黒い靄(アラン・ロッドフォード視点)
「全く、何をやっているんだ!!?」
父のロッドフォード伯爵が、バンッと執務机を激しく叩いた。
俺はアラン・ロッドフォード。父上に執務室に呼ばれて来てみれば、訳も分からずいきなり怒鳴られた。
「父上、一体何が起きたのですか……?」
「『一体何が』ではない!! 元婚約者のエヴァ嬢の元に行ったそうだな?」
「それは……」
確かに俺は、今朝ハートネット伯爵家の前に馬車を停め、エヴァが出て来ないかを見張っていた。
それもこれも、エヴァをダルトン家に連れ戻して、あの家の仕事をさせるためだ──彼女はあの家の全てを投げ出して、逃げ出したんだからな!
「ハートネット伯爵家から苦情がきている。それから、オルティス侯爵家からもな」
「ハートネット家はともかく、なぜ本家からも?」
俺は意外なところからも苦情がきていて、驚いた。
「オルティス侯爵家では、エヴァ嬢を子息の婚約者にとお考えだ。彼女は四大魔術に適性があって、魔力量も豊富──優秀な魔術師だそうじゃないか? それにオルティス侯爵の助手も務めているというからな……つまりは、お前は余計なことはするな!」
父上は俺をギロリと睨まれた。
エヴァは本家から求められるほどの魔術師なのか?
……ここ数年は魔術は使ってなかったはず……いや、でも魔物の討伐作戦で魔術を使っていたな……
「ですが、ただ少し相談をしたいことがあり、会いに行っただけでして……!」
俺は正当な理由を述べた。父上の誤解を解かなければ、と考えた。
「相談相手というなら、まず相手が悪い。元婚約者にのこのこと会いにいくバカがどこにいる? 誰かに見られてみろ、外聞が悪いだろうが! それにこのことをダルトン子爵家に知られてみろ、お前有責で婚約破棄されるぞ? これまであの家を立て直そうとしてきた努力を、全て無駄にする気か?」
ただエヴァにダルトン家の責任を取らせるために呼び戻そうとしただけなのに、なぜ父上にこうまで言われなければいけないのか!?
「それに、エヴァ嬢はもうハートネット伯爵家と養子縁組していると聞いた。彼女のことは諦めろ。そもそも、お前がエヴァ嬢よりもミア嬢の方がいいと選んでのことだろう?」
父上は溜め息を吐かれた。
だがおかしい。それでは、まるで俺がエヴァに未練があるみたいじゃないか!
「違います、父上! 私はエヴァに未練があるのではなく、ダルトン家のあの惨状を知っておきながら何も対処せずに出て行った彼女に、責任を取らせるために連れ戻そうと……」
「いい加減にしろっ!!」
バンッ!!!
父上は血相を変えて、さっきよりも激しく執務机を叩かれた。
「よりにもよって、会いに行ったのはそんな理由か!! エヴァ嬢は正式にハートネット伯爵家の養女になったと言っただろう? それに、彼女を追い出したのもダルトン子爵家の判断だというじゃないか! お前はどの面下げてエヴァ嬢に会いにいく気だったんだ!?」
父上は頭を抱えて「こいつはこんなにバカな奴だったか!?」と口走った。
「そんな……ですが、エヴァだって元ダルトン子爵家の者! 少しくらい彼女が投げ出した仕事を手伝わせてもいいではありませんか!!」
俺は必死に反論した。
俺だって、もうダルトン家の手伝いをするのは限界なんだ!
どれだけ王宮魔術師団の方の仕事に穴を空けてしまっていると思ってるんだ!
いくら将来の婚家の都合とはいえ、これ以上欠勤が続くようなら、王宮魔術師団内での出世は危うくなってくるだろう。
「……だから、まずそこの前提からして間違っているんだ! もうエヴァ嬢はハートネット伯爵家のご令嬢なんだ。なぜダルトン子爵家の仕事をする必要がある!?」
父上が理解できない生き物を相手にしているような、怪訝そうな目を俺に向けてきた。
「エヴァには責任を取らせないと……!」
「エヴァ嬢にはそんな責任も義務も何も無いのだよ……」
「エヴァが頷きさえすれば!」
「お前は本当にエヴァ嬢が頷くと思っているのか?」
「……い、今まで従順に働いてたではありませんか!」
「それはエヴァ嬢が次期当主になる予定だったからだろう? あんなボロボロの子爵家を継ぎたくないから、必死に立て直そうとしたのだろう?」
「…………」
それには俺も納得できた。今まさに、俺が全く同じ状況に立たされているからだ。
「それにエヴァ嬢がダルトン子爵家に戻って来てみろ。今度はハートネット伯爵家の後援を得た彼女が、ハリー・ダルトンやミア嬢を追い出して家督を奪うだろうな。そうすれば、お前ももう用無しだ」
「なっ……!? また私がエヴァの婚約者におさまればいいだけの話じゃないですか!?」
そんな筈はない!
俺は長年、エヴァの婚約者をしていたんだぞ!?
「……お前は本当に救いようの無いバカだな……お前はエヴァ嬢にどれだけのことをしたと思ってるんだ!?」
ゴンッ!!
父上は今度は拳を握って、執事机の上を叩かれた。机の天板の上で、その拳は固く握られてブルブルと震えていた。
「あれほどエヴァ嬢に酷い裏切りを働いておいて、なぜまた彼女がお前なんかを選ぶと思えるんだ!? ……それに今はライバルに、オルティス家の子息もいるんだぞ? 最年少で特殊魔術研究所に合格した天才だそうじゃないか? ダルトン子爵家は魔術師家系だ。魔術師として実力が上、家格も上なら、どっちを選ぶかなんて迷う必要もないだろうな」
父上は非常に冷めた視線を俺に向けた。そこには同情の色すら浮かんでいた。
「そ、そんな……! それでは私の今までの苦労はどうなるんですか!?」
世界の全てが信じられない思いだった。
壁も天井もぐらりと傾いたような気がした。
「それこそ無駄になるだろうな。悪いことは言わない、エヴァ嬢は諦めろ。婚約解消した時点でもう縁は切れたのだ。彼女を連れ戻したところで、もう元には戻れないのだよ」
バタンッ!
「……そうだな、お前は少し休め。頭を冷やした方がいい……」
視界が暗くなっていく中、父上の労いの声だけが物悲しげに響いた気がした。
***
俺が目を覚ました時、見慣れた天井が見えた。俺は自分の部屋のベッドに運ばれたらしい。
エヴァがあの家を出て行ってから、俺の状況はとんでもない方向に転げ落ちていった。
こんな状況を招いたハリー・ダルトンが憎い!
バカで浮気性で、自分は仕事もせず能天気に遊び回っているミアが憎い!!
こんな境遇に俺を突き落としておきながら、上手くあの家から逃げおおせて、ちゃっかり伯爵家の令嬢になり、さらに俺よりも格上の婚約者を得ようとしているエヴァが憎い!!!
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!!!
ブワッと、自分の体から真っ黒い靄が大量に吹き出したのが見えた。
以前にもあったが、あの時はただ単に仕事に疲れて幻覚が見えたものかと思っていた……
黒い靄は、俺の意志に沿うように、ゆったりと俺の体の周りを流れていた──俺は直感的に、これが呪いの魔力だと気づいた。
俺は呪い魔術に適性はなかったが、どうやらその才能が開花したらしい……
「は、ハハははハッ!!」
──直接手を下せないなら、呪えばいい!! 憎いあいつらを、地獄に叩き落としてやる!!!




