表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

雨上がりの夕暮れ時、京都。

 葵からの罵詈雑言ラインメッセージをスルーしながらタクシーを拾い店にようやく到着したのは6時半すぎだった。仲居さんに遅れた詫びを言うと大した事ない、と言ってくれる。個室に案内されると既にビール瓶を二本空けた光子とつまらなそうにスマホを弄る葵がいた。


「いいかお前ら。時間はキッチリ守れや。子供の教育上良くねえし」

 こんな鋭い目付きで睨まれるのは初めてで、背筋が寒くなる。

「す、すまん… つい遅くなった…」

「は? 意味不―。ついって何よ?」


 驚くことに… 光子と何ら変わらぬ鋭い獰猛な目付きで葵が俺を睨み付けてくる… 失禁の予感しかない。青ざめた翔が声を震わせながら、

「ご、ごめんね葵ちゃん… か、金光さんと哲学の道語りながら歩いていたらーつ、つい…」


 光子と葵が視線を合わせ、同時にこれだから男は、と罵り合う。そのシンクロ性に唖然としてしまう。なんか息ピッタリというか…… 光子と葵、二人きりで朝から晩までなのを結構心配していたのだがそれは杞憂だった様だ。

 それから二人は俺たちに、何通メッセージを送ってやったか、こんな便利機能を何故に使いこなさないのか、それより何より彼女をほっぽり出してスコラ哲学とは人として如何なものなのか、など散々怒鳴られ、俺と翔が涙目で土下座し頭を何度もさげさせられた。


 溜飲を下げ終えた光子が目の前のグラスにビールを注いでくれる。俺も彼女のグラスにビールを継ぎ足し、二人で乾杯する。さっきの剣幕は何処へやら、満面の笑顔で俺をホッとさせる。葵も同様に翔に絡みつき、互いに写メを見せ合いっこし始める。


「てか、お疲れさんなー アンタ大変だったろ、翔と一日付き合うのは〜」

「いや全然。全く。はあービール旨! 喉に滲みるわー って、それ位二人でずっと話してたよ」

「そか。そかそか。よかったよかった」

「そっちも葵と二人、疲れたろ?」

「太った…」

「は?」

「な、アオジル。アタシら今日一日で三キロは太ったわな!」

「だよねー でもスッポン鍋も超楽しみー そっちも色々食べたんでしょ?」


 俺の腹がグーと音を立てると翔の腹も呼応してグーとなり、祖母と娘は顔を見合わせ爆笑だ。

「あれ… そう言えば昼ご飯だけだったよ… 後はずっとー なんかあっという間だったなー」

「え… あり得ないー 翔くん、無理したんじゃない? パパに合わせてさー」

 こら。父親の前でその小さな胸を翔に擦りつけるんじゃない!

「あっ。ああ、全然。お腹よりも頭がいっぱいかなー。楽しかったー」

 顔を真っ赤にしながら翔が何とか呟く。そんな孫をニヤニヤ笑いながら、

「な、アオジル、アタシと回ってよかったろ?」

「ですねー。パパもさ、翔くんが付き合ってくれて良かったね!」

 ああそうだとも。だからその胸をいい加減翔から離しなさいっ


 そんな最中にスッポン鍋を用意してくれている仲居さんが満面の笑みで、

「ほんに仲の良いご家族ですなあ。お兄ちゃんとお姉ちゃんは双子やろか?」

「いえ… 彼です」

「えっと… 彼女です」


 仲居さんはピタリと手を止め怪訝そうな顔で、

「…… あらあら、ほなご両親はお坊ちゃんとお嬢ちゃんのどちらの?」

「は? あ、アタシらふ、夫婦じゃねーし」

 耳まで真っ赤になりながら光子がキョどる。俺も頭をかきながら、

「僕が娘の父で、彼女がこの子の祖母で…」


 まるで昔亡くなった近所のおっさんが化けて出たのを眺める表情で、

「江戸の人は京の女を揶揄うんどすか? なにゆうてはるんです、イケメンくんのおばあさんやなくお母さんでしょ?」

「うんにゃ。あたしゃ『ばあば』だぞ」

「ウソや… え… ほんまですか? で、お二人は?」


 葵が吹き出しながら、

「彼氏彼女なんですよおー」

 言われてみると、彼氏彼女の保護者同士が付き合っている、滅多に聞かないケースである。今風に言えばレアもの、だ。完全に混乱してしまった仲居さんは鍋の準備もおぼつかず、

「…… 頭こんがらがってきたわ、ちょっと出直してきます」

 そう言うと頭を抱えながら部屋から出ていった。


 朝から晩まで京を食い倒してきた二人なのだが、スッポン鍋をペロリと平らげー 実はグロテスクなスッポンの頭部足部も何ら恐れることなくー一体お前らどんな胃袋してんだ… 締めの雑炊も楽々クリアし… まあ、一日歩き通しだった俺も雑炊は二杯平らげたのだが。


 ふと葵の横の翔を見ると、ウソだろ… 食べながら転寝しているではないか。

「あー、コイツ昔からこーかも。あんまりにも疲れると食いながら寝ちまうんだわ」

 自分の方に寄りかかっている翔を愛おしそうに眺めながら、

「どんだけ歩かせたのよ? 翔くん可哀想……」

「べ、別に大した距離… かも… 20キロ位…」


 呆れ顔で首を振りながら、

「パパ足は大丈夫なの? 左脚痛くなったりしなかった?」

「ああ。全然」

 そう言えば怪我をして以来、これ程長い距離を歩いたのは初めてだ、階段の上り下りはちょいとキツかったが、平地を歩き回る分には全く問題無かった。

「ほれ、お前が俺の誕生日プレゼントに買ってくれたスニーカーが良かったんだよ」

「でしょでしょ、高かったんだからー」


 娘の私の誕生日プレは分かってるわよねアピールを無視し、光子と葵に、

「それより明日は四人で回るか?」

 光子は妊娠二ヶ月かと思わせる下腹部をさすりながら、

「んーー、今日食べ過ぎたから、明日はサクッとなー」

 葵も翔の髪の毛を弄りながら、

「お天気悪そうだし、四人でタクシーであちこち、かな。錦市場とかも行きたいし」

「お! そこ行きてえ、ガイドに出てたわ、色々ウマそうな…」

「光子。お前実はこんなに食べること好きなんだな。知らなかったわ」


 葵がニヤリといやらしく笑いながら、

「ははーん。お祖母様。パパといるときは猫被って少食気取ってんでしょ?」

 知らなかったぜ。クリスマスの時も楚々と人並みの分量を食ってたし。その割にこのスタイル。きっと非常に燃費の悪い身体なのだろう。

「そ、そんなことねーよ… な?」

 葵に弄られキョどっている仕草が堪らなく可愛く感じ、思わず頭をくしゃくしゃにしてやる、それを葵が珍しく千手観音様のような穏やかな眼差しで見据えている。

「よし。腹もいっぱいになったし、ホテル戻って寝るか!」

 葵が転た寝中の翔のほっぺを優しく突いている姿に、俺も未だかつて感じたことのない穏やかな気持ちで見守るのであった。


     *     *     *     *     *     *


 会計を済ませタクシーを呼んでもらおうとするや否や。

「んだよ、ホテルって京都駅近だろ? 腹ごなしに歩くぞオマエら!」

 夕食に遅刻をした身として逆らうこともできず、日中歩き通しボロボロになった足腰を奮い立たせつつトボトボと歩いて南下していく。隣にピタリと光子が張り付く。流石に子供の前では… と思い後ろの二人を振り返ると。しっかりと恋人繋ぎで手を繋ぎ、お喋りに夢中だ。


「おい。コスプレは出来たのか?」

「今回はいいわ。その代わり。次は太秦の映画村? 連れてけ」

 俺はピンと閃いてしまう。

「なあ、青山や川村たちに頼まれてんだけどさ、今年の例の修学旅行?」

 暗がりでもハッキリと分かる。光子の表情がパッと輝く、まるでJ C、J Kの如く。

「京都にするか」

 俺の腕に小さな丘を擦り付けながら、

「おめ… サイコーじゃんかそれ!」

「その時に太秦映画村、入れるっていうのはどうよ?」


 娘と孫の目前で俺に激しく抱きついてしまう。それも俺の首に手を回し、何かの映画のように俺にぶら下がりながら、

「きゃーーー、チョー楽しみぃーーー」

 それなりの人通りの中なのだが。行き交う人たちがガン見しているのだが。指差して笑う奴もいるのだが。恥ずかし過ぎて光子をぶら下げたまま人気の無い小径に走り込みたいのだが。

 でも娘と孫がこの老カップルの痴態を嬉しそうに眺めてくれているのが救いであった。


 ふらふらと三十分ほど歩き、俺たちはホテルに到着する。光子は去年の数々の旅行で豪華な宿泊施設を経験してきたので普通だったが、

「ちょ… うわっ… セレブじゃんこのホテル」

 期待通りの反応に満足する。

「な、お前ら若者だけではこんなクラスのホテル泊まれんだろう、有り難がれ」

 葵が俺の横に近寄り、

「因みに一部屋おいくら万円?」

「部屋のタイプにもよるが。今夜のタイプで八万ちょいかな」

 葵は白目を剥き、翔の胸の中に倒れていく。


 預けておいた荷物を引き取り、チェックインを済ませ、部屋に案内してもらう。部下の村上が取ってくれた今回の部屋は所謂和洋室タイプだ。ベッドがツインと畳に布団二組。部屋に入るや翔と葵は呆然として感嘆している様子。 光子も、

「おーー、中々いいじゃん、あのチンチクリンメガネを褒めてやらねば」

 村上、な。まあ、その通りなのだが。


 ポーターが一礼して部屋を出るや、真っ先に葵が布団一組を確保し翔の腕を取り和室に居座ろうとするのを光子が二人を軽く引き離し俺の首を抱え込みそのままひかれた布団に転がり込むや葵がベッド用の枕を光子に投げ付け光子が掛け布団を葵に投網のごとく投げそれが何故か翔の頭に被さった頃に部屋のドアがノックされ、

「両隣と下のお客様より苦情が…」


 餅つきするが如く何度も頭を下げ女二人を睨みつけるながら、

「オマエらそのグチャグチャな布団で寝ろ。俺と翔はベッドを使う。いいな」

「へーい」「ハーー」「クックック…」


 このホテルには大浴場がついている。家族風呂はねえのか、と光子が暴れるも

「あっても絶対入らないし。パパの出し汁無理だし」

 葵がチャバネゴキブリの死骸を眺める目付きでボソッと呟く。

「ほーん。父と娘ってんな感じなん?」

「え…… まさか、お婆さま、翔くんと一緒に…?」


 光子と翔は夏の日に目の前に置かれた冷たい水を飲むのが当たり前だと言うが如く同時に頷く。俺も相当目を丸くし驚愕してしまう。

「ないないないないないー 翔くん、今日からお婆さまと一緒にお風呂入るのを禁止します、まさか学校の友達とかに言ってないよね?」

 翔はああと呟きながら、

「だからあの時みんなドンびいてたんだ、そっかそっか……」


 これは光子の問題だな、と看過し、

「もういい歳なんだから、可哀想だぞ。翔が友達に避けられてボッチになったらお前の責任だぞ」

「お、おお、仕方ねえ、これで翔のチンポも見納めってわk― イッテーな、この小娘がっ」

 葵が鬼神の形相で光子の背中を叩きまくっている。


 京の疲れを湯に浸かりながらゆっくりと解す。温泉でないのは残念だが。

 このホテルの大風呂は実にシンプルな造りだ。特別な装飾や照明もなく、ただ湯に浸かり身体を温めるという実用的な観点を重視した造形だ。

 正直歩き疲れ過ぎており、風呂の造形なんてどうでも良い。ただただ暖まればそれで良い。そんな気分なのでこのシンプルな風呂に大満足である。


 隣で頭にタオルを乗せた翔が、

「この湯も軟水なんでしょうね」

「そうなんだろうな。やっぱ肌に良いのかな?」

「どうなんでしょう。京の女性は肌がきめ細かいのですか?」

 すっかり俺はエロ親父扱いされてしまっており。

「俺に聞くなよ」

「なんか知ってそう」

「知らん。断じて知らん。知ってても言わん」


 ケラケラ笑いながら、

「大丈夫ですって。祖母には内緒にー」

「へーー、オマエ京女に興味あるんだ−?」

 苦笑いしながら首を振り、

「でなくって。京大、悪くないなってー 今日あの辺りを歩いてて思ったんです」

「え…… おお… そ、そうだな。え?」


 あれま。たまたま偶然京大の前を歩いただけなのに。でもこれも何かのご縁なのかも知れぬ、と決して否定はせずに頷いていると、

「それにこの町の奥深さに圧倒されてー もっと時間かけてゆっくり探りたいなーと」

「それって… 旅行じゃ駄目なのか?」

 何処か遠くを眺める目付きで、

「ええ。是非住んでみたいー そして感じたいー 古都の所以を」


 すっかり京の都の虜となってしまったらしく。そうか、翔は京大に進むのか、ああ悪くない、寧ろ相当格好良い、そう呟くと翔は満面の笑みで

「ホントですか?」

「ああ。どっちにしろ、専攻は法学部なんだろ?」

 さっき哲学の道を歩きながら、何となく将来のビジョンを語ってくれたのだ。母親の影響で法曹界に興味があるらしい。母親の辿った道をなぞるのも悪くないな、そう思い彼の夢に同意を示したのだった。


「取り敢えずは。その後歩きながら考えますよ」

「あの道で?」

「そう。あの道で…」

「お前の後ろに道は出来る… か」

「気魄を僕に充せてくれますか?」


 頭を押さえつけてお湯に沈めてやった。この童貞め。


     *     *     *     *     *     *


 部屋に戻りー 当然男の湯は女子より短くーベッドに潜り込むとすぐに意識が無くなった。寝覚めると朝9時だった。隣を見ると翔はすでにいなく和室を覗くと葵もすでにいない。この部屋には俺と光子のけたたましいイビキだけが残されていた。

 そう言えば光子の寝顔を拝むのは、と言うか共に朝を迎えたのは今日が何度目だろう。二人きりで迎えた朝は未だ一度きりである。この女は寝顔と普段の顔つきのギャップが大き過ぎる、何が言いたいかというと、寝顔が可愛過ぎる!


 50オンナの寝顔が可愛いなぞ信じられない? ではそれを証明してやろう、俺はそっとスマホで光子の寝顔を何枚も撮ってやった。

 ふと、光子の胸元がいつものように明け透けになっているのに気づき、ちょっと興奮してしまう。そっと手を差し伸べ、その感触を楽しもうとした時。まるでお約束の如く二人が部屋に戻って来る。あとちょっとだったのに、恨めしげに二人を見上げる。


 どうやら二人して朝7時に目が覚め、朝の散歩をこなしその後朝食ビュッフェを楽しんだとか。普通逆じゃねえのか、老夫婦みたいな真似しやがってと苦笑いしていると、

「レストランでさ、ウチら見てみんなが『えっ』て顔するんだよー ウケるー」

「ちょっと恥ずかしかったけど… 朝ごはんすごく美味しかったですよ、お漬物とか特に。二人とも行かないんですか?」


 突如光子がガバッと起き上がる。あれもしかしてこいつずっと目覚めていた……?

「漬物かー いいな。よし、アンタ。行くぞっ」

 俺はゴクリと唾を飲み込み恐る恐る頷いた。


 朝食会場は最上階で京都の街を一望できる素晴らしいロケーションである。遅めのせいか殆ど客はおらず、期せずして貸切状態にご満悦な光子にホッとしていると、

「スマホの待ち受けにしていいぞ、さっきの写真」

 あああ… やはり此奴目覚めていたな……

「乳触ろうとしてたべ、この変態野郎、ぎゃは」

 全身真っ赤になって震えていると、


「翔の奴、変わった」

 突如、優しい目元でそう呟いた。

「…そうか?」

「ああ。なんつーか、背中に棒がビシって入った感じかな」

「全然わからん。なんだそれ?」

「んーーー、あと顔付き? 変わったわ絶対。後でアオジルに聞いてみ」


 そうだろうか? 俺には何も感じられないが。ああ、そう言えばこんな事が……

「京大に行きたいってさ」

 光子はポカンとした顔で、

「は…? 何で?」

 昨日京都大学の近くを歩き、どうやらすっかり気に入ったみたいだ、あと古色ゆかしいこの街もお気に召したようだぞ、そう告げると

「ほーん。ま、あいつが決めるのならそれでいーんじゃねーの? アンタ、どう思う?」

「すごくいいと思うぞ。お母さんの、真琴さんの後を追いたいそうだ」

「もし翔が京都に来たらよ、アオジルそーすんだろな、きゃは」


 何故かいやらしい目で俺の脇を突く。

「どうしたもんだか… そん時考えればいいか、な?」

「そうだな。そんなことより。オイっ」

「おお、なんだ?」

 光子が両目をまん丸に見開きながら、

「マジで漬物美味すぎる… なんちゃら市場に買い占めに行くぞっ」

 錦市場な。それと買い占めるには多分億の金が必要だからな……


 食事が終わり少し外を散歩するかと玄関へ行くと、丁度雨が降り始めた。天を罵りながら喫煙所で美味そうにiQOSを吸う光子を眺めながらこの後のプランのおさらいをする。

 村上リコメンドの旅程表二日目によるとー


 起床は7時…… この時点で三時間ビハインド… 

 まず京の北西の嵐山へその後渡月橋から東に進み仁和寺、金閣寺、上賀茂神社まで来たら南下して京都御所、錦市場、京都駅と下り、新幹線で帰京。


 とても普通の旅行者が一日で回れる旅程ではない。いや、村上ならやりかねないかも知れないが。アイツ自分を基準に旅程を立てやがって。帰ったら厳しく指導せねば。

 雨も降り始めてきたのでこのプランの半分を端折ることにする。

 タクシーで嵐山、渡月橋、南東にタクシーを走らせ錦市場、そして京都駅。これなら半日で行けるはずだ。光子も葵もまあ満足するだろう。俺も翔も今日は彼女達に付き合うか。体重増えそうだな…


「おう、今日の予定は決まったんか?」

「ああ、お前に付き合って食い倒れてやるぞ」

「面白え、どっちが先にギブアップするか勝負だぞ、ぎゃは」

 何をギブアップするんだよ? ちょっと怖えよ……

「さ、朝風呂行こうぜチャチャっとよ」

「そうするか。そうだ、二人で家族風呂入ってみるか?」

「え……」


 おいこら! ここでキョどるなよ、言った俺が恥ずかしいだろうが…

 年甲斐もなく真っ赤な顔をした中年カップルが家族風呂に入ろうとすると、『本日は終了しました』の看板が立てかけてあり。ガックリ項垂れる光子の肩をそっと抱く。あれ、曇りガラス越しに人影が見えた気がしたが、もう終わりなら仕方ない……

 こうして俺たちは虚しい朝風呂をそれぞれ済ませたのであった、部屋に戻ると何故か満面の笑みの葵と抜け殻となった翔が肩を寄せ合っていた。


     *     *     *     *     *     *


 ホテルをチェックアウトしたのが丁度12時。ホテル前のタクシーを拾い、嵐山へ向かう。春休みなのだが平日でしかも雨天、想定よりも混雑は少なく渡月橋のたもとで降ろしてもらう。  その辺りは観光目的の店、飲食店だらけで俺的にはなんの面白味もないのだが、女子二人はガイドとスマホを右手に傘を左手に走り回り、男子二人はそれに這々の態で縋り付く。


 愛宕山辺りに棚引く雲が本当に水彩画のようでしばし見惚れる。古都に程近い山々は長い年月をかけ少しずつ人の手が入り、とても自然そのものでは無いのだが、何故か無性に懐かしく感じる。そんな不思議な感覚に陥りふと隣の翔を窺うと、彼も俺と同じ景色を懐かしそうに眺めている。


「不思議です。初めて来て初めて見る景色なのに… なんか懐かしい…」

「それな。お前本当に三年後ここに来て、その神秘を探り当てて……」

 翔が俺を見上げる。三年後には俺と同じ目線となっているかも知れないな。

「俺に教えてくれよ」

「そんな日が、来ますかね?」

「人生わからんもんだぞ。三年後の自分なんて俺ですら想像できん」

「ですか?」


 三年後の俺。三年後の光子。三年後の会社、そして仲間達。予想は出来てもそれが当たる筈がない。当たってしまっては人生の楽しみが減ってしまうと言うものだ。とは言わずに、

「だから。お前なんて京都どころか、海外行ってるかもしれないな」

「はははー、なんか楽しくなってきました!」

「え? 何が?」

「三年後の自分。一体何やってるんだろうー?」


 俺から目線を外し、雨空を見上げながら大きく伸びをしている。

「で。その横にウチはいるの?」

 いつの間にか葵が俺と翔の間にスルリと入ってくる。

「逆じゃない? 三年後の葵ちゃんの横に、僕は居れるのかな?」

「んーーーーーー じゃ、二人で京大って事で〜」

 は? 葵が京大? 流石にそれは飛躍し過ぎであろうに……

「お前京都気に入ったのか?」

「ウチは何処でもー 翔くんと一緒なら〜 キャ」


 あざとい… なんと恐ろしい子に育ってしまったのだろう… 翔は耳まで真っ赤にして口呼吸しているし。 ま、こんだけ若ければこれから色々なことがあって別れては寄り戻り、一緒になる運命ならきっとそうなるのだろうな。

「腹減ったー、パフェ食おうぜパフェ! 嵐山っちゃあ抹茶パフェ、行くぞ!」

 …… 早く足を完治させ、何か有酸素系の運動を始めなければならない、コイツとこれから寄り添う為には……


「ウオーーー こ、ココはスゲえ! アオジル、行くぞ!」

「御意! キャ」

 嵐山からタクシーで錦市場に来ると本当に彼女達の目の色が豹変し、俺らは今日も放置プレイを強いられてしまう。

「全く彼女達は…… あ! ああ! うわ! 金光さん! 見てくださいあれ!」


 翔は突如興奮し頭上を指差す。そこには恐らく伊藤若冲であろう動物などの絵が垂れ幕に描かれている。

「僕、箱根の岡田美術館で観たんですよ! 若冲の絵を! ああー凄いー あ、あそこにも、うわ、ここにもー」

「へーー。でも何でこの市場に若冲の絵がこんなに飾られているんだろう?」

「…そうだ… 部下さんのプリントの但し書きに書いてあった… 確かー若冲はこの市場の問屋の主人だったんですよ」

「は? 問屋の主人? 狩野派とかの純粋な絵師じゃなかったの?」

「ええ。問屋を営みながら趣味で絵を描いていたのが嵩じて有名な絵師になったとか」


 伊藤若冲。最近まで全くの無名だった江戸時代の浮世絵師。この数年、突如湧いたように日本美術界で話題となっているのは俺も村上の資料で初めて知った。


「成る程… 確かにさ、この絵って浮世絵とかからもかけ離れているしすごく独特な画風だよなー」

「ええ。職業としてではなく自分の思うがままに趣味として描いていたので、当時の江戸の文化の中では相当異質ですよね」

 おお、よく勉強しているな。それにしても村上資料恐るべし、こんなちっぽけな会社には勿体無い人材であるのは認めざるを得ない。


「当時は絵師としての評価はどうだったんだろう?」

「ゴッホと同じー では無く、相当高い評価だったようですね。明治以降忘れられた存在だったようですが」

「ああ、俺も未だかつて一度も名前を見聞きしたことないよ」

「1990年代から再評価されているそうですよ。そうか… 若冲はこの喧騒の中で…」


 翔はそれからしばらく自分の世界に入り込み、古の若冲を想像の翼に乗せ高く、何処までも高く飛翔しているようだ。

 俺も若冲に興味を覚え、翔が飛んでいる間にスマホで若冲の人生を追ってみた。

「へーー これは意外、というか、面白いー」

 ハッと我に返った翔が俺を窺う。

「この若冲ってさ、ただの問屋のボンボンじゃなかったらしいぞ」

「というのは?」

 翔の瞳が大きく開かれてくるー


「この市場、取り潰しになりそうだったのを若冲が救ったらしいぞ」

「何ですって!」

「何でも商売敵が錦市場を閉鎖に追い込もうとしたのを町年寄だった若冲が奉行所や役人、ひいては農民達も巻き込んで何とか市場閉鎖を防いだらしい」

「何と…」

「その間は一切の作品を残してないみたいだー」


 呆気に取られた翔は目を大きく見開き、新たなる知識をグイグイと吸い込んでいる。

「確かに若冲は後世の人々に多くの作品を残した」

「ええ…」

「だけどー 見てみろよ、この活気。人々の生活。人々の笑顔。これを平成の今まで残したことの方が俺には凄いことだと思うよ」

 深く大きく息を吐き出しながら、翔はゆっくりと夕方の買い物で活気づくアーケード街を何度も目で追っている。

「素晴らしい作品を残し俺たちを喜ばせてくれたのも凄いけど、この場所、この地に住まう人、この地を訪ねる人を守った事こそが、彼への最高の評価なのじゃないかな、と俺は思う」


 翔はすれ違う買い物客、店の売り子の一人一人を見つめ、そしてこの市場全体を見回し、

「若冲が守ったこの市場、か… はははー 凄いな…」

「だろ。絵師、伊藤若冲でなくー」

 俺を見上げニッコリと笑いながら首を振り。

「違います。貴方ですよ、凄いのは」

「は?」

「はははは 昨日今日で僕の目の鱗は何枚剥がれただろう」

「何だよそれ…」


 翔に褒められると何だか中学時代の恩師の金子先生に褒められた時のことを思い出し、心がくすぐったくなってきやがる。

「決めた。学校の宿題、こっちに変えようー それにしても流石―」

「?」

「お婆ちゃんが忘れようにも忘るゝ事の出来ぬ人、ですね」

「? 意味が分からん」

「母も、龍二叔父も一目置く人だ…」


 光子のあの変人息子娘達に褒められてもなぁ…… あまり嬉しくない正直。

「別に褒めてません。事実を述べたまでですから」

「…… なんか今のお前の母さんに似てたぞ」

 母親の真琴さんと全く同じ口調に思わず吹き出してしまう。

「おーーい! コレマジ旨いぞー こっち来いやーー」

 光子が口の周りを鰹節の粉だらけにしながら、人並みの彼方から大きく手を振っている。


     *     *     *     *     *     *


 アーケードを出ると雨は止んでいた。そして旅の終わりを告げるが如く、辺りはだいぶ暗くなって来ている。

「よしっ 腹ごなしに歩くぞ、京都駅まで!」

「いーよー」「えーー」「ハア?」

 二対二。判定勝ちした女子達の後ろを俺と翔が諦めた風にタラタラ歩む。それぞれの荷物はホテルに預けてあるのでホテルに寄ってから駅に向かう。


『雨上がりの夕暮れ時、京都』


 おっ このフレーズいいな、なんて少し仕事の事を考えながら二人の後を追う、どう見ても仲良さげな母と娘の後を。

 新幹線に乗るや否や、座席を向かいにし俺と翔、光子と葵が席に着く。列車が動き出すとほぼ同時に三人は眠りに落ちていく。左肩に青臭いが暖かい温もりを感じながら俺は明日会社に提出するレポートをタブレットに打ち込み始める。


 小田原を過ぎた辺りで一通り打ち終わる。それをPDFに変換しメールに添付して企画部一同に送付する。タブレットを閉じ車窓を眺めると外はすっかり真っ暗だ。あれ程食い散らかしたのだが腹がキュウと鳴る。『居酒屋 しまだ』で忍に何か作ってもらおう、脂取り紙を渡さねばな、―気付くと東京駅に到着していた。


「ねえパパ」

「何?」

「アタシあのババア、マジで嫌いだったんだー」

『しまだ』で結局ガッツリと夕食を終え、ピギーをガラガラと引きながら帰宅途中、突然葵が話し始める。

「でもね。なんかパパに合ってるわ」

「は?」

「パパはさ、ママに比べてあのババアの何がいいの?」


 凄いところを存分についてくるな…… だが葵がずっと俺に聞きたかった事なんだろう。

「お前、ドン引くと思うけどー 里子はそん時の俺の上司の紹介だったんだ…」

「そうなの?」

「ん。で、その上司が『金光もそろそろ身を固めなければな』と知人の娘さんを連れて来てさ。ま、当時俺に付き合ってる彼女とかいなかったし里子かなり綺麗だったしー この娘でいいかなって感じだったんだよ」

「―マジ引くわ… キモ」

「だから言ったろー そう。最初から里子に対して恋愛感情は無かったんだ。でも結婚ってそんなもんだろう、って俺も周りの皆も言ってたし。良いとこのお嬢さんで結構綺麗でーこの娘と家庭を持って社会に俺をこれで一人前、って思わせて。そんな感じ」


 自分でもビックリする。何でこんな正直な気持ちを娘に語るのだろう…

「恋愛と結婚は別、だったんだね?」

「そう。メガ引いたろ?」

「ウザ」

「…… 里子は本当に良い妻だった。良い母だった。非の打ち所のない最高の妻だったー」

「でもー 恋愛感情を持てなかったー んだね?」


 俺は大きく深く頷きながら、

「そう。だからお前の言う、何が里子より光子がいいのかって話じゃないんだよな… 里子に比べたら光子はー」

「ババアだし、ガラ悪いし、学歴無いし、すぐ男に惚れて孕むし、前科あるし」

「身も蓋もねえな……」

「タバコ吸うし、貧乳だし、知識無いし、大酒飲みだし… キャハハハっ」


 突如光子をディスりまくっていた葵が大爆笑を弾けさせる。

「な、何だよ…」

「パパ、ボランティアじゃん」

「ハア?」


 腹を抱えながら、

「いやー、100人中120人がママ選ぶわー」

「んぐっ… た、確かに…」

「それでも、好きなんだー」

「そう、だな」


 深夜の街に遠くパトカーのサイレンの音が鳴り響いている。暫しの沈黙の後。

「どこが好きなの?」

「人に媚びない所。自分をしっかり持っている所。絶対にブレない所」

「自分の周りを守る強さを持っていること。それとその人達を守る為なら自分を犠牲にしちゃうところ」


 まるで小劇団のセリフのように澱みなく続ける葵に面食らう。

「あと。この世の誰よりもー」

「へ?」

「金光軍司を愛していること!」

「……」


 もう、全てを見透かされている。少し前まで大人しく言葉少なかった娘に。十五歳のまだ子供の娘に……

「でもそんなあの人の唯一の弱点― 自分の事になるとメチャ弱くなることー」

 俺はこの子の歳に、これ程他人を見ていたであろうか。否。全く他人を見ようとも知ろうともしていなかった。とても俺の遺伝子を持つ娘とは思えない、いや、母の里子の遺伝子が存分に……


「守ってあげな」

「えっ?」

「あの人の弱点。パパだけだよ、守ってあげられるの」

「そうかな…?」

「そうだよ」


 俺は首を項垂れながら、小さく呟く。

「俺は里子を、守ってやれなかった…」

「ハ? ママはパパの10倍強かったし。守ってくれてたのママの方だし」

「確かに…」

「だからー ママはこう思ってるはずー」

「えっ…」


 寒風吹き荒ぶ道の真ん中で仁王立ちしながら、

「こんなダメ夫をこれだけ愛してくれる女性をパパはしっかり守ること! いい? 分かった?」

「…おい、今の言い方、里子ソックリ…」

「はあー。アタシもしっかりしなくちゃ、だね」

「陰ながらー 応援するよ」

「ああそーゆーのいいから、資金的に応援よろぴく」

「ハアー 今夜は断れねえー」


 お袋が土産の生八ツ橋をモグモグ食いながら不意に、

「なーんか、葵ちゃん変わったわねぇ」

「は? そーか?」

「うん。雰囲気がガラッと変わったわよ、あんた気付かないの?」

「んーーー、少し角が取れたかな?」

「里ちゃんとみっちゃんを足して二で割った感じかしらー」


 土産の宇治茶を啜りながら腕を組んで首を傾げている。

「京都で何があったんだい?」

「いや… 別に… あ、二日共光子とべったりだったんだが?」

「ふーーん。あの子もやっと見えるようになってきたのかねえ」

「見えるって、何が?」


 お袋は俺を鼻で笑いながら、

「あんたにはわからないだろうね。ま、それでいいけどー」

「何だよさっきから! よく分かんねえよ」

「分かってたらあんたこんな苦労してないわよ。あの子の優しさは里ちゃん譲りなのよ。本当は父親が強さを教えなきゃいけなかったんだけどねえ」


 痛え。めちゃくちゃ痛えよお袋…… 今度は光子からの土産である漬物をカリカリ齧りながら、

「それをみっちゃんがしっかりあの子に教えてくれたみたいだね」

「え… そうなの?」

「はあーー 我が息子ながら何さこのバカさ加減… なーんにも見えてないんだから。あんたちゃんとしてないとみっちゃんに逃げられるわよ!」

「ちゃんとって何だよ… 何なんだよ葵にしろ母さんにしろ…」

「そんだけあんたが情けないってこと。母から見ても娘から見ても。分かった?」

「――疲れたから寝るわーー」

「ったく。明日リハビリでしょ? ちゃんと起きなさいよ」


 長く、短い旅がやっと終わった。


     *     *     *     *     *     *


「んーーー。流石キン様。短い時間の中で良くこれだけ回りましたね」

「まあな。もうクタクタだよ…」

 翌日。午前中に病院でリハビリを終え、午後イチで会社に来て企画部会議を始める。


「リポートも良く出来てますー ここを除いて… 何この『雨上がりの夕暮れ時、京都』って。ウケるー」

「何でやねん! メチャええやん、流石キンさんや!」

「全然親と子の旅行と関係無いじゃん。はい却下」

「そうですね。なんかあざといですね。却下」

「え? だから? 感がパナいですね。却下」


 こればかりはあの時、あの場所で、この四人が感じた事なので万人に訴求すべきキャッチフレーズとしては厳しいのかもしれない… 俺は涙目で、

「おーーい… ちょっとキツくないかー?」

 村上が万札をライターで燃やしている輩を睨みつける視線で、

「はーー? アタシらがメチャ仕事してる間に京都で楽しんできた人が何か言う事あります?」

「いえ… 失礼しました…」

 取締役専務を叱責する平社員……


「中々謙虚でよろしい。でも、ホントメチャ良いですよこのリポート。成る程ねー、歴史散策組と食レポ組かあ、そーだよね、別にみんなで一緒に回らなくても〜」

「親と子で互いの興味を満足する旅か。いい、これいい。キンさん流石ですっ」

 おお? わかる奴には分かるのだ、ってか? とは言わずに、

「でだ。夏までにこの線でキャンペーン組めそうか? これまでにない新しい感じで?」

「もうちょっと親子の絆を前面に出した方がええんちゃうかな?」

「ただもう少し客層を絞らないとー どの辺りが狙い目ですかねー?」

「客船、とかもアリじゃない? アタシ親と乗りたいかもー」

「船旅で台湾とかグアム? 帰りは飛行機か。旅程は一週間くらいからーー」


「そうそう、光子の孫が村上のプリント滅茶苦茶褒めてたぞ。宿題の参考にするってさ」

 村上は残念そうな苦笑いをかましながら、

「ははー、中坊に褒められてもー」

「開聖中だぞ」

 笑顔が凍りつく、村上だけでなく他の社員達も。

「えーーーーーーー」

「うっそーーーーー」

「はあーーー? 姐さんの孫が?」

「ちなみに、アイツの長女と長男、日々矢な。そして今弁護士と獣医やってるよ」


 全員が仰け反るー 特に飛び切り優秀な最若手の庄司は呆然としている。

「私が… 落ちたところ… 姐さん、何者…」

「ヒーーーー あのあのあの人、そのそのそのー」

「落ち着け山本。別にアイツが中卒だからってバカな訳じゃない。アホなだけだ」

「な、な、成る程」

「って山本が言ってたぞって、アイツに言っとこうかな」

「ひーーーーーーーーーー」


     *     *     *     *     *     *


 その週末。甲府から真琴が引っ越してきた。当初相当な荷物だったそうだが『断捨離』を断行し、何とか『居酒屋 しまだ』の二階の空き部屋に収まる量に減らしたとか。それでも送られてきた段ボールの中身は

「有り得ないほどグッチャグチャでした」

 それを翔がササっと片付けをし、何とか生活できる様相にしたとか。


 四月から月島の小さな法律事務所で働くという。何でも人権派の弁護士が四人ほど集い、それ程金にならない仕事をさせられると言う。お金よりもやり甲斐なのだが翔の学費を貯めていかねばならないのでその兼ね合いが一番頭を悩ませたとか。


「どうだい。やはり生まれ育った家はいいもんだろう?」

「一階が居酒屋になってしまって… 私の房室はその角だったのですよ」

 真琴が指を指して懐かしそうに微笑む。

「隼人が建て直してくれたので当時の面影は全くありませんが。でも家の周りの雰囲気なぞやはり言葉では言い尽くせぬ程の郷愁は否定できませんね。キングさんもそうなのでは?」

「ウチは築60年かなあ。俺が生まれるちょっと前に建てたっていうから。そろそろ建て直さなきゃなあ」

「それならば是非バリアフリーが良いかと。初老の夫婦にはこれが何よりですわ」

「コラ真琴、テメーアタシを早々に追い出すつもりか〜」


 ニヤけながら光子が真琴をどつく。

「客観的に鑑みて、当初の三年ほどはここで母さん、私、翔。その後は私、滝沢さんがここに、母さんはキングさんとキング邸で同居。大学生になったら翔は一人暮らしが良いかと。葵さん、何かご不満でも? 何なら翔と同居すればいいじゃない。但し家賃は折半、生活費も互いの収入に応じ比例―」

「悪くねえな」「冗談じゃない」


 俺と光子が被る。冗談じゃない… ウチに光子とお袋と葵… 今でさえ母と娘に押し込まれ気味なのに最強の助っ人が彼方に来るなんて…


「んだよ、アンタやなの?」

「っつうか… ゴニョゴニョ…」

「は? 聞こえねえって… 何々… んっ…は…お、おま…」

 一瞬にして爪先まで真っ赤になってしまった。変な奴だ。ただ、俺はお前と二人で住みたいって言っただけなのだが…


「お母様。先ほどの件で一点疑問が」

「被告人、どうぞ」

「被告じゃねーし… えっとぉ、当然その際には『仕送り』制度を導入して頂けると考えてよろしいでしょうか」

「却下します。息子の学費は出します。然し乍ら二人で生活を同じくするのならば親に頼らず各々が努力し精進することが望ましいと判断します」

「その努力精進が実らず貧困に窮し已む無く窃盗、売春に至った場合、その責任は仕送り制度を却下した保護者にあると推察されるのですが如何でしょうか?」


 呆然と聞いていた翔が堪らず、

「あ、葵ちゃん… そんな… お母さん、ちょっと…」

 鋭い視線で翔の仲介を却下し、

「それでは仕送りでなく示談金という形で犯罪を防止することを提案します」

「異議ありません。それでは示談金の交渉に入りたいと…」

 腹筋がブチ切れる程爆笑しながら、

「お前達… 面白過ぎるからやめなさい… 頼むよ真琴ちゃん…」

 真琴は変わらない能面のような表情で、

「これはしたり。貴女少し変わったわね。流石私の後輩ということかしら。このまま精進を続ければ貴女法曹界でなんとかやっていけるわ。其の気があるなら何でも相談なさい。身内価格で割引するわ」


 俺は冷たいお茶で笑いを冷ましながら、

「光子… 益々喧しくなるな、この店」

「ま、いんじゃね。てかコイツさっきから何言ってんの? アタシの悪口?」

「…かもな」

「んだとコラ! 真琴テメエ、追い出すぞオラ!」

「母さん。退廷を命じます!」

「んだよ腹減ってんのか。飯炊いてやるよ」


 俺と光子の二度目の春が始まろうとしている。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ