザルトは礼儀正しく頭を下げた。
(……金の問題じゃないんだよなぁ。あれは…)




