#2「Dreamers」
〈メンバーのヨンデは7月31日付けでスターゲイザ―の活動および当社との契約を早期終了し、新たな挑戦を始めることとなりました〉
というファンクラブからのお知らせを見て、唖然とし、言葉が出ない。感情が追いつかない。
KPOP系メディアのネット記事では、
〈スターゲイザーからヨンデが脱退〉
〈スターゲイザーのメインボーカル、ヨンデが突然の脱退発表〉
などの文字が踊り、KPOP系YouTuberは
〈スタゲからヨンデ脱退の衝撃。KPOP雑食オタクの正直な感想〉
とファンを煽り、Twitterでは
〈え?ヨンデ脱退とか嘘だよね?〉〈ヨンデいなくなるとかマジ無理なんだけど〉
〈事務所は理由説明しろよ〉〈もうスタゲ推すのヤメるわ〉
〈知らないグループの知らない奴の脱退とかどうでもいいwww〉
〈登場人物誰一人知らなくて草〉
などと、ファンとファンでは無いただの通りすがりの煽り屋が入り乱れ、リプ欄はカオス状態。
私はただただ茫然自失で感情オプソ(無い)状態。
『東京テレスコープ』のグループDMが鳴り、せんときょんこからメッセージが届いた。
〈まいん大丈夫?〉〈話聞こうか?〉
心配してくれているのは分かったが、今は返事をする気になれず既読スルーする事しか出来なかった。
この日一日、ここから退勤時間までの記憶はほぼ無い。オプソ。
それどころか、どうやって家に帰ったのか、夕飯は食べたのか、お風呂に入ったのか、生活の記憶がごっそりと抜け落ちていたのだった。
次の日の朝。火曜日。
前日、家に帰った記憶は無いが自分の家の洗面台で私は朝支度をしている。
鏡に写るその表情は虚無そのもの。
いつものように電車に乗り、いつものように道玄坂を登り、いつものようにエレベーターに乗り4階のオフィスに向かっているのだが、今自分がどこにいて何をしているのかがよく分からない状態。
生きている実感がまるで無い。
仕事をしていても虚無。お昼を食べていても虚無。
気づいたら会社を退勤し、帰っている。
いや、まだ気づいてないのかもしれない。
ボーッと歩いていると、ビルの喫煙所から出てきたスーツ姿の男性と肩がぶつかった。
「あっ、すいません」
とぶつかった男性が謝罪してきたのだが、私は言葉を返す気力も無く無言のまま虚無の顔で会釈を返し、そのまま歩き去っていってしまった。
「今の人、俺にしか見えてないとかじゃないよな?」
怯えた声で同僚に確認している男性の声が微かに聞こえてきた。
他人からも生きてないかもしれないと思われるぐらいの佇まいになっているのだなと認識した。
そして、さらにその次の日も気づいたら洗面台で朝支度をしているのだが、鏡に写る私の顔は相変わらず虚無の顔。
仕事をしていてもやはり虚無。お昼を食べていてもやはり虚無。
虚無そのもの。虚無が服を着てそこにいると言った方が正しいのかもしれない。
この日の帰り道も、昨日と同じビルの喫煙所から出てきたスーツ姿の男性と再び肩がぶつかり、
「あっ、すいません…。ひっ、昨日の…」
とその男性は2日連続の遭遇に明らかに恐怖していた。
私は昨日と同じように虚無の顔で会釈を返し、そのまま歩き去っていく。
「あの人、昨日もぶつかったよな?やっぱり俺にしか見えてないとかじゃないよな?」
今日も怯えながら同僚に確認する声が背後から聞こえてきた。
私はこの2日間で限りなく幽霊に近い最初の人類となったに違いない。
帰りの埼京線・車内。
座席に座る私はきっと相変わらずの虚無顔。
時間は既に24時になろうとしていて、こんな遅くまでどこで何をやっていたのか分からないほどに人として末期の状態になっていた。
ボーッと揺れる吊り革を眺めていたら、「ポロン」とスマホの通知音がなった。
見ると日付が変わっており、〈スタゲ・ヨンデ誕生日〉のカレンダー通知だった。
あっ…。そっか。ヨンデの誕生日か…。
スマホを眺めながら徐々に感情が戻ってくるのが分かった。
さっきまで何も感じなかったのに、今は大好きなヨンデの誕生日を忘れていた自分自身にショックを受けている。
あんなに大好きなヨンデの誕生日を忘れるなんて…。
いや、忘れてたんじゃない。私、気づかないフリしてただけだ。
そう気づいた瞬間、涙が溢れてきた。
これまで抑えていた分、堰を切ったように涙が流れてくる。
下を向き嗚咽混じりに泣く私を見た隣の女性が、
「大丈夫ですか?」
と心配そうに声をかけてきた。
大丈夫じゃない。大丈夫な筈がない。
でも見ず知らずのこの人にそんな事言ったって何にもならない。
私は「大丈夫です」と嘘をつくために顔を上げた。
すると、肩を組んだスタゲ6人の姿が目の前に現れた。
私は突然の事に一瞬動転したが、6人全員揃った姿を見れたのが嬉しくてすぐに笑顔になった。
が、次の瞬間その6人の輪からヨンデだけが少しづつ離れていってしまう。
「なんで?」
少しづつだが、確実に遠く離れていくヨンデ。
「ねぇ、なんで?」
私の目に再び涙が溢れる。
「なんでヨンデがいなくなっちゃうの?」
離れていくヨンデを寂しげな顔でただ見つめるだけのメンバー達。
「みんな止めてよ!ヨンデがいなくなるの止めてよ!」
去っていくヨンデの後ろ姿を、
「こんなのヤダよ…!」
と見送りながら私は夜中の埼京線で人目も憚らずワンワンと泣いた。
◇
次の日の朝。
ベッドの上の私は、枕元のスマホを手に取り、会社に〈本日熱があるため、大事をとってお休みいたします〉と書いたメールを送った。
今日がスタゲのヨンデとしてお祝いできる最後の誕生日になるかもしれない。後悔だけはしたくない…!
その為なら入社後初の仮病も辞さない。
私はベッドから起き上がり支度を始める。
鏡に写るその顔は、昨日までとは別人のように正気が戻っている。
昨夜、電車でスタゲの幻影を見て子供のように泣き、感情を爆発させた事で以前の自分を取り戻せた。
「ヨンデ待っててね。今から行くよ」
平日だというのにたくさんの人で賑わっている新大久保。
サングラスをかけ帽子を被ったいかにも怪しい格好に身を包んだ私は、新大久保駅の改札をコソ泥のようなスピードで通過する。
やっべぇ。会社ズル休みしちゃったぁ。誰かに見られたらどうしよう。
社会人になって初めてのズル休みに若干気後れしながらも、大好きなヨンデの為ならと自分に言い聞かす。
だがその後ろめたさからか、コソ泥ムーブに磨きがかかる。
その姿はまるでホームアローンの泥棒のようだった。
そして、不審な動きを繰り返しながら到着した先は『みっくすじゅーす』という名のKPOPカフェ。
周りを気にしながら中に入っていく。
店内ではヨンデのセンイル(誕生日)イベントをやっており、ヨンデの装飾が店中に所狭しと施されている。
私は帽子とサングラスを取り、ヨンデでいっぱいの店内に浸る。
大学時代、毎週のように通っていたこのカフェは、スタゲにハマりたてでまだKPOPのKの字も知らない私にKPOPのいろはを教えてくれた場所。
レジカウンターに向かい、店員さんにアイスアメリカーノを注文し、ヨンデのセンイル限定カップホルダーとトレカを受け取る。
ヨンデの好きなアイスアメリカーノ。味が薄くて美味しいと思った事は一度も無いけど、ヨンデと同じ物を飲んでいる!という現象だけで十分幸せだ。
おかげで会社をズル休みした後ろめたさからは解放され、ヨンデで心が満たされてきた。
2階のイートインスペースへと向かうと、ヨンデのファンで賑わっている。
写真を撮ったり、楽しくお喋りしたりしているテレスコープの姿にこっちまで嬉しくなる。
そう、これだよね。何も考えずにただただ推しに没頭するこの時間が堪らなく好きなんだよ。
この数日忘れていた、楽しかったオタ活がフラッシュバックした。
去年のヨンデのセンイルカフェ。
トレカとカプホを並べて、せんときょんこと3人で写真を撮ったっけ。
渋谷タワレコではスタゲのパネル展の前で写真を撮ったし、他メンバーのトレカを手にウロウロしていると、声をかけられヨンデのトレカとの交換をしたりもしたし、自宅のPCで自作のヨンデTシャツをデザインしたりもした。
これら全ての思い出は今思い返しても楽しかった記憶しかないし、そんな楽しい記憶を私に提供してくれたのは他でもないヨンデとスタゲだ。
思い出に浸りながら店内を見渡していると、皆どこか寂しそうに見える。
私と同じようにヨンデ脱退を引きずっているようだった。
当たり前のように過ごしていた日々が、当たり前じゃなかった事に気付かされた。どんな些細な事でも、それは今しか出来ない大切な思い出だったんだ。
元気の無いファンたちの一人一人の表情を隅から隅まで見て思った。
こんなにたくさんの人から愛されているヨンデが脱退していい筈がない!と。
アイスアメリカーノを飲み終え、帰ろうとするとレジの奥から私に向かって手を振る女性の姿が目に入ってきた。この店の店長・篠宮さんだ。
「久しぶりだよね?ここ最近あんまり見かけなかったからどうしちゃったのかなぁと思ってて」
優しく話しかけてきてくれた。
「仕事が忙し過ぎちゃって…。すいません、中々顔出せなくて」
「なんで謝るの?別に来れる時にこうやって来てくれるだけで私は嬉しいよ」
私にKPOPのいろはを教えてくれたのは他でもない、この人だ。この人はいつだって私に優しい。
「ヨンデの事で落ち込んでないかなぁって心配だったんだよね。大丈夫?ちゃんとご飯食べてる?」
ホントに優しい。その優しさが身に沁みる。身に沁み過ぎてまた涙がポロポロと流れ出した。
「ヨンデに会いたいよぉ」
私は我慢していた想いと共に、涙も止まらなくなってしまった。
昨日から涙腺がガバガバだ。
すると、それを見た店内の客たちの啜り泣く声が聞こえてくる。
私の涙をキッカケに今まで我慢していた想いが店中に充満し始めたようだ。
すぐに同調する生き物。それがオタクという生き物なのだ。
店内は一様に、「ヨンデぇぇ」やら「辞めないでぇぇ」やらの声で溢れかえっている。
そんな店内の状況に狼狽える店長は、私をレジの奥へと連行していく。
「ちょっと待ってて」
そう言うと店の奥に行き、100mlぐらいの液体の入った小瓶、例えるならリポDぐらいの大きさの物を持ってくる店長。
ラベルには『Dreamers』と書かれている。
「これを飲むと意図的に明晰夢を見る事ができて。あっ、明晰夢って分かる?それが夢である事を自覚しながら見る夢の事で、明晰夢の中では自分の行動、つまり夢をコントロールすることができるの。要するに(小声で)推しが夢に出てきてくれるって事」
普段の優しい店長からは想像もできないほど興奮した表情で語りかけてくる。
こ、これは!!メチャクチャ怪しい!!!
その怪しさゆえ、涙はすっと引いていった。
「コレ、ホントは内緒なんだけど、騙されたと思って寝る前に飲んでみて」
店長はそう言うと、私に小瓶を差し出した。
私はビビりながらもその小瓶を受け取ろうと手を伸ばすと、店長は差し出していた手をスッと引っ込める。
「え?」
何故かキョトンした表情の店長。
その表情は私がするべき顔であって、あなたが今その表情をするのは平安時代の人に聞いても間違っていると言うに違いない。
「いや、やっぱりこれ他人に渡した事ないし…。もしあなたの体に合わなくてアレルギー反応でも出たら困るし…。私責任取れないし…」
店長は急にゴニョゴニョし始めた。自分で渡そうとしてきてこれである。
さっきまでの威勢はどこへやら、あからさまに渡すのを渋っている。
え〜、さっきまであんなに饒舌だったのに、なんで急にモジモジしちゃうわけ?
そして人間の心理とは不思議なもので、渋られると途端に欲しくなってくる。
怪しさ満点だし、正直飲むのは嫌だけど、このまま貰わずに帰るのはそれ以上に何か嫌だ。
「店長、そこまで私に話しといて渡さないのはちょっと違うと思うんですが」
「いや、でも…」
店長はまだゴニョゴニョしている。
「こんな事言いたくないですが、もし渡してくれないなら他の人にその『Dreamers』の事言いますよ?」
それを聞いた店長の表情が途端に曇った。
「…もしかして脅してる?」
「脅すだなんて、そんな人聞きの悪い事言わないでくださいよ。まぁでも店長次第ですけど」
はい。これは九分九厘脅しています。でもそうさせたのは他でもない店長あなた自身なのですよ。
店長はしばらく考えた後、苦虫を嚙みつぶしたような顔で『Dreamers』をゆっくりと差し出してきた。
私はその差し出された『Dreamers』を受け取り、
「ありがとうございます」
と店長にお礼を言い退店しようと店の出口に向かった。
すると、追いかけてきた店長が
「他の人には絶対言わないでよ」
と私の目の奥を見つめながら囁いてきた。
これは脅しだ。逆脅しだ。言ったら何されるか分からない。そういう目をしていた。
ここまで念を押すって事は、これは相当ヤバい代物なのかもしれない。
私は貰ったばかりの『Dreamers』を見つめ、これはとんでもない物を貰ってしまったに違いないと、会社をズル休みするという判断をした今朝の自分を呪ったのであった。
【ヨンデの脱退まであと18日】