第24話「面影に、さよならを」
たゆたう思惟が重さを忘れる。
摺木統矢は今、緊張感から解き放たれた反動で無意識の世界を彷徨っていた。セラフ級パラレイド、ゼラキエルは完全に破壊した……そのことはわかるが、忘れていることすら思い出せないような錯覚を感じる。
上も下もない空間に浮かぶ統矢は、懐かしい声を聞いた。
『……統矢。ねえ、統矢』
空気を震わすことなく、直接統矢の中に響く、声。
光の中で目を開けば、統矢の前に見慣れた少女が浮かび上がっていた。
「りんな? 更紗、りんな」
『お疲れ、統矢。……仇、討ってくれたんだよね? 北海道の、みんなの……わたしの』
「……ああ」
眩しく輝く更紗りんなの姿は、眩しくてもう直視もできない。見えず触れられない場所へと行ってしまった彼女を、統矢は否が応でも意識してしまう。
だが、不思議と彼女が笑顔なのが伝わった。
りんなはいつもの親しげな口調で、そっと手を伸べてくる。
『……あんたさ、無茶し過ぎ。馬鹿やり過ぎだぞ?』
「無理はしてないさ。どんな馬鹿げたやり方でも、俺は……俺は」
『あと、気負い過ぎ。もー、あんたって子は』
「姉貴ぶるなよ、ったく」
そっと統矢の頬に、りんなは触れてきた。
その温もりがもう、現実と夢の狭間にしか残されていないと知って、不思議と統矢の視界が滲んで歪む。気付けばとめどなく涙が溢れて、統矢は泣き出した自分を止められなくなった。
「なあ、りんな……俺、やったよ。そして、これからも……やってやる、やり通す。……全てのパラレイドを殲滅する」
『あーもぉ、こらこら。泣くなってば、あんたねえ……そゆの、もうやめなよ?』
「やめない。やめて、やらない。俺は、俺が」
『なら、さ。約束してよ、統矢』
りんなの手が、細い指が統矢の涙をそっと拭った。
そして、静かに柔らかな温もりが離れてゆく。
慌てて統矢は、光を弱めて消えゆくかのような、目の前のりんなへ手を伸ばした。
だが、なにも掴むことなく虚空が指の隙間から逃げてゆく。
『約束だぞ、統矢っ! ……もう、死んだ人のために戦うの、やめなよ。戦うなら……生きてる人のために、この星のために戦って。統矢の力、さ……みんな、待ってる。統矢の力はみんなを助けることができるんだから』
「りんな……でも、俺はっ! 俺は、本当は!」
『未来へ、抗って……統矢。明日への運命を撃ち抜いて。それを可能にするのはDUSTERの力じゃない、人類みんなの……その中の一人、あんたの意志の力なんだよ』
――DUSTERの力。
そう確かにりんなは、言った。
最後にそれだけ言い残して、徐々に消えゆく光となって天へと昇る。
見上げる統矢は、意識が肉体へと戻るのを感じた。見上げるりんなはもう見えなく、その輝きは消えて……統矢は自分が落ちてゆくような感覚に凍える。
あっという間に視界はフェードアウトして、肉体の感触が戻ってきた。
「……りんな、俺、は……りんな」
薄っすらと見開いた視界に、一人の少女が立っていた。玲瓏な無表情で、じっと見下ろしてくる長い黒髪の少女だ。
それが、擱座した97式【氷蓮】のコクピットを覗く五百雀千雪だと、ようやく理解した。
千雪はそっと手を伸べ、操縦席へ統矢を拘束するハーネスを外す。
既に【氷蓮】のコクピットに光はなく、千雪を囲むハッチの輪郭だけが明るい。
「お前は、千雪……」
「お疲れ様です、統矢君。立てますか?」
「あ、ああ。俺は……どうして」
「セラフ級パラレイド、ゼラキエルを撃破後に統矢君は意識を失ったのです。この子は、【氷蓮】は私たちで青森校区へ運び込みました」
統矢は、震える手でゆっくりとヘッドギアを脱ぐ。
あの日、この機体のこの場所で……この狭く固いシートの上で、りんなは血塗れの肉塊になっていた。切りそろえたショートカットが見心地いい、快活で闊達な少女だった。美少女と言ってもいい……なにかと口煩く統矢に構って年長者面する、お節介のお人好し。
更紗りんなは、あの日ここで死んだ。
一瞬で、永遠に。
その場所で今、統矢は生きている。
【氷蓮】は、北海道消滅後に下北半島へ漂着した時と同じく大破していたが……統矢は生きている。目の前の少女は死神でも天使でもない、戦友の千雪だ。
「統矢君? ……どこか痛むのですか?」
「いや、大丈夫だ。俺は平気だ、と、思う」
「そうですか」
千雪は当然のように、手を伸べてきた。
不思議と統矢も、それが当たり前であるかのように、その手を握った。
温かく柔らかな手は小さくて、引っ張り上げる力は意外に頼もしさが感じられる。千雪の手で統矢は、汗とオイルの匂いが満ちたコクピットから抜け出た。
そこには、多くの視線が統矢を待っていた。
歓呼の声があがって、喝采の中に統矢は突然放り込まれた。
「摺木統矢! お前っ、やってくれたな!」
「信じられねえぜ、どうやったらあんな動きができんだ!?」
「転校生と戦技教導部の連中に乾杯だ!」
千雪に手を引かれて、統矢は格納庫の硬い床に降りる。
周囲は人混みで、それが津波となって統矢に押し寄せた。次々と笑顔が取り巻いて、押すな押すなの大騒ぎへとなってゆく。
その渦中で統矢は、不思議と握ってくる千雪の手を握り返していた。
そして見渡せば、見知った顔もチラホラと見かけることができた。
「統矢! やったな、俺、俺……うおおおっ! チューしてやりたいぜっ! 統矢、好きだーっ!」
「げっ、誠司! は、離せ、気持ち悪い……おい、なにを泣いてるんだよ。みんなも」
人波を掻き分け、柿崎誠司たちクラスメートがやってきた。彼ら彼女らは、統矢を見るなり目を潤ませる。女子などは感極まって、互いに抱き合いながら泣き出していた。
誠司は最初こそおどけて唇をすぼめていたが、今は鼻の下を指で擦っている。
誰もが皆、戦場を経験して戦士になったのだ。
戦士となることでしか生き残れぬ死地から、生還したのだ。
「誠司、他のみんなは? うちのクラスは……」
「今、人類同盟の皇国軍が戦場を掃討中だ。それが終わったら、行方不明者の捜索も始まると思う。現時点での幼年兵の損耗率、14%。これは、極めて低い数字さ」
「14%……それだけの数の、命が」
「俺たちは幼年兵、正規兵の弾除けに最前線に投入される。誰が言ったか、パンツァー・モータロイドの一番安い部品だ。……でも、お前の、お前たちのお陰で生き残った奴もいるさ」
「……ああ」
誠司の言葉は重かった。
そして、それがこれからも続くことを誰もが知って口にしない。
この青森で人類同盟は、一局面での戦術的な勝利を得たに過ぎない。大局を見ての戦略、その上から更に俯瞰する大戦略の観点から言えば、地球の全てはゆるやかに完全敗北へと転げ落ちているのだ。
それでも、今日の勝利を統矢は大事な一歩だと胸に刻む。
そして、これからも負けないと誓う。
全てのパラレイドを殲滅し、あいつのような存在を……りんなのような娘を増やさないために。手ですくっても零れ落ちる命を、その都度零しながらも拾い続けるのだ。繰り返しすくう手を血で染めながら。
「それにしても、統矢……おい、これ。流石にもう無理じゃねえか?」
「ん、ああ……そう、かもな」
誠司の言葉に、統矢は愛機を振り返る。
擱座して友軍機に運ばれてきた【氷蓮】は、完全に大破と言ってもいいレベルで損傷していた。既にもう、大半の装甲が滑落している。補強材と一緒に少ない装甲を縫い止めていた応急処置用のスキンテープも、綺麗に燃え落ちていた。フレームは剥き出しで、ラジカルシリンダーは各所で破裂している。
自然と統矢は、あの海岸での出来事を思い出していた。
北海道が消えたあの日も、この機体はこうしてボロボロで統矢を見下ろしていた。その中に、幼馴染の死を閉じ込めたまま。
一つの区切りを感じて、統矢が感傷的になっていると……すぐ隣で凛とした声が響く。
「この子は、直ります。直しますから、統矢君。また、戦えます」
「……あ、ああ。そうだな。直すんだ……俺が、俺たちが」
「あ、あれ? なあ……五百雀さん。手……えええっ!? まて統矢、その手を離せ! 離れろ、いっそ死ね! どうしてだ、なにが……なにがあったんだああああ!!!!」
周囲に笑いが咲いて、赤面に統矢は手を振り解く。
千雪は離されたその手を胸に抱いて、いつもの怜悧な無表情で首を傾げていた。
そうして穏やかな空気で久々に格納庫が緊張感から解放されていると……息せき切って走りながら、か細い声が近付いてきた。
「はぁ、はぁ……無事、なんだ。よかった……よかった、です。……わたし、わたしっ!」
誰もが振り返る視線の先に、華奢な肩を上下させるツナギの少女が立っていた。
それはもう、統矢には更紗りんなには見えない。
正体不明のPMRで次元転移と共に現れた、謎の少女……彼女は、更紗れんふぁ。別人だ。そう、もうりんなはこの世にいない。統矢の胸の奥へと消えて、見えない場所で眠っているのだ。
「更紗、れんふぁ」
「わたし……どうしよう、って。この場所で、この世界で……記憶もないわたしに、優しくしてくれて。始めての、友達で。わたしっ!」
れんふぁが真っ直ぐこちらへと駆けてくる。
統矢は自然と歩み出て、両手を広げた。
そして、抱き寄せる。
――空を切る腕が、虚しく自分自身を抱き締めた。
「……あ、あれ? なあ、れんふぁ……れんふぁ?」
「わたしっ、千雪さんが無事でよかったです! ふええっ、ぐすっ……」
れんふぁは統矢を無視し、アウトオブ眼中よろしく……千雪へと抱きついていたのだった。
「大丈夫ですよ、れんふぁさん。統矢君たちと一緒でしたから、平気です」
「わたし、避難しませんでした……なぜかな、うん……ここに、この場所にいなきゃいけない気がして。千雪さんが、みんなが頑張ってるのに、わたしが逃げちゃ駄目だって」
ふと、統矢の脳裏を数々の疑問の一つが過る。
何故、あのパレレイドたちはここを……|皇立兵練予備校青森校区を目指していた?
だが、周囲の賑やかな喧騒に今はそのことを忘れてゆく。
そして統矢は、れんふぁを抱き締め優しくぽんぽんと背を叩きつつ……何故か勝ち誇ったような視線を投じてくる千雪に苦笑を零した。
そう、笑った……気付けば自然と笑っていた。
千雪の胸で顔をあげたれんふぁも、驚いたように目を丸くする。
「統矢、さん? ……あの、その……笑うん、ですね」
「ん? ああ。おかしいか? れんふぁ。お前とよく似た奴のこと、な。もう思い出になったから……その、色々と悪かったな。お前はれんふぁ、更紗れんふぁだ」
「いえ、わたしこそ……そっか、統矢さんも笑うんだ。怖い人かと思ってました……でも、ありがとう。みんなを守ってくれて、ありがとうございますっ!」
こうして、一つの戦いが終わった。
いまだ出血に濡れる蒼い星、地球の片隅で……小さな北国の田舎町で、反撃の狼煙が凱歌を呼んだ。再び人類は、互いの骸を重ねて築きながら、その上をよじ登るように未来を目指す。
その先に今は、絶望しか待っていないとは知らずに。




