ただのエヴァ
「マダムーッ! やっと解放されたのよ!! 私は自由っ!!!」
王都一の占いの館「ルナテミス」の事務所で、私はテンションも高く両手を上げてくるくると回った。
母様に似た紫がかった淡い水色の髪が、バサバサと跳ねる。ここ数年は碌に手入れもできてなかったから、毛先がパサついてるし、ほとんど伸び放題だった。
「おめでとう。ステラちゃんもこれでやっと自分の人生を歩めるわね」
艶やかな漆黒の髪に、芳醇なワインレッド色の瞳をした美女が、長いパイプから紫煙を燻らせて微笑んだ──この占いの館を取り仕切るマダム・アンタレスだ。
私、エヴァは、ルナテミスで占い師「ステラ」として、息抜きも兼ねて時々こっそり働いていた。
マダム・アンタレス自身も「直感」スキルの持ち主で、この道五十年のベテラン占い師だ。
私のスキル「占い」を見抜いて、この道に誘ってくれた大恩人だ。
ダルトン子爵家を追い出された後、私は水魔術で服や髪を乾かして、すぐさまルナテミスの事務所に向かった──私があの家を追い出されることは、自分の「占い」スキルでとっくに分かっていたことだったからだ。
***
何ヶ月も前に、私は気まぐれに自分の将来を占ってみた。
展開されたタロットカードを見て、はじめは自分で自分の占い結果が信じられなかった。
私はダルトン家の長女で、祖父から直接、父の次の当主だと指名されていたからだ。実質、私が当主として仕事をしていたし、父でもこの指名は覆せないと思っていた。
はじめは無理やり押し付けられた当主代理の仕事だったけれど、仕事を通して、一緒に領地経営を頑張ってくれる仲間ができた。母様が亡くなった後も、私のためにダルトン家に残ってくれた使用人もいた。
そんな彼らを残してダルトン子爵家を出ていけないと思ったし、さらには、自分が築いてきた大事なもの全てを、父や義母や義妹に横から掻っ攫われることが、すごく悔しくてやるせなかった。
でも、自分の占いの的中率は、自分でもよく分かっていた。
だから、どうしても割り切れなくて、私はマダムに相談した。
マダムも、改めて私のことを占ってくれた。
広げたタロットカードをさらりと眺めると、穏やかな表情で、シンプルに質問してきた。
『ねぇ、ステラちゃん。ダルトン家の当主になることが、あなたの本当の幸せかしら?』
『マダム……』
占断を何も言われないってことは、きっとマダムの占いの結果でも……
『お祖父様の遺言通りに家を継ぐことを、ステラちゃんは本当に心から望んでいるの?』
長男だから、長女だから、次期当主に指名されたから、そうなる──貴族社会では当たり前のことすぎて、「自分が本当に心から望んでいるのか」なんて考えたことも無かった。
それに──
『でもそうなると、また円卓の魔女の家系が消えちゃいます……』
ダルトン子爵家は「円卓の魔女」の一角だ。
円卓の魔女は、ドラゴニア王家を建国当初から支えてきた魔術師の家系で、当初は十三家あった。お家断絶なんかがあって、今では五家しか残っていない。
でも、今でも定期的に円卓の魔女の家系の当主が集まっては、情報交換をしている。
当主の仕事を私に全て押し付けていた父は、円卓の魔女のことはおそらく知らないと思う。
円卓の魔女会議でも、父が参加したことは無いって聞いていたし。
『時代よねぇ、仕方ないわ。何でも物事は移り変わるし、どんなに栄華を極めても、最後は終わっていくものよ。ダルトン家もそう、円卓の魔女もそう』
マダムは、一度広げたカードを元の束に戻して言った。
『…………』
『まだ時間はあるわ。ゆっくりステラちゃんの気持ちを整理していけばいいのよ』
『……私があの家に残ることは……?』
私がどうしてもハッキリさせたくて訊くと、マダムは小さく首を横に振った。
マダムがカードの束をテーブルの端に避けようとして、一枚だけひらりと落ちてきた。
『ああ、そう。さっきの占いでもそうだったけど、ステラちゃんに出ていたこのカードがとても印象的だったの』
マダムは、一枚だけ落ちてきたカードを、スッと私の前に置いた。
『愚者』
『そう、新たな出発ね』
『愚者』は、新緑のように瑞々しい緑色の服を着た人物が描かれたカードだ。その表情は真っ直ぐ堂々と前を見つめていて、まるで今にもカードから飛び出してきそうな躍動感のある絵柄だ。
……身一つで新しい世界に飛び込む……
今まで築いてきたものも何も持たない旅立ち。
自由で何にも縛られない分、何者でもない。だけど、そこに無限の可能性がある……
『はぁ……』
私は両手で自分の目元を覆った。
私も占い師だ──カードが私に何を伝えようとしているのか、痛いほどよく分かった。
──愚者のようにバカになってさ。何も考えずに、飛び込んじゃえよ。新しい世界に──
『何もいじわるで、このカードが出ているわけではないのよ。あなたの進む道がここにあるということを、カードはただ示しているだけだから』
『……そうですよね……』
マダムに優しく諭すように言われ、私はただ頷くことしかできなかった。
***
「幻の占い師ステラもついに常勤ね。ステラちゃんはよく当たるし、お客様からも人気が高いから嬉しいわ……でも、今日はしっかり休んだ方がいいわね。私の家の場所は分かるわよね? これが合鍵よ」
マダムはにっこり微笑んで、鍵を一本渡してくれた。
何ヶ月もかけて、私は独り立ちの準備を進めていた。
生活が落ち着くまでは、しばらくマダムの家でお世話になることも約束していた。
「ありがとうございます。鍵、お借りしますね」
「好きなだけ居てくれていいわよ」
事務所を出がけに不意にマダムに声をかけられて、私はなんだか急に胸がいっぱいになった。ぺこりとお辞儀だけして、逃げ出すように事務所を飛び出した。
マダムの家は、お店から少し離れた王都の郊外にある。
小さな庭付きの一軒家だ。
ハーブとじゃがいもだけの、ささやかな家庭菜園。
常連のお客さんからもらった淡い紫色のミニバラは、根が生えてきたため小さな植木鉢に植え替えられている。
お隣さんとの境目に生えているのは、ブルーベリーの木だ。
煉瓦造りの家はこまめに手入れがされていて、ポーチは綺麗に掃かれている。
私はマダムから預かった鍵を差し込んだ。
苦もなく回すと、カチャリと音を立てて扉が開いた。
中に入ると、あたたかい陽だまりと同じ、なんだかいい匂いがした。
荷物を運んだりするのに、何度か通ったマダムの家。
私はあらかじめ相談して決めていた、一階の元物置部屋に向かった。
ベッドと小さなクローゼットだけが置いてある簡素な部屋だ。
「……ふぅ……」
私はとりあえずベッドに座った。ずっと緊張しっぱなしだった分、自然と大きな溜め息が漏れる。
今日はいろいろありすぎて、気持ちの方はもういっぱいいっぱいだった。
家を着の身着のまま追い出されるなんて、いくら心の準備をしていたとしても、実際に体験することには敵わなかった。
『エヴァ。落ち着いた?』
「クロ……」
私の足元の影から、子猫のような使い魔のクロが飛び出して来た。
薄い金色の瞳で私を見上げて、念話で語りかけてきた。
『サンドイッチ、食べる?』
「うん」
クロが一つしかないベッドの上に飛び乗って、かごに入ったサンドイッチを魔術で出してくれた。
この部屋にテーブルは無いから、行儀は悪いけどベッドの上で食べるしかない。
サンドイッチにかぶりつくと、一気に緊張の糸が切れて、ぶわりと涙が浮かんできた。
『エヴァ?』
「…………あんなに頑張ったのに、全部、なくなっちゃった」
ポロリと本音がこぼれ落ちた。
マダムの前では、心配をかけたくなくてわざと元気な振りをしていた。
ダルトン家では……あんな家で、あんな人たちがいる所で、涙なんか見せたくなくて強がってはいたけれど、やっぱり無理だったみたい……
『うん』
「ニコラスを屋敷に置いてきちゃった。領地の人たちも、せっかく一緒にここまで頑張ってきたのに、これからだったのに……」
『うん』
「あの人たちは、彼らに何にもしてあげられないんだよ……私がいなくなったら、領もあの家も…………」
三年間、頑張った。
はじめは押し付けられたものだった。
でも、領民たちと接していくうちに、彼らを守りたいと思うようになった。
そして、領を発展させて、彼らを守ることも私の仕事になっていた。
『でもそれは、エヴァのせいじゃない』
クロが、猫背なのにしゃんと背筋を伸ばして、私を見つめた。
私と同じ薄い黄色の瞳と目が合う。
『本来はハリーが負うべきだった。ハリーが招いた結果だ』
クロがザリッと私の頬を舐めた。
しょっぱそうに目をつぶる。
私は、ヒクッと鼻をすすって、熱い息を不器用に吸った。
『ニコラスにも、エヴァはできるだけのことをしてあげた。領民にも、ハリーにめちゃくちゃにされたものを、まともにしてあげたんだ』
クロはフイッと背中を向けた。
トンッと、ベッドから軽やかに下りて床に着地する。
『エヴァはもういい加減、あの家から解放されるべきだ』
クロはそう念話で伝えると、トプンと影の中へと沈んでいった。
私を一人きりにしてくれたみたい。
「ゔぅっ…………うわぁあああぁ〜〜〜ん!!!」
──あの家の何もかもが、ただただ私には重かった。