降りかかる火の粉
「久しぶりだな、正月以来か?」
「早かったな、重役退勤ってやつか?」
青木がニヤリと笑いながら片手を上げている。
青木が指定した居酒屋は市ヶ谷の荒木町にある地味な感じの店だ。だが個室が用意されており何かの密談にはうってつけの店である。
俺は席について熱いおしぼりで顔を拭き、生ビールを注文する。
「東京に、警視庁に異動になったんだってな、こないだ由子ちゃんに聞いたぞ」
「ああ、連絡しなくて済まなかった、何せ急な辞令なもんで慌ただしくしてたんだ」
青木が苦笑いしながらジョッキを啜る。俺も今来たばかりのジョッキを掲げ、プッと吹き出す。
「…… その笑いは何だよ?」
「いやー、とうとう由子ちゃんに捕まったとか?」
泣きそうな嬉しそうな、何とも微妙な表情で、
「ああ、完落ちだ。あの後二ヶ月は頑張ったんだが…… 沼津で飲み会の帰りにバッタリ遭ってそのまま……」
「そうか…… よく頑張った…… それで。急だな転勤?」
「あの事件もカタがつきそろそろかな、と思ったら先週急に辞令が来たんだ」
あの事件。
昨年の秋、修善寺の超名門旅館で開かれた間宮由子の公開句会に絡んだ、日本画の詐欺事件。その容疑者が由子であり、担当した刑事が青木だったのだ。
それをたった二日で別の容疑者を割り出し、由子の無実を導き出したのだ。
「ふーん。で、当分は東京なのか?」
「ああ。ちょっと大掛かりな案件に引っ張られた」
「へー。そんな案件? って、聞いても話せないよな」
仲居がタケノコの煮物を持ってくる。一口食べると実にいい味付けだ。『居酒屋 しまだ』でも出せないかな。
「まあな。嫁とか彼女いると、この辺が面倒臭いんだよ。仕事の内容とか聞かれたりなー」
「由子ちゃんもか?」
「なんかー 東京で女と一緒に住むのか、とか怪しんでるわ…」
うわ…… 意外に重い性格なんだ由子…… もし浮気でもしようものなら、真剣に殺害されそうだ、頑張れよ青木……
「単身赴任しても毎日朝昼晩に定時連絡しろ、とか。あー面倒くさ」
「と言ってる割に顔が嬉しそうだが?」
「そ、そりゃ、あんな美人にそんな事言われたらなあー」
「オマエ気をつけろよ。由子ちゃんネット上で女神扱いなんだぞ」
青木はゴクリと唾を飲み込みながら深く頷く。
「女神様に彼氏出来たって知れたらお前……」
「あー、それは既に本人が告知したわー」
「はははっ らしいな女神様― え…… ヤバくないかお前? 熱狂的なファンに刺されたりとか、爆弾を投げ込まれたりとか……」
苦笑いしながら首を振りつつ、
「それが、その熱狂的なファン達に、『女神様に死ぬまで忠実な下僕として仕えるように』と……」
思わず口に含んでいたビールを吹き出してしまう。
「女神様の気紛れの恋は許されるが、俺が女遊びしたら…… この地上から消去されるって、俺」
だめだ、腹筋が痛過ぎる。笑い過ぎて顎が外れそうだ。
「まあ、仕方ねーから週末は毎週修善寺戻りさ」
「由子ちゃんは東京には戻らないってな。純子ちゃんオメデタだし」
そうか。あの純子ちゃんは、青木の義理娘になる可能性が!
「そう言えば聞いたか? あの子今猛勉強中だぞ」
「まさか、獣医学部を受けるとか?」
「それ! 私大の獣医学科受けるんだって、来年」
「確か出産予定が十月中旬… あの子ならやりそう、だな」
純子ちゃんのパートナーが獣医の龍二。将来二人でペットクリニックでも開く未来予想図を思い浮かべ、自然と顔が綻んでしまう。
「ああ。だから当分―というか、由子は本当にあの辺りが気に入ってー まあ、俺も今までの赴任先では一番落ち着けたとこだしー 定年したらあそこでーなんてな」
「いいじゃないか。中学のバスケのコーチでもやりながらのんびりと、なー」
「いいなそれ。お前も来るか?」
「いや。俺は下町のオッさんさ」
「しかしあん時は、オマエのカミさんに助けられたよなー」
「ハハハ、それ光子の前で言ってやってくれよ」
「彼女がいなかったら、多分未だに解決してねえぞ」
「それはどうだか。オマエがチャチャって解決してんだろ?」
青木は真剣な顔で、
「こっちに戻ってさ。改めてオマエのカミさんの経歴調べさせてもらった」
俺が怪訝な顔をすると、
「ま、一応親友のツレに間違いねえかどうか、をな」
「それはどうもご丁寧に」
と嫌味を言うと、
「そう言うな。で、一点だけ気になる事があった」
青木の目を見つめる。かなり真剣な眼差しだ。
「彼女、十六歳で暴行、公務執行妨害等で捕まったのは知ってるな?」
「あの、『お台場の乱』とか言うやつだろ?」
「それ。その時の相手がー」
何という偶然。つい数日前に。
「今、荒川会ってヤクザの親分の妻なんだろ?」
青木は一瞬驚いた表情からの鋭い視線で、
「知ってたか。未だに島田と紺野は繋がっているのか?」
繋がるも何も、つい数日前に数十年ぶりに再会したみたいだぞ、と言うと
「そうか」
と一言だけ呟く。
「まさか、今回のオマエの山に荒川会が絡んでるのか?」
俺の目をしっかりと捉えながら、
「今は言えない。しかしこれだけは言っておく」
「お、おう……」
「紺野桐子から連絡があっても、絶対相手にしない事」
「わ、わかった」
「これ、オマエらの命に関わる話だから。もし連絡きたら必ず即俺に連絡しろ」
青木はそう言ってある電話番号を俺に伝えた。その番号はスマホに記憶させないで欲しいので出来れば暗号化して保存して欲しいと言った。俺はゴクリと唾を飲み込んで、
「そんなにヤバい案件なのか?」
「ああ。だからこそ、オマエやカミさんに絶対関わってもらいたくない。ただなぁ……」
「何だよ?」
「俺のカンは当たるんだわ……」
「おい」
* * * * * *
それから何事も無い日々が続き、四月も終わりが近づく。即ち我々の業界では掻き入れ時であるゴールデンウィークがやってくる。
高級台湾旅行企画が反故となりしょげ込んでいた山本くんもすっかり立ち直り、次々にゴールデンウィーク絡みの企画を捌いている姿に安堵しつつ、その後例の反社会勢力から言い掛かりが来たりしないか注視しているが、今の所俺の所に上がって来ている苦情などは無い。
『居酒屋 しまだ』にもあれ以来荒川会絡みの人物が来店する事はなく、表面上は穏やかな日々が続いている。
街の木々に新緑が色付き、花粉の季節も過ぎ去りすっかり快適な日々だ、俺の趣味の帰宅ウォーキングも益々熱が入り、わざと遠回りの道を選んだり隅田川沿いを延々と歩いたりと大いに楽しんでいる。
『居酒屋 しまだ』が日曜日に休業となり、俺と光子が過ごす時間が丸一日増えた、その時間をウォーキングに付き合わせる様になっている。
当初、
「はぁ? なんでただ歩くだけにアタシが付き合わなきゃ行けねえんだよ、それよか車でドライヴしよーぜ」
とか抜かしていたが、俺がスマホを駆使して街の情報をあれこれ調べ、流行りのランチやスウィーツに連れて行く様になると、
「来週はパフェ、だぞ。フルーツパフェじゃなきゃいやだぞ」
なんて乗り気になって来ている、俺もコイツの操縦法を大分学んできているのだ。
そんなゴールデンウィーク前の日曜日。朝食を終えテレビの前で寝転んでいる母と娘を置いてウォーキングに出ようとすると、葵のスマホに電話が入った。
「あれ、春パイセン、ちーっす、どーしたんすか、今日インハイ予選、午後からっすよね?」
葵は惜しくもメンバー入りを逃した夜、『居酒屋 しまだ』で荒れ狂っていたのを翔が宥めすかしていたのを思い出し、つい吹き出す。
「え…… マジすか? 竹本先輩、骨折って… え? はあ、ええええええええ!」
俺と母が思わず葵の悲鳴に振り返る。
「やります、やりますよ、ええ、はい、わっかりました、死ぬ気で頑張りますっ」
スマホを切り、体を丸めうずくまる葵に、
「どうした? まさかインハイ予選のメンバーになったのか?」
葵はよっしゃーーーと叫び、
「怪我した先輩の代役なんだけどメンバー入りだってマジかスッゲーところでパパあの占いで今日のラッキーアイテム何になってる?」
未だかつて見た事ない娘の興奮状態に唖然としつつ、慌ててスマホ占いをタップする。
「えーと、『制服』らしいぞ」
「よっしゃ制服着てくから問題無しよぉーしこれで人事は尽くしたわあお婆ちゃんとパパ試合見にきてもいいよ二時から江東体育館だからあああ支度支度」
怒涛の様に自室に上がっていく。残された俺と母は顔を見合わせ、
「そう言えばあの子の試合、見に行った事ないわ、アンタの試合は毎試合観に行ったのに」
「え、そうだったの? 知らんかったよ…… で、どうする?」
母は無言でスマホを弄り出し、
「これでよし、と。午後からの大相撲見にいくの断ったわ、何時に出ようか?」
大好きな大相撲よりも孫の試合! 母の気合いに気押され、俺も渋々スマホをタップする。
「え? アオジルのバスケの試合? 観たい観たい観たい観たー」
「分かった分かった、そんじゃウォーキングは中止な、一時半に江東体育館集合で」
「それはダメ。今からウォーキングしてどっかで昼飯食って、それからバスケ観に行こうぜ」
なんと欲張りな女…… 最近光子はこんな調子だ、なんか生き急いでいる感が否めない……
結局彼女に押し切られ、母と俺と光子で江東体育館にブラブラと歩いて行きがてら、途中で昼食を取ることとなる。
「あんたとこうしてのんびり歩く日が来るなんて、夢にも思わなかったよ。長生きはするもんだねぇ」
歩きながら母が高らかに言い放つ。今年75になる母は健康そのもの、足腰もしっかりしており、何ならハーフマラソンくらいしちまいそうな元気さである。
「おばちゃんの方がアンタより体力あんじゃね? こないだスカイトリーを歩いて登ったんだよねー?」
「スカイツリーな。えええ、それホントかお袋?」
母はドヤ顔で、
「ちょろいもんよ、子供の頃は横浜まで歩いて行ったもんだよ」
「「マジで?」」
「ウッピョーン」
光子が母の脇をくすぐり、俺は呆れて溜め息を吐き出す。
行き交う人々が優しい笑顔を呉れる、俺はちょっと赤面しつつ
「さ、行列ができる前に行くぞ、人気店なんだからっ」
「「はぁーい」」
陽射しが強くなってきた、隅田川からの涼しい風が頬を撫ぜ心地良く感じる。俺たちはのんびりと水天宮近くの老舗の天丼屋へ歩き始める。
「あの子が部活の試合に誘ってくれるなんて。あんた達本当に仲良しになってねえ」
お茶を啜りながら母が満足げに呟く。
「でも、いいよなこーゆーの。子供や孫の試合をさ、こうしてみんなで応援行くなんてさっ」
光子もしみじみと呟く。
「あれ、真琴さんや龍二、隼人の部活の試合とか文化祭は観に行かなかったのか?」
まるでダンゴムシを噛み締める表情で、
「忙しくってさ。観に行ってやる暇なかったわ」
「そ、そうか。何だかスマン……」
「ま、そもそもアイツら部活やってなかったし、隼人も学祭でライブとかしなかったし」
おい。
「翔も部活やってねーし。だからさっ、部活の試合観に行くなんて何十年ぶりだろーな」
ん? 昔は誰かの試合の応援に行ったのか?
「え? は? あ、あれ、おばちゃんお茶のお代わりな、おーい、お茶!」
母がクックックと奥森の魔女の様な笑い声を漏らす?
「それより、翔もこれから来るんだって?」
「ああ。さっき連絡したら、二時までにはこっち来るってよ」
高校の部活の試合の応援に、か。俺はあの頃は勉強とバスケに夢中で女子に全く興味なかったな、それ故光子のことも全く記憶に無かったし。
人生は本当に分からない。俺はその後大学時代に女遊びに目覚め、社会人になり結婚後も浮気しまくり、挙げ句の果てに愛人問題で銀行を追われ、そして……
この歳でようやく本当の恋に目覚めるとは……
「あんたもやっと親として人としてまともになってきたね、うんうん」
俺の心を読み抜いている母がいやらしく笑いながら頷いていやがる、くそ。そんな母子を光子はキョトンとしながら眺めていたもんだ。
二時前に翔と合流し、試合会場である江東体育館に入るとかなりの熱気である。バスケットは最近流行りの漫画やアニメで中高生の間で大人気だと翔が言っている。それにしてもバスケット。大学生以来である。銀行員時代は何一つスポーツをしなかった、ましてやバスケ。
久しぶりに観客席に入り、試合会場のコートを見下ろすと心なしか胸が高鳴ってくるのを感じる。俺の青春と娘の青春がリンクする、知らぬうちに手汗が止まらなくなる。
都立日々矢高校対江戸川女学院。翔の調べでは、
「強豪です。冬のウインターカップでは都大会ベスト16です」
ウインターカップ、俺の時代には存在しなかったな、本当にバスケット流行っているのか。
「日本代表も頑張っていますからね、僕の高校でも人気の部活ですよ」
両校の応援の生徒や親達の多さにも驚きだ。特に相手校は女子校のせいか殆どの応援が女子の歓声だ。
試合のメンバー紹介にも度肝を抜かれる、まるでM B Aの様に選手一人一人を紹介するのだから。我が愛娘も控えメンバーとしてしっかり紹介され、
「いいぞぉー、アオジルーーー」
すっかり興奮状態の光子を彼氏と孫が抑える始末である。
試合は意外にも接戦が続く。翔曰く、
「相手校はベストメンバーでないかと。背番号が皆二桁ですからね」
成る程。それにしても俺たちの時代には前半後半制だったのが、クォーター制、即ち十五分ごとの第一〜四クォーターとなっているのに驚く。本当にバスケやってたの、と光子が呆れるのだが、そんなことはどうでも良い、第二クォーター半ばに遂に葵が登場したのだっ!
「頑張れー、葵ちゃーーん」
「いっけーーーー、アオジルーーー」
二人の声が何故だが試合会場に良く響き渡る、流石歌手の母と甥だ、声が素晴らしく良く通る。俺は無言で拳を握り締め、背中や脇の汗が噴き出てくる。
翔が話していた通り、葵の敏捷さに驚愕する。知らなかった、アイツこれ程俊敏だったのか……
良く周りを見ている。ポイントガードとして必須の能力だ。葵が登場してから試合が一気に日々矢ペースに傾いて行く。
第三クォーターに入ると益々葵の能力が遺憾無く発揮されていく。ノールックでのパスが通るたびに観客が沸き立つ。相手が焦れてくると積極的にファールを誘発させ、フリースローを獲得する。
59−59で第3クォーターを終える時には場内が騒然となっていた。
「これは…… まさかの大波乱が…」
「落ち着け翔、相手も最後は本気を出してくるぞ」
「はあはあ、心臓に悪いぜ、おい翔、ちょっと売店でビール買ってこいっ」
光子の頭をパシッと叩き、ふと母を振り返ると意外に平然としたものだ。
「あんたの中学生時代の都大会の試合に比べたらねえ」
あの試合は惜しかった、ワンポイント差でベスト4を逃したのだから。
「そーそー、あの試合はシビれたわーー」
「え?」
「あっ」
俺は光子の両肩を鷲掴みにし、
「見に、来てたのか、あの試合……」
光子は視線をあちこちに動かしながら、
「あー、えっとー、アレだ、律子が見にいくってうるせーから仕方なく……」
隣で翔が腹を抱えて爆笑している。
「あれだ、ほら、その、あああ、試合始まったぞ、コラー気合い入れろやー、アオジルー」
大歓声と共に、第四クォーターが始まった。
* * * * * *
「ったく。いつまでメソメソしてんだアオジル、いい加減泣き止めやコラ!」
光子の優しい怒声が『居酒屋 しまだ』に響き渡る。
そーよそーよ アンタのせいじゃないよ うんうん頑張った頑張った
慰めの声と共に、
あれが開聖くんかぁ ちょっイケメンじゃね 一年のくせに生意気じゃん
翔に縋り付く葵のあざとさを避難する声もちらほら。
更には、
同級生なんで連れてこないの? 先輩連れてこいって言われてたよね 分かってんの?
どうやら翔が責められている様子だ。哀れな……
てか。
何故に試合後の打ち上げに、居酒屋なんだよ……
「お邪魔して申し訳ありません、私がすっかりこのお洒落な居酒屋を気に入ってしまいまして」
春パイセン… もとい、女子バスケ部主将の山下さんが恥ずかしそうに頭を下げる。
「あの、金光さんは中学時代に都大会ベスト8だったと伺いましたが?」
この子、背が高く目線がピッタリ合うんだよな、顔が綺麗なだけにちょっとドキッとしちまうぜ。
「大昔の話だよ、高校時代は地区予選の決勝で負けちゃった」
山下さんはニッコリと笑いながら、そして少し照れながら、
「あの、今日の試合、ご覧になって如何でしたか? 何かアドバイスをお願いします!」
それにこの子言葉遣いがとても良い! ぜひ我が社にリクルートしたい、そして俺の部下として大いに働いてもらいたい!
「第四クォーターは相手もレギュラーが出てきたみたいだね、そこで捲られてしまったな。あそこで名前負けせずにそれまでのペースで進めていれば、もっと接戦になっただろう。強者と対峙した時のメンタルトレーニングを増やすといいんじゃないか?」
山下さんはスマホを取り出し、メモを取り始める。益々この子が欲しくなる、庄司の部下にしたら面白いぞ、凸凹コンビの結成だ!
「金光にバスケ教えたのは金光さんですか? 本当にアイツは凄いです」
「俺は何も手ほどきしていないんだ、実はさ、去年の夏頃まで親子関係が上手くいってなくて。ようやく最近色々話してくれる様になってさ。今日も試合を観にこないかって初めて誘われたんだ」
「そ、そうなのですか? てっきりお父様がみっちりと仕込んだものかと…… ただ、スタミナがちょっと……」
「それなー。アイツのスタミナが切れた頃から手も足も出なくなっちゃったよな、よし分かった、スタミナ不足は俺が今後指導していくよ」
山下さんが俺の両手を握り、
「是非! お願いしますっ あっ こ、これは大変失礼いたしました」
遠くから殺気を感じた。
俺は光子に首をすくめながら、
「それより山下さんこそ凄かったじゃない。それこそ江戸女のレギュラーでもおかしくない上手さだったよ」
ええええ、と可愛い悲鳴を上げながら、
「そんなそんな滅相もございません私如き唯の弱小校のしがない主将なのですから」
この子、体の割に自分に自身が無いのかな、もっとメンタルが強ければ本当に大学のバスケ部でもモノになるのに、と思いつつ
「あの三ポイントの正確さは本物だよ。相手校も相当苦しんでいたさ。途中から監督が名指しで警戒してたしね」
大きな体をちっちゃくしながら顔を真っ赤にして謙遜する姿に、ちょっと胸がキュンとなってしまう。
「こんな進学校に勿体無いと思ったよ、それぐらい素晴らしかったよ山下さん」
え そんな……
絶句した後に耳まで真っ赤にさせてしまった、俺一体何やってんだよ…… J K相手に……
不意に彼女が真顔になり、
「金光さん。親友に警察関係者がいらっしゃると伺ったのですが?」
へ?
「あ、ああ、大学時代の親友が警視庁で刑事やっているよ」
ちょっと表情を曇らせながら、
「あの、ちょっとご相談があるのですが。後日時間を取っていただけないでしょうか?」
こんな品行方正成績優秀質実剛健な彼女が警察に相談したいことが?
この場で周りに部員がいる中で話すのも憚れよう、俺は自分の電話番号を伝えるとすぐにメッセージが返信される。
翌日、月曜日。
重役出勤中に山下さんから長文のメッセージが入る。
『早速の連絡、失礼いたします。実は兄の件で相談があるのです。今日か水曜日の夕方、お時間をいただけないでしょうか? そして出来ましたら娘さんには内密に願いたいと思います。勝手な事ばかり申して大変恐縮ですが、何卒ご一考のほどよろしくお願いいたします』
お兄さんが何か犯罪に巻き込まれたのだろうか? きっと裕福な家庭だろうから、詐欺事件にでも?
俺は誠意を込めて受諾し、今夜空いている旨を伝えるとすぐに返信が来る。
何度かのやり取りののち、彼女の家の近所である葛西のファミレスで待ち合わせることとなる。
「専務。今日は特にご機嫌がよろしそうですが何かいいことでもありましたか?」
俺の愛弟子である庄司が目ざとく指摘してくる、あれ、やっぱり俺、あの子と会うのを楽しみにしているのか?
いかんいかん。これではJ K好きのあの健太と同レベルじゃないか!
いかんいかん、これは娘の先輩の悩み相談に乗るだけだ。ただそれだけなのだ!
彼女の健康な汗の似合う肌を思い浮かべる。
いかんいかん! 何考えているのだ俺!
退社時間まで、この問答の繰り返しであった…… いかんいかん、娘の先輩なんだぞ俺!
約束の時間丁度にファミレスに入ると、奥の席からスッと手が上がる。
先日は遠征用の部活のジャージだったが、今日はれっきとした制服姿である。ゴクリと唾を飲み込む、コラ俺! 何興奮してんだよ!
「本当にご迷惑おかけします金光さん。でも他に頼れる心当たりがなくて……」
彼女にフルーツパフェ、俺にスペシャルコーヒーをオーダーした後、彼女は滔々と語り始めた。
彼女の家庭は母子家庭で、所謂生活保護を受けている状態である。母親は近所のスーパーでパートをしており(あれ、俺の家庭に似ている?)、二つ上の兄は高校を中退しガソリンスタンドで働いているそうだ。
ところがその兄が、最近急に羽振りが良くなり、彼女にも洋服やアクセサリーを頻繁に買ってやる様になったそうな。ガソリンスタンドのバイト代では賄いきれぬ額に不審を抱き、兄を問い詰めるも、
「何も心配することはない。割りの良いアルバイトをしているだけだ」
と言い放つばかり。何か非合法なことをしているのでは、とさらに問い詰めるも、
「絶対に捕まることはない、安心していい」
「俺は更に大金を得るのだ」
「ゆくゆくはお前らをタワマンに住まわせてやる」
そして、
「ハルは無理して国立大学に挑まなくて良い、私立大学の学費は俺が払ってやるから」
と言い出す始末。
これは絶対に非合法な仕事をしているに違いないと確信した彼女は、この所毎日を不安に感じながら過ごしている……
「兄は元々とても勤勉で真面目で優しいのです。それだけに道を踏み違えたかも知れない事が不安で不安で……」
美しい瞳に浮かぶ涙。これは娘の先輩の為にひと肌脱いでやる必要がありそうだ。いや、本当に服を脱いだりしないからね、絶対、たぶん。
「母は昔から身を粉にして私達のために働いてくれています、その母を不安にさせたくないのでこのことを相談出来ないのです。誰に相談すれば良いか分からず、私は……」
美しい涙が頬に一筋。よし決めた、必ずこの子を苦しみから救い出してやろう。
「よく分かったよ、本当に心配なんだねお兄さんの事が。ただ現状では親友に相談しようにも話が余りに胡乱過ぎる。少しずつお兄さんの副業の事を探り出してくれないか?」
表情がパッと明るくなる。健康的な美しさに目が眩む思いである。こんな美しい子をこのまま悲しみのどん底に埋もれさせてはなるまい。
「分かりました。何とか探ってみます、もう金光さんだけが頼りです、ありがとう……」
「気にしなくて良い。それよりも、くれぐれも無理をしないようにね。お兄さんを逆上させたりしたら、それこそ取り返しのつかないことになるのだから」
「はいっ」
良い返事だ。本当に彼女が欲しくなる。あ、ウチの会社にだからね……
「お兄さんの挙動を逐一報告してくれるかな? どんなことでも良い、気にかかる事があればいつでも良いから」
「分かりました。逐一報告させていただきます」
あああ、我が社にこれ程素直で従順な部下がいるであろうか、いやいまい。
こうして彼女との定期連絡が始まった。
* * * * * *
「パパ…… もう無理、はあはあはあ、もう無理だよぉ、こんなの絶対…… はあはあ」
俺はニヤリと薄笑いながら、
「こんなことではもうお前はお払い箱だな。いいぞ無理しなくても。他にも女は大勢いるのだからな」
「酷い、はあはあ、こんな酷いことをさせておいて…… あああっ もうダメ、逝っちゃうよぉ、これ以上はおかしくなっちゃうよぉ、はあはあ」
「ふっふっふ。まだまだだ葵。もっともっとだ、さあ、もっと激しく、もっと声を出せ!」
「いやぁあああーーーーーーー」
翔が冷徹な能面の表情で、
「あなた方は何を口走っているのです? 周りの人が通報しようとしていますが」
全身汗まみれでランニング後のストレッチをしている葵と俺はプッと吹き出しながら、
「だってぇ、翔きゅんがストレッチ手伝ってくれないしぃ」
「まあ、アレだ、気分ってやつだ」
呆れ顔で首を振りながら、
「これではまるで変態親子じゃないですか…… お父さん、社会的地位を投げ捨てるつもりですか? それに僕の彼女をおもちゃにしないでくれませんか?」
あの日の敗戦以降、葵はウイークポイントであるスタミナ不足の解消に意気込んでいる、いや俺の方がのめり込んでいると言っても過言ではない。
毎朝の三十分のランニング、ストレッチ。就寝前の筋トレ。プロの好プレー集の視聴。
初めは渋々イヤイヤ応じていた葵であったが、朝のランニングに翔が付き合いだしてからは目の色を変え出し、今では寧ろ進んで俺の作ったメニューをこなしているのである。
因みに翔は自分で運動音痴だと言っていたが、ランニングはそこそこ走るし体もなかなか柔らかく良質な筋肉を纏っている。
「何かスポーツやれば良いのに。どうだ、バスケ部に入らないか?」
「うーん、どちらかと言えば、昔から武道系ですかねえ」
「あそっか、光子の孫、だもんな」
「ですね。幼い頃から祖母の知り合いの道場に預けられていました」
蛙の孫は蛙、か。喧嘩無敵の孫は武道系格闘技の達人なのだろう。
「一度さ、浅草で不良に絡まれた時、三人を秒殺してたよ翔きゅん! 強いんだよぉ、深川リベンジャーズってか、キャハハ」
…… 忍に引き続き。絶対にキレさせたり怒らせてはならない人物第二号に定めた。
会社に向かう途中、スマホが鳴動する。春ちゃんからの定期連絡だ。
『兄の机の引き出しから、また現金が10万円出てきました。どうやら毎週それ位手にしている様子です。仕事は殆どが昼間のようです、夜は家におりますので』
普通、悪事をするのは深夜と相場は決まっており、真昼間からそんな大金を稼げる仕事とは何だろう、と頭を傾げるも何も思い付かず。
そうだ、ネットで裏社会の情報にそこそこ詳しい山本くんに聞いてみるかな。
『こちらも無難な方法で情報を集めてみるよ。呉々も無理はダメだよ』
送信をタップしスマホをポケットにしまう。
会社に到着し、忙しそうにしている山本くんを昼食に誘い出し、
「なあ山本、真昼間から稼げる裏稼業ってどんなのがあるかな、そう週給10万くらいで」
天丼の海老を加えながらアホヅラで山本くんが思考し、
「専業主婦相手の逆デリヘル?」
…… そんな職業があるのか、世も末だな…… いや、案外忍とか使って…… その様子を想像しかけ、海老が逆流し始めたので慌てて、
「他は? 他にどんなのが?」
「学生相手にクスリ売り、とか?」
成る程。ヤクの売人、って奴か。でもそれ、昼だと目立たないか?
「そっすね、昼間限定かぁ、だとするとーーー」
俺が身を乗り出して促すと、
「オレオレ詐欺の受け子、なんてどうですかね? 老人は昼間しか行動しないし」
オレは箸を落とす。オレオレ詐欺、か。可能性、高いかも知れんな。
「そのオレオレ詐欺の受け子ってのは、どんな風に働くんだ?」
「それはですね、……」
お前、実はやってんじゃねえだろうな、と思う程分かりやすく山本くんは説明してくれた。
「ですから、10代の若者がハマりやすい裏バイト、ダントツ一位すね。特殊な技能要らなくて、指示行動がちゃんと出来て、口さえ固ければ幾らでも需要ありますし」
「成る程な。しかし最近のヤクザはえげつ無いよな、老人からなけなしの金を毟り取るなんてさ」
山本くんはお茶を啜りながら、
「違いますって。ヤクザは直接そんなことしません。実行部隊は全て、半グレですよ」
半グレ……
「そう言えば、お前の企画台無しにした半グレ、あの後何か言ってきてないか?」
一瞬ギョッとしてから、
「あ、大丈夫っす、庄司が全て対応してますから」
オレは背筋に冷たい汗が流れるのを感じる。ちょっと待て、
「庄司が? 対応している、だと? はああ???」
山本くんはヒッと叫びながら、
「あれ専務知らなかったんすか、アイツ私から専務には報告しますからって言ってたのに」
「聞いてないぞ、事後のトラブルの報告は上がっていない。やはりあの半グレ達は、イチャモンつけてきてるんだな、ええ?」
ヒーと叫びながら、怯えた表情で、
「すいませんすいません僕が全部任せてしまいましていや最初は専務に報告して警察呼ぼうって言ったんですけど会社の看板がどうのこうのと訳わからないこと言い出してすいませんすいません」
彼の襟首を掴みながら、急いで天丼屋を出た。
「聞いてないぞ庄司。どうしてオレに報告しなかったのだ?」
不貞腐れた庄司がすいませんでしたと吐き捨てる。こんな庄司は初めてだ、職務に熱心、報連相も完璧なコイツが半グレのクレームをオレに上げなかったなんて……
「理由を聞かせろ」
暫くの沈黙の後。
「会社の看板、汚されましたから」
オレは椅子からズッコケる。今、コイツ、なんて言った?
「ウチの看板、汚した奴らを許せませんでした」
ちょっとぉー、どうしちゃったの智花ちゃん? 何だかオレの彼女の周りにいそうな物言いなんですけれど……
「私、思ったんです。姐さん(もちろん光子のことだろう)は仲間を汚された故に敵に立ち向かった。仲間の誇りを守る為に身を盾にし矛にした、と(は? 意味不明)。あの半グレ達はこの会社を欺き、汚そうとしました。反社会勢力に商品を提供させようとしました。許せないんです、私」
不意に庄司の目から熱い涙が迸る。
「社長が作ったこの会社を、専務が守ったこの会社を反社の色で汚そうとした輩が、どうしても許せないのです!」
熱い。熱過ぎる。
オレは…… 俺はスッと席を立ち、庄司の頭にそっと手を乗せる。うわあーんと泣き叫びながら庄司が俺の胸に飛び込んでくる。
俺の大事な部下をよくも泣かせたな。胸の奥深くから真っ黒な怒りの炎が燃え盛り出した。
「奴らはなんて言ってきてるんだ?」
「補償金と詫び金合わせて一億円を用意しろ、と」
俺は盛大に溜め息を吐き出し、
「バカじゃねえのか。そんなの応じる会社がどこにあるってんだよ」
庄司は真っ赤に腫らした目に怒りの炎をともしながら、
「期限までに支払わねば、痛い目に合わせるぞ、と」
痛い目か。これは立派な脅迫罪と言えよう。
「勿論、その会話は全て録音し保存済みですが何か?」
流石、俺の右腕!
「よし。あとは任せておけ。知り合いの刑事に相談するから。それと、弁護士にも」
庄司と山本くんは目を見開いて、
「刑事って、あの伊豆の事件の時の……」
「確か、『沼津鮫』と呼ばれている敏腕刑事……」
俺は吹き出しながら頷く。何だよ沼津鮫って。
「それと? お知り合いに弁護士が?」
頷きながら、
「ああ、光子の長女が今近所の弁護士事務所に勤めているから、相談してみるよ」
庄司は驚愕し、山本くんは狼狽し、
「「えええええええええええ?」」
二人は世の深淵を覗いたような表情で凍りついたままであった。
* * * * * *
その夜。
『居酒屋 しまだ』で夕食をとっていると、疲れ切ったと言うかキレまくっている表情の真琴が暖簾を潜ってくる。
「全くあの使えないパラリーガルは何なのかしら。真知さんの爪の垢を大匙三杯煎じて飲むべきね。あらキングさんご無沙汰です、毎晩毎晩母がお世話になっております、左脚はすっかり完治したようで何よりですわ」
怒涛のような挨拶にたじろぎながら、
「丁度良かった、真琴さんに相談があるんだけれど」
真琴は目を光らせて、
「10分5000円で如何でしょうか?」
厨房から雑巾が二枚真琴に向かって飛んできた。
「冗談に決まっているでしょ母さん、忍さん。で、キングさん、どういった案件なのでしょう?」
我が『鳥の羽』に降りかかった災難を30分ほどかけて滔々と話すと、
「仕方ありませんね、不肖この私が御社の顧問弁護士契約をするのが先決かと」
ほお。そう来たか。
「ご安心ください、甲府時代には常に5社程度と専属契約したものです。その不埒な反社組織に指一本触れさせませんから、ご安心を」
そう言えばウチの会社、今顧問弁護士いなかったわ、一昨年まではいたが。早速明日にでも社長に相談してみよう。
「身内価格で月額10万円、他に成功報酬、交通費別途で如何でしょう?」
実に妥当だ、一昨年まで毎月30万円払っていたのだからな。
俺は真琴に名刺を渡し、明日社長に話し、来週までには返事すると伝えると真琴は満足そうにジョッキを飲み干した。
閉店前に光子に見送られながら店を出る。昼間は25度ほどあって暑かったが、夜は涼しいを通り越して寒い。だが、火照った頬に冷たい風が実に心地良い。
あの後、甲府時代の真琴の仕事っぷりを延々と聞かされた、その幾つかの案件はネットで調べるとすぐに出てくる程の有名な事件だった。どうやら彼女は相当優秀な弁護士だったらしい、彼女の名前、『島田真琴』とググるだけで様々な記事がこれでもかと上がってきた。
雑誌のインタビュー記事も多々見つかり、そのどれもが人権派の庶民の味方的な賞賛を受けていた。
これは思わぬ拾い物かもしれない、彼女の力によって今回の事件は意外に簡単に解決してしまうかも、と考えながら含み笑いをしていると、スマホが鳴動する。
『今晩は。兄は今日もご機嫌で帰宅し、高級なケーキを買ってきました。怪しまれない程度に色々問いかけたところ、『まあ俺ほど優秀なだしこはいないからな』と口走りまして。だしことは何なのでしょうか? 取り急ぎご連絡いたしました。夜はまだまだ寒いですね、お風邪など召しませぬ様に。おやすみなさい(絵文字)』
最後の絵文字は女子高生らしく何とも癒される感じであるが、これはかなり問題である。俺は立ち止まって彼女のメッセージを何度も読み返す。
『だしこ』とは何だろう。ググると、オレオレ詐欺の『出し子』に該当するのでは、と気づく。
…… なん、だと?
オレオレ詐欺だと? それに春ちゃんの兄が関わっている?
まさかまさかの、昼の山本くんの推測がクリティカルヒットしてしまうとは!
俺は深夜の道端で頭を抱え、ただただ呆然とするしかなかったものだ。
翌朝。
考えに考え抜いたメッセージを春ちゃんに送る。
『おはよう。昨夜のメッセージを吟味しました。どうやらお兄さんの今の状況は芳しくないと推察されます。警察関係の友人に相談するので、今後お兄さんに直接問いたださないように。もし心配なら、直接会って話そうか?』
電車が有楽町駅に着いたタイミングで返信が来る。
『明日、夕方は部活がありません。お時間いただけますか? 金光さんだけが頼りです、お願いです助けてください(絵文字)』
切迫な割に可愛い絵文字じゃねえか…… この子は親父心を狂わせる何かも持っているのかも知れないな、
『分かった、では明日の夕方、こないだのファミレスで』
調子に乗って絵文字返しはしないのさ。だってこないだ葵にスタンプ送ったら、
「マジでキモいから文字だけにして」
とブチ切れられたからな。以来、スタンプや絵文字は送らない派な訳でして。
会社に到着するや社長室に駆け込み、まず庄司が対応している半グレの件を伝える。
「何と…… あの企画がそんな事になっていたとは」
「報告が遅くなりました、クレームを受けていると知ったのが昨日でしたので」
鳥羽社長は心配げな表情で、
「それで、庄司さんは大丈夫ですか? 反社のクレームなんて初めての経験なのでは?」
そこで昨夜の真琴との顛末を語る。
「本当ですか! 奥様、もとい、光子さんの娘さんが、我が社の顧問弁護士に? それはとても心強いです、僕は大賛成です」
「それは良かった。一昨年まで頼んでいた顧問弁護士はどんな方だったのですか?」
鳥羽社長は苦笑いしながら、
「友人の紹介でお願いしていた先生だったのですが。大企業も専属にしていらっしゃったせいか、かなり見下されていましたね、仕事はそれなりにしていただきましたが」
「そうですか。ネットで『島田真琴』で調べてみてください、三月まで甲府の弁護士事務所でバリバリやってた様です」
鳥羽は満面の笑顔で、
「調べるまでもありません。金光さんの推薦ならば間違いないでしょう、午後に緊急取締役会議を開き、顧問契約の件を決めてしまいましょう。そして明日からでも早速その案件に対応していただきましょう」
この男。齢、38歳。若い頃は日本屈指のアルピニスト、即ち登山家でエベレストなど世界の名峰を次々に踏破していたそうだ。それだけに、単なる山バカの山男ではない。非常に決断力が速く的確かつ適切だ。この若さでこれ程の判断力を持つ人材は銀行時代にも殆ど見たことがない。この社員50名程の小さな旅行会社が年商50億円というのも頷ける。
午後イチで開かれた緊急取締役会議、と言っても社長の鳥羽、専務取締役の俺、常務取締役の田所、執行役員である企画部長の迫田、新たに営業部長となった村松、だけであるのだが。
俺が事情を説明し決を取ると満場一致で真琴の顧問弁護士が可決される。
「それにしても。あの光子さんのお嬢さんが弁護士って、ちょっと驚きです」
俺の直属の部下である迫田が唖然としながら呟く。
「『居酒屋 しまだ』の女将の娘さんが弁護士…… 流石金光さんの彼女ですな」
「俺に胡麻すってどうすんだ。それよりも早速明日から対策会議を開くぞ、相手は都内有数の半グレ組織だ、中途半端な対応するとけつの毛まで毟られるぞ」
育ちの良い鳥羽社長がお尻を押さえているのに笑いを堪えつつ、
「この件は全社一丸で対応したいと思う。営業部もそれでいいな?」
田所常務が何度も頷いて、
「金光さん、今回もどうか頼みます、この会社をどうか頼みます」
『鳥の羽』は社長の鳥羽と山仲間だった田所常務が作った会社なのだ。それだけに彼らのこの会社への想いは普通では無い、エベレストよりも高くチャレンジャー海淵よりも深いのだ。
「任せておけ」
俺が言うと、皆が深く何度も頷いてくれた。




