賭けの勝敗
ミゲルと再会することなく3週間ほど経った。意外と会わないものである。もしかしたらミゲルは自分を見かけはしたが気が変わったのかもと思ったが、それならそれまでだ。
エリオットはホワイトカラーである。普段はスーツを着て地下鉄に乗りビジネス街にあるオフィスで仕事をしている。
この日も普段通りネイビーブルーのスーツに身を包み出勤した。
ランチタイム、食堂で同僚のヴァレリーがサラダをつつきながら上司の愚痴をこぼす。
「全くどういうつもりなのかしら、部長ったら。納期の件はとっくに話してたのに今更聞いてないとか言い出して。ほんとぶっ飛ばしてやりたいわ。」
小柄で美人な見た目からはおよそ想像もつかぬほど気性の荒い彼女は、サラダのトマトをフォークでぐさりと刺した。
「いつものことだろ、どうせまた奥さんと喧嘩して八つ当たりしてきてるのさ。」
ハムとチーズのサンドイッチを頬張りながらエリオットはヴァレリーをなだめた。
彼女はもしゃもしゃと咀嚼しながらじっとエリオットを見つめる。
「...ねえ、エリオット。前の彼と別れて1ヶ月くらいでしょ?次の出会いは求めてないの?」
「おい!職場ではカミングアウトしてないんだ。」
思わぬ話題にむせてしまったエリオットは、ミネラルウォーターを喉に流し込みながら周りを見渡す。幸い聞かれてはいないようだ。
「そうだったわね、ごめんなさい。」
申し訳無さそうに縮こまるヴァレリー。
「別にあいつを引きずってるわけじゃないさ。特に本気でもなかったし。ただ、他の相手を自分から探しに行く気になれないだけだ。」
お気に入りのサンドイッチなのに途端に味覚が鈍くなったように感じる。
本当に引きずっていないのに言葉にすると未練がましく感じさせてしまいそうなのが嫌だった。今となっては恋人と呼べるほどの関係を築けていたかも怪しく思う。
「あなたっていつもそうよね。本気で恋したことあるの?」
なんだか今日はやけに噛みつくなと思ったがふと過去の恋愛を思い出してみる。
確かに前回もその前も更に前も「本気」では無かったと思う。相手の事をそれなりに大事だと感じてはいた。
だがいつだって相手を満足させる程の愛情を与える事ができず皆去っていった。
時刻は17時を過ぎていて、エリオットは地下鉄駅構内のホームで発車標を眺めながらヴァレリーとの会話を思い出していた。
常に恋愛をしていなければ満足いかないという事もないが、このまま一人で生きていくのだろうか。一人で生きて一人で死ぬという事がなんとなく恐ろしい。そんな静かな焦りが彼の中では徐々に大きくなっていく。
思考する分だけ体が重くなるのを感じる。
エリオットの待つ電車の到着を知らせるアナウンスが流れた。
プシューと音を立てドアが開くと彼は重い足取りで電車に乗り込む。
普段の彼は一人の時、家に帰るとスーツを脱ぎ捨てソファに寝ころび缶ビールを開ける。
しかし今夜はこみあげてきた寂しさをなだめるため、カジュアルなセレストブルーのシャツとテーパードパンツに着替えた。
彼が向かったのは一番近いゲイクラブ。すえた臭いの繁華街、文字がチカチカと点滅するネオンカラーの看板を横目に入店した。
様々な色の光があたりを飛び回り、DJがアップテンポな電子音で場を巻き込んでフロア内に大きな熱を生んでいく。
バーカウンターの向こう側には金色のアイラインを引いたスキンヘッドのバーテンが、鮮やかな手さばきで次々とカクテルやビールを振る舞っていく。
注文したテキーラをぐっと飲み干し、エリオットはダンスフロアに繰り出した。
流れる音楽に身を任せその場に体を溶かす。しばらく自分の中で渦巻いていた孤独がゆっくりと体から出ていくような感覚。
何杯か飲んだ後、近くで踊っていたゆるやかな癖の付いた亜麻色の髪を一つに束ねた男と目が合う。ゆっくりと互いを引き寄せ合う様に近づいていき、相手はエリオットの腰に手を添えた。
二人で踊りながら目を見つめあいキスをする。
そうだ、これでいい。エリオットは人肌が恋しくなった時、こんな風になんのしがらみもなく一瞬の熱を与え合う関係があればしばらくは正気を保てそうだと思った。
手を引かれクラブのトイレに連れて行かれる。正直トイレで事に及ぶのはあまり惹かれるシチュエーションとは思えなかったが、彼は酔っていたので素直について行った。
行為が終わり、かなり酔いも回っていたエリオットは連絡先の交換をねだる相手の男を無視し吐き気を催しつつ店を後にした。
日付も変わった夜の繁華街は空気が冷たく、あたりは吐瀉物の臭いがしている。まだ肌にはクラブの熱気がまとわりついたまま。
タクシーを捕まえようと表の通りまで歩いてくが、エリオットの足はかなりふらつき視界は揺れている。自制心が緩いタイプではないが少々飲みすぎてしまった。
嘔吐の気配を感じその場にしゃがみ込む。
壁か地面かも分からない場所に手を付き嗚咽する。
「ちくしょう、いい歳して変な飲み方しちまった...」
口元を拭うが一度座り込んでしまったのがよくなかった。もう立てない。
その時忘れかけていたあの声が。
「また会ったね、酔っ払い。」
隣にしゃがみ彼の背中をさするのは、カフェで出会った男、ミゲルだった。
賭けには勝ったのか負けたのか。ぼやけた意識の中でわずかに喜びを感じてしまったエリオットには勝ったようにも負けたようにも感じた。