婚約解消
「こんなことは言いたくないが、どれだけ待たせる気だ? それに、なんだその格好は? 婚約者を前に失礼ではないか? そんなことだから……まぁ、いい。とにかく座れ」
客室に入ってすぐに、アラン様から非常に不機嫌そうに言われた。
アラン様はサラサラの黄金色の髪をしていて、魔術師らしく長く伸ばしている。顔立ちは綺麗に整っているけれど、今は深々と眉間に皺を寄せて、私を酷く睨みつけていた。
「エヴァ、お前との婚約を破棄する!」
私が席に着くと、メイドが私の分の紅茶を淹れるのも待たずに、いきなりアラン様に宣言された。
「アラン様、それをおっしゃるなら『破棄』ではなく『解消』です。私たちの婚約は家同士が決めたことです。白紙に戻すなら、父の方に言っていただきませんと」
とりあえず、私は大事なことを伝えた。
仕事は一切しなくても、まだ父がダルトン子爵家の当主なのだ。
「う、うるさい! そうやっていちいち口答えするところが可愛くないんだ! いい加減、呪い魔術が使える魔女が婚約者だなんて気味が悪いんだよ! それに、私は真実の愛に目覚めたんだ。ミア、おいで」
「ごめんなさいね、お義姉様。ダメだとは分かっていたの。でも、どうしてもアラン様のことを愛してしまったの」
私に向ける厳しい表情とは違って、あたたかい笑顔で手招きされたのは、義妹のミアだ。言葉では謝ってはいるけど、全く悪びれる様子はない。
胡桃色の柔らかそうな髪は綺麗にくるりと巻いていて、ぱっちりと大きなピンク色の瞳に、少し幼い顔立ちの美少女だ。
碌なドレスも着ていない私とは違って、まるで「私が主役よ!」とでも主張するかのように、綺麗なピンク色のドレスで可憐に着飾ってる。
「お前よりもいち早く、ミアは王宮魔術師団に入団したんだ。魔術師として優秀な証だ。何よりお前とは違って愛嬌があって可愛いし、守りがいもある素晴らしい女性だ!」
私の目の前で、アラン様はミアを次々と褒め称えて、愛おしげに抱き寄せた。
「うふふふっ。アラン様ったら〜!」
ミアも嬉しそうに頬を染めて、アラン様にしなだれかかった。
一応、アラン様はまだ婚約者がいるはずの異性なのだけれど、ミアにとってはそんなことはもう関係ないみたいね。
そして、アラン様にはバレないよう、時々チラリと私に敵意満々にギラついた視線を送ってきた。
私は何もかもが面倒臭くなって、深い溜め息を吐いた。こんな茶番、いつまでも付き合っていられない。
私が口を開くのも面倒くさがっていると、ミアがふふんっと鼻で笑った。鈴を転がすような声で、得意げに言った。
「もうお父様には許可をいただいてるのよ。アラン様の婚約者は、私に変更になったの。そして、ダルトン子爵家を継ぐのも!」
え。嘘?
「……それは、本当なの?」
私が真面目に訊き返すと、ミアはしてやったりといった風に、ニタリと口角を上げた。
「本当よ。お父様から聞いてませんの? ……あ、お義姉様はお父様から嫌われてますものね。聞かされてなくても仕方ありませんわね」
クスクスと嘲笑うようにミアが語った。
「……そう、分かったわ。もういいでしょう?」
私がさっさと話を切り上げて客室を出て行くと、
「あらあら、お義姉様は家督の継承権も婚約者も何もかも失ってしまって、可哀想ね。呪い持ちで、あんなにみすぼらしい姿ですもの。次の婚約者は見つからないでしょう」
「ああ。あんな女、誰も見向きしないだろう。私はミアに乗り換えられて、本当に幸せ者だよ」
背後から、やけに大声でおしゃべりしている二人の声が聞こえてきた。
***
私は執務室に戻ると、すぐさまポケットの中にあった魔道具のスイッチを入れ、外に声が漏れないように防音結界を張った。
「いやったぁああぁーーーっ!!!」
歓喜でぶるぶると手が震える。
やっと……やっと、この家から逃げられる!!!
私が当主代行をやるようになって三年経ち、領地経営もやっと上向いてきて、借金も減ってきていた。これだけ頑張ってきたんだ、っていう愛着も確かにある。
でも、足を引っ張っぱることしかしていない父や義母や義妹や、冷たい態度の婚約者にうんざりしていたし、もう限界を感じていたのも事実だ。
正直、今までに何度放り出してやろうかと考えてきたことか……
今は、今までやってきたことを全部奪われた喪失感もあるけれど、それ以上に、全ての重荷から解き放たれた開放感の方が強かった。
「何が『継承権も婚約者も失って可哀想』よ。こんな没落寸前の弱小貴族の家督も、浮気者の婚約者も、のしを付けてくれてやるわ!」
執務室のデスクの方に目を向けると、父が私に押し付けた書類がまだ山盛りになっていた。
でも、婚約者も家督の継承権も失った私は、いわばこの家のお荷物。父の性格上、すぐにでも私をこの家から追い出しにかかるはず──そうなれば、私は自由の身!! こんな仕事ともおさらば!!!
その時、コンコンッと執務室のドアがノックされた。
──来たっ!!!
私が期待を込めて「どうぞ」と答えると、白髪をきちんとなでつけてピシリと執事服を着こなした家令のニコラスが突入して来た。
「お嬢様ぁああぁあっ! 行かないでくだされ!! あんなポンコツしか残らなかったら、ダルトン子爵家は没落しますっ!!! むしろ、お取り潰しになりますっ!!!」
ニコラスが涙ながらに突撃してきた。
「ゴフゥッ!」
私の鳩尾に良いのがキマった。
「あんな見栄っ張りの旦那様と浪費家の奥様と自分勝手なお嬢様しか残らなくなったら、ダルトン子爵家はもうおしまいですっ!!!」
ニコラスは、ガックガクと私の肩を持って揺らした。
こうなると、エレガントかつ激情家な初老の家令は止められない……
ニコラスは、ダルトン子爵家に残ってくれた唯一のまともな使用人だ。領地経営や帳簿をニコラスが抑えてくれていたから、借金まみれのダルトン家がまだ存続できてるのだ──いわば、この家に残った最後の良心だ。
「お、落ち着いて、ニコラス! 大丈夫よ! ちゃんとあなたの分の次の屋敷の紹介状は書いておいたから!」
私がそう声をかけると、一瞬、ニコラスがピタリと止まった。
「『大丈夫』の意味が違います!!」
ニコラスから渾身のツッコミがきた。
「とにかく、はい、これ!」
私はニコラスの胸元に、紹介状が入った封筒を押し付けた。
だって、そろそろあの人が来てもおかしくない──
ノックも無しに、乱暴にバンッと執務室のドアが開いた。
「なんだ、まだ何も終わってないのか。グズが」
たぷんと前にはみ出した腹を揺らして入って来たのは、父のハリーだ。
「エヴァ。お前は本日でダルトン家の者ではなくなった。義妹に婚約者を奪われるような情けない奴に、ダルトン家を名乗る資格はない。それに穀潰しなどいらないからな。二度とダルトン子爵家の名を名乗るな。出て行け!」
「だ、旦那様っ!?」
「なんだ、文句があるならお前を解雇してもいいんだぞ」
ニコラスが嗜めようとすると、父は彼を睨み返した。
「……そ、それは……」
ニコラスはガクッと肩を落として、言葉を飲み込んだ。
父が勝ち誇ったようにニタリと笑う。
「ニコラス、もういいわ。……分かりました。出ていきます。それで、手続きの方はもう済んでいるのですか?」
「うるさい、さっさと出て行け!!」
「きゃっ!」
父は持っていたステッキで、私の頬を横殴りに払った。
視界が揺れて、口の中に血の味が滲んだ。
「お嬢様!!」
ニコラスが駆け寄ろうとしたが、父がステッキで彼の進路を邪魔した。
「……ニコラス、私は大丈夫よ……」
私がニコラスの目を見つめると、彼はうっと言葉を詰まらせた。
私が玄関から出て行こうとすると、玄関ホールにはなぜかミアとアラン様が見送りに来ていた。
「クスクス。あーあ、お義姉様はついに平民になっちゃった。とってもお似合いね……あら? そういえば家族の縁も切れてるのよね? もう義姉でも何でもないわ」
「あんな魔女が元婚約者だったとは、悍ましい限りだよ。それに比べてミアはかわいいし、最高の婚約者だよ」
私は二人のことを無視して、さっさと出入り口へ向かった。
玄関を出ようとすると、義母がわざわざスクロールを使って、水魔術のウォーターボールをバシャンッと私に当ててきた。
濃いアイシャドウの目が、にんまりといやらしく笑っている。
「薄汚い平民がいるね。さっさと出ていきな!」
アハハハッ!! と下卑た笑い声が、ダルトン家の玄関ホールにこだましていた。
「にゃあ」
私の後を、使い魔のクロだけがテテテ……とついて来た。
私と同じ薄い金色の瞳で、心配そうに私を見上げている。
「その薄汚い猫共々、さっさと出て行け!!」
父も私を追い出そうと、魔力を練り始めた。
私は走ってダルトン子爵家の門を抜け出した。
使い魔のクロも、タタタッと走って後をついて来る。
——こうして、私はただのエヴァになった。