エヴァ・ダルトン子爵令嬢
「これが終わるまでは部屋を出るな。いいな」
父のハリー・ダルトンはそう言い捨てると、でっぷりとしたお腹を揺らしながら、執務室を出て行った。
ダルトン子爵家当主の執務室のデスクの上には、書類の山がいくつもできあがっていた。
──わざとこの量の書類を隠してたっていうの? 私に嫌がらせをするためだけに? しかも、自領の報告書とか陳述書とか他の貴族からの手紙とか、すっごい大事なものばかりだよ? バッカじゃないの?
「……当主、失格」
私はポケットの中に手を突っ込んで、魔道具で防音結界を展開すると、悪態をついてさっさと席に座った。
緊急のものがないか、ざっと書類に目を通す。
私はエヴァ・ダルトン。ダルトン子爵家の長女だ。
残念ながら、私は見た目ほどお淑やかな性格はしていない。そんなもの、ここ数年で全部かなぐり捨ててきた。いや、捨てざるを得なかった。
私は、派手さはないけど貴族の端くれらしくそれなりに整った顔立ちに、薄い金の瞳と母様ゆずりの紫がかった淡い水色の髪をしている。
そのためか、全体的に色が薄く地味で印象に残りにくい……ゆえに、儚げだとか、控えめだとか、深層の令嬢だとか言われる──要は、舐めて見られるのだ。
そんな深層の令嬢(仮)に、父は当主の仕事を全部押し付けたのだ。
私が十三歳の時──母様が亡くなった時からずっとだ。
はじめは私も抵抗した。そもそも、当主の仕事なんてやったことがないどころか、教えられたことさえなかった。できるはずがないのに。
──ただ、父の方がある意味強かった。
私を王都にあるタウンハウスに残して、後妻のシエンナと義妹のミアを連れて数ヶ月に及ぶ新婚旅行に出かけたのだ……「このままではダルトン子爵家が回らなくなる!」と家令のニコラスに泣きつかれて、さすがに私は家の仕事に手をつけた。
当主の仕事をしてみてすぐに分かったことは、「父は仕事ができない」ということだった。そのくせ見栄っ張りなのだ。
ダルトン子爵家は、建国当初から続く魔術師の家系だ。
魔術師は興味を持ったことに意識を集中しすぎるあまり、他のことは放置する悪い癖がある。
それは父にもしっかり受け継がれているようで、遊びと贅沢以外は、仕事も貴族の義務も何もしてはいないかった。
……とはいえ限度はある。本来なら、身を持ち崩したり、家を傾けてまですることじゃない。
家の仕事をやるようになってすぐに、ニコラスに連れられて、ずっと放ったらかしだった領地にも行った。
当主の代わりにやって来た年端もいかない深層の令嬢(仮)に、領地で働く現場の人たちは、一気に絶望の色を滲ませた。
ただそれも一瞬のことだった。
私が古くからダルトン子爵家に仕えてくれているニコラスの手を素直に借り、父とは違って真面目に現場の人たちと向き合い、彼らに混じって慣れないながらに領主の仕事に打ち込んだためか、次第に領地経営に協力してもらえるようになった。「これなら次代の領主様は安泰だ!」って咽び泣かれたわ。
そして、ニコラスに帳簿の見方を一から教えてもらい、今度は私がダルトン子爵家の経済状況に絶望した。
ニコラスの言っていたことは本当だった。あと一歩対応が遅れていたら、屋敷が、領地が、差し押さえられていたかもしれない……
こんな経済状況で後妻との結婚式? 新婚旅行?? 新しくできた妻と娘にドレスやジュエリーをプレゼント???
……とにかく、狂気の沙汰に思えた……
先代のダルトン子爵家当主で祖父のジェイコブから、父の次の当主に指名されていた私には、逃げ道が無かった──
こんな負債だらけのダルトン子爵家を引き継いでたまるものか!! こうなったら、ダルトン子爵家の再建じゃあ!!!
──十三歳のこの時、私は貴族の子女としてあるべき「淑女エヴァ」を捨てた。
お淑やかに微笑んでるだけじゃ、お家は守れないからね!!!
私が父からの嫌がらせの書類を捌いていると、ひらりと執務机の上にカードが舞った。
めくって何のカードかを確認してみれば、『塔』のカードだ。
ドラゴンが口から吐く炎に巻かれた、今にも崩れそうな塔の絵柄が描かれている。
……突発的なトラブル発生、と……
その時、バァーーーンッ! と執務室のドアが勢いよく開け放たれた。
そして嫌がらせのように、つむじ風が執務室内に吹き込み、書類を巻き上げてバサバサと床に落としていく。
「おや? これならあんたの今夜の夕食はいらなそうだね。グズなあんたじゃディナーまでには終わらないだろう?」
ニヤリと底意地悪そうに笑うのは、義母のシエンナだ。
どどーんっとわがまますぎるバディをねじ入れて、執務室内に入ってきた。
ちなみに昔はスタイル抜群の美人だったらしい……でも、それも今は昔……
「エヴァの夕食は不要だと、料理長には伝えておくよ!」
義母はさらに追い討ちをかけるかのように、床に落ちた書類をぐりぐりとヒールで踏みつけた。
あ、それ。あなたのドレス代の請求書です。支払わなくてもいいなら、いいんですけど。
義母は、オーホッホッホ……と勝ち誇ったように高笑いをしながら執務室を出て行った。
相変わらず嫌味ったらしくて騒々しい人だ。
そして、私の仕事の邪魔ばかりしてくる。
でも、大丈夫。
緊急の書類だけは、ちゃ〜んと別に分けて確保しておいたから。『塔』のカードが出た時点でね。
私にはスキルで「占い」がある。
占いができることはもちろんだけど、時々、さっきみたいにタロットカードが私の目の前に不意に現れることがある。
そういった時は、私に何かメッセージがある時だ。
カードに従うことで、大難を小難にできる──本音では、難自体に起こらないでもらいたいのだけど。
もちろん、父にも義母にも義妹にもこのことは伝えていない。
こんな便利なスキルがあると分かったら、何をさせられるか分かったものじゃないし、祖父母にも母にも「父には隠しておけ」と言われていたからね。
「クロ」
私は使い魔を呼んだ。
真っ黒な子猫が「にゃ〜ん」と可愛く返事をしつつ、私の影から出てきた。薄い金色の瞳は、私と同じだ。
見た目は子猫サイズだけど、実はものすご〜く長生きの魔法猫だ。初代ダルトン子爵家当主の時から代々の当主に仕えてくれていて、私とは祖父が亡くなった時に使い魔契約を交わしてくれた。
私がクロの正体を見たらすごくびっくりするからって、まだ本当の姿は見せてもらっていない。
「クロ、ごめんね。また外でパンでも買ってきてもらいたいの」
「にゃ」
私はおつかいメモを、クロの首輪にくくり付けた。
使い魔契約をしているクロは影魔術が使えるから、影の中に私のお財布や大事なものをしまうことができる。
だから、これでクロでも最低限のお買い物ができるのだ。
クロは、シュッとまた私の影に潜った。影伝いに、外に買い物に出てくれたのだ。
義母のシエンナがダルトン子爵家の使用人を執り仕切るようになってから、今まで勤めていたまともな使用人はほとんど追い出されてしまい、彼女の顔色を窺うような人ばかりが残ってしまった。
新しく入って来る使用人も、義母の息がかかった人たちばかりだ。
だから、私は勝手に食事を抜かれることが多いし、食事が出たとしても腐りかけの食材を使ったものなど碌なものではなかった──今回みたいに、使い魔のクロに外でまともな食事を買って来てもらうことも多い。
それに、掃除や洗濯のような私の身の回りのことは、メイドは誰もやらなくなった。自分でやるようになったから、おかげさまで自分のことは自分で何でもできるようになった。
私が当主の仕事をするようになった十三歳の時に比べたら、今はまだマシになった方だ。
仕事にも慣れて、借金もどうにか減ってきてるし、領地経営も今のところは安定している。
ただ、相変わらず見栄っ張りで働かない父と、浪費家の義母と義妹が、次々と新たに借金を作ってしまうから、予断を許さない状態だ。
──彼らは、私が正式にダルトン家の当主になったら、どうするつもりなのだろう? このままダルトン家にいられると思っているのかしら?
コンコンッ。
その時、執務室のドアが叩かれた。
「どう……」
「失礼します」
こちらの返事も待たずに勝手に執務室に入って来たのは、メイドのリリーだ。
「最後まで返事を聞いてから入室しなさい」
「チッ」
メイドの舌打ちに、私は眉根を寄せた。
メイドとして全く教育がなってない。義母の機嫌を損ねたら解雇されるのは分かるけど、あなたのお給料を捻出してるのは私なのよ?
「アラン・ロッドフォード様が客室においでです」
リリーはぶっきらぼうにそれだけ伝えると、さっさと退室して行った。
私は溜め息を吐いた。
先触れもなく、しかも、もう客室に来てるだなんて……おそらく義母や義妹の差し金で、わざと私に遅れて伝えるようにしてるのでしょうけど……
私は自分の姿を見た。
来客の予定は聞いていなかったから、使用人の制服の方がまだマシなぐらいのボロだ。深層の令嬢(笑)が仮にでも着ていいような服ではない。
ただ、もし私が必要経費だとしてドレスを買っても、なぜか次の日には私のクローゼットから消えて、義妹のクローゼットに移動してたりする。
私が抗議すれば、「義妹にドレスの一つもあげられないなんて、なんてケチな義姉だ」とか「可愛いミアの方が似合うし、その方がドレスも喜ぶでしょう」とか何とか言って、父も義母も義妹の肩を持つし、義妹にドレスを明け渡すまでずーーーっとネチネチ言い続ける。
盗られそうな物は買わないか、隠すなどして自衛するしかないのだ。
こんな格好で気乗りはしないけど、あまりお待たせしすぎるわけにもいかない──正直、私は婚約者のアラン様には、ある意味頭が上らない。
アラン様は、有名な魔術師家系の流れをくむ伯爵家の三男だ。二つ年上の彼は、王宮魔術師団で中級魔術師として働いているエリートだ。
この婚約は元々、祖父母がダルトン子爵家を継ぐ私のことを考えて、より優秀な婿を迎え入れようと、ロッドフォード伯爵家に何度も頭を下げて頼み込んで決めてもらったものだった。
まぁ、こんな没落寸前で自転車操業の子爵家に婿入りしてくれるなんて、大変奇特な方だ。
これを逃せば、ダルトン子爵家に来てくれる婿はいなくなってしまうかもしれない。
そう考えると、私も下手に出るわけにもいかない……
席を立った時、ひらりとタロットカードが床に落ちた。
骸骨が大鎌を振るい、その鎌の先には転生していく魂が描かれている──『死神』のカードだ。
私は嫌な予感にキリキリと胃を痛めながら、客室に向かった。