3.神様と任務
夜。真っ暗だ。当然だ、夜なのだから。
夜はいい。気配も姿も、闇が隠してくれる。住人達は、みな個性もなく同じように眠ってしまう。こっちが静かに行動していれば、気づかれることも無い。たとえ見張りがいようとも、そっと目立たない格好で闇に紛れてしまえばいいのだ。
ああ、夜、最高!
「お前もうついてくんな!」
「何故じゃ」
「夜の隠密行動に、真っ白な服で来るなぁ――!」
黒で統一して、大きなマントで体をほとんど隠しているキラとは対照的に、水蓮鏡はいつもと何も変わらない格好だ。
真っ白な服は、上から下までまるで光を放っているようだ。目立つとかそういう問題では、既に無い。どうぞ私を見てといわんばかりである。
「妾はこれ以外の装束を持っておらなんだ。全部置いてきてしもうた。向こうでは、毎年豊穣の祭りの際に里の者達があれこれ作ってくれたものじゃ。時代が変わっても続けてくれていたのう。しかし、のう、キラ。みな昔ほど豊穣の祈りを必死ではなくなったのじゃ。どうやら外つ国から多量の食料が届くため、我が国で作らなくなったらしいのじゃが、もしも舟が沈みでもしたら、あの子達は餓えてしまわんじゃろか。あの子達は大丈夫なのじゃろうか。妾は、いつもそれが心配でならん。妾がいる内は、あの土地の豊饒は約束されておるのじゃが、妾がここにおるのでなぁ……」
心配げに眉を寄せてしまった水蓮鏡に、キラは無言で自分のマントを脱いだ。
「と、り、あ、え、ず! 着ろ!」
頭から黒いマントを被った水蓮鏡は、もぞもぞと動いて顔を出した。肌が白いから、まるで顔だけ浮いているように見える。
「何をするのじゃ」
「それ、貸してやるから着てろ! ついてくるなら黙ってろ! オレは忙しいの!」
ぜえはあと息を切らしている姿を、水蓮鏡はじぃっと見ている。上から下まで眺めおろされては、なんだか居心地が悪い。
「な、なんだよ」
思わず両手で身体を隠した。
水蓮鏡は、なんともいえない顔でキラを見た。
「主、ひょろっちいのぅ……」
「ひょろっちい言うな――――!」
黒で統一された服。邪魔にならないように体に密着された服。仕事の一張羅だ。大きくなっても着れるようにと、少しサイズの大きい普段着とは違う。あんまり大きくなってない気がするのは、多分、気のせいだ。そう見えるのも服のせいだ。そう信じている。
それにしても、相変わらずここは異世界だ。キラは木の陰から出ないように、街灯に照らされた街並みを眺めた。きれいに並んでいる家に石畳は、下層部では信じられない光景だ。人が道で寝ていないのも、ゴミが落ちていないのも、死体が転がっていないのも。
昼前に行き交う人々が着ている物も、雲泥の差というのはこういうことなのだろうと、いつも思う。
黄ばみ、裾の短い、麻か綿の服が多い下層部の人間と違い、上流部に住む人間達は、薄いひらりとした美しい絹の装束を好み、布があまっていると見せ付けたいようなギャザーが大量にあしらわれた裾が多い。
そんなに布があるのなら、赤子を包む布すら調達できない人間に、そのスカートの襞分だけでも分けてやればよいのに。
ここでは空気さえも違う。
当たり前だ、蛆が沸くようなものがここにはないのだから。それら全ては、キラの住む下層部に流れ込む。そのゴミが無ければ、下層部の人間達は生きられない。それがたとえおかしいとしても、縋らなければ生きていけない。そして、この美しい街を整えるために雇われるのは、やはり下層部の人間だった。
「あー……疲れた」
「栄養不足ではないかえ? 何か食してゆかぬか?」
「こんな夜中に店なんか開いてるわけねぇだろ」
草木も眠る時間だ。わざわざその時間帯を選んでいるのだ。何故だろう。まだ忍び込んでもいないのに、とても疲れた。
「なんじゃ、そんなこと。ここに木があるではないか。運よく桃の木じゃ。春にはさぞや美しい花を咲かすのであろうな」
影を使わせてもらっていた木に、ひたりと手を当てる。まだ青々しい葉がついている。花など、だいぶ先のことだ。
「木だけあったって駄目じゃんか。実なんて、この前時期が終わったばっかだぜ」
どうせ道に落ちて腐っていっただけだろうが。
上の連中は、道端になっている果物など食べない。だからといって、下の者が上に来て取って食べれば汚らしいものを見る眼で見るか、機嫌が悪ければ半殺しだ。
キラも、下層部の子どもに例外なく半殺しにあった。そんな目にあっても、食料がなければ上に来た。来て、溢れ変えるきれいなゴミを漁った。どんなに汚らわしい目で見られようが、石を投げられようが、馬鹿にされても哀れまれても。
そうでもしなければ、生きてはこられなかった。そうしても、生きていけなかった子どもは溢れかえっている。
「木だけあれば十分じゃ」
「あ?」
その言葉の意味を聞き返そうと振り向けば、水蓮鏡は額を木に当てていた。
「……そう、ほんの一個でよいのじゃ。そなたの恵みを分けておくれ。ああ、妾の力を使うがよい。そうじゃ……いい子じゃのぅ」
閉じられていた瞳が開かれる。柔らかく微笑むその表情は慈愛に満ちていた。優しく、穏やかに、柔らかい。まるで母の愛のように。思わず見蕩れた自分に、慌てて首を振った。
「お前、何言って……はっ!? 頭でも悪いのか!?」
「失礼な童じゃのぅ」
「失礼は多大にお前だ」
「主じゃよ。全くひょろっちいのによく喋ることじゃ。まあ、よい。喋る気力もなくなった子どもなど、見とうはない。昔は、妾の祠の前で行き倒れになった子どももいたからの。酷い時代もあったのじゃ。みなが重なり合って飢餓に、流行り病に倒れた。子どもが妾の社で倒れなければ、妾はそれを知らんでおったのじゃ。あの時ほどぞっとしたことはない。ほれ、これを食すのじゃ、彼女が分けてくれたでな」
ぽとりと、キラの手にざらついた物体が落とされる。淡い色の桃だ。
ありえない。
どこからと視線を彷徨わせれば、キラのすぐ上の青々しい葉が、誇らしげに風に揺れた。
そんな視線を受けながら、水蓮鏡は凭れていた木を撫でた。
「少しな、分けてもらったのじゃ。賢い、良い子じゃ。次の年も見事な実をつけるじゃろう。一等綺麗な姿で咲くのじゃぞ。大丈夫じゃ、そなたは若いが、その分とても元気じゃからな。この並木の中でも、一等、一等美しい花を咲かせることが出来るじゃろうて」
水蓮鏡は愛おしそうに幹を撫でた後、未だキラの手の中にある桃に気づいた。
「なんじゃ、まだ食しておらなんだか。はようせんか。これから動くのじゃろう? それとも今晩はやめるのかえ?」
手の中にあるのは、瑞々しい、本物の桃。目の前にあるのはただの木。実なんて、なるはずもな青い葉。それでも、水蓮鏡の呼びかけにより、確かに桃が手の中にある。
恐る恐る齧ってみる。
「うまい…すごい……桃、だ…………ちゃんと」
「当たり前じゃろう。妾を誰だと思っておるのじゃ。妾に出来ぬことなどない。お父様の定められた事柄以外は」
すっ、と、水蓮鏡の顔から表情が消えた。だが、それも一瞬のことだった。
「ほれ、食したのならばそろそろ参ろう。闇に紛れるのならば早くしたほうがよい。そろそろ月が隠れる」
言葉通り、雲が空覆い始めた。なんて好都合! と、キラは意気込んだ。
「長くはなさそうじゃがの」
風が吹いて、再び雲が流れた。飲み込んだ桃が器官に入りかけて、咽た。
黒の屋敷は、その名の通り黒だ。壁も門も、門番が着ているものまで黒だ。そんなに黒が好きなのだろうか。とりあえず、不気味なことに違いは無い。
「ああ、やだやだ。金持ちの考えることは分かんないね」
門から離れて、真っ黒の塀を見上げる。そういう本人は、上から下まで真っ黒だ。
身体に密着させたポシェットの中から、七つ道具の一つを取り出す。
「じゃじゃーん。鉤つき縄――。この前の仕事のとき必要だったから、奮発して」
「ふむ、奮発して」
「作った」
「…………主、金子の手持ちがありはせなんだか?」
「可哀相なものを見る眼でオレを見るな」
作れるものは作ったほうが安くていいではないか。……分かっている、皆まで言うな。
「へへん、だ。見てろよ。手作りだって出来るところを見せてやる」
くるくると手持ちで回し、勢いをつけて高く放り上げる。鈍い音がして、上に引っかかったことを知る。二、三回引っ張り、しっかり引っかかったか確認する。
「ほら、見ろ! 手作りはいいんだぞ! 気持ちがこもるからな!」
「盗人行為に気持ちは必要なんじゃろか」
「やかましい」
縄を掴み、塀に足をかけてするすると登っていくキラを、水蓮鏡は感心したように見上げた。あっという間に上まで登りきった。
「お前、登れる? 無理なら引き上げるけど」
「なに、世話にはならぬよ」
にこりと笑い、手が縄にかかる。そして、浮く。
「へ……おまっ!?」
目の前でたるんだ縄を持ち、キラの隣に腰掛けた水蓮鏡は、呆けた表情に困ったように笑った。
「じゃから、主が妾を守らなくてもよいのじゃよ。妾が、主を守るのじゃから」
だからそこにいろと言われた。疑問符を飛ばす間もなく、長い黒髪が目の前を流れていった。
「しばしそこにおるのじゃ。なに、すぐ戻る」
「え、ちょっ、まっ! オレも行くって! つーか、オレが行くんだって!」
慌てて降りようとするキラに苦笑し、まるで幼い子どもに物言うように諭される。
「分かっておるよ。これは主の仕事じゃからの。妾はその手伝い、というものじゃ」
「だから、オレ本体行ってなかったら意味ないじゃんか」
長いマントを被ったままの肩が竦められる。
「やれ、聞き分けの無い子じゃ。犬がの、おるんじゃよ。よく訓練されておる。主が下りた途端、吼えて襲ってくるじゃろうな」
「げっ、犬!? そんな情報無かったぞ!? しかも昼調べたときいなかったし!」
「夜だけ放たれておるのではないのかの。大丈夫じゃ、妾がなんとかしてやろうな。それまでそこで大人しくしておれ」
白い顔が闇の中に消えていった。
しんっと静まり返った広い庭、の、塀、の、上は、とても寂しい。
こんなことなら自分で動いたほうがましだ。誰かに任せたことなんて無い。全部自分でやってきた。だから、待つなんて性に合わない。人と組んだことが無いわけではないけれど、全員、いつだって個人行動ばかりだった。組んだというよりは、情報の分け合いだ。
誰かを信頼して待つ、なんてこと、したことがない。
自分以外を信頼してしまえば、それがうまくいかなかった場合や、裏切られた場合の対処が遅れる。遅れてしまえば、それはそのまま自分の命の危機へと転じる。
はぁ、と、小さく息を吐いて落ち着けた。やはり自分も行こう。そのほうが幾らもマシだ。
犬への対策も一応準備がある。この前奮発して、山で取ってきた臭いの強い薬草を煎じたものだ。それを水に溶かしてきた。霧状にして、相手の鼻にかければもう大変。人間にだって結構きく。刺激臭を放つのだ。だから、臭いに敏感な犬は大変だろう。またたびも発見したから一緒に取ってきた。猫対策もばっちりさ!
分かっている。皆まで言うな。どうせオレのお手製さ。
動こうとした瞬間、目の前に顔があった。叫ばなかっただけでも、褒めて頂きたい。
「おまっ……なん、っ、お、お、」
「どうしたのじゃ?」
「お前、音しなかったぞ!?」
「なんじゃ、したほうがよかったのか?」
まさか。けれど、下は砂利だらけだったのに、その上を歩いていたはずの水蓮鏡の足音は一つもしなかった。犬と出合ったらしい騒動の音も、それこそ砂利の一つの音すらも。
「ああ、音が出ると問題であろう? じゃから、少しの間、音には遠慮してもらったのじゃよ。妾の音を、世界に発さないでおくれとな」
あっさりと告げられる、あまりといえばあまりな言葉に、視界はぐらりと揺れた。そのまま傾いていく体を回転させ、見事な着地を決める。着地した態勢のまま蹲っていると、水蓮鏡が不思議そうに寄ってきた。
「なんじゃ?」
「……お前、それ、なんでもありじゃんか」
「神じゃからの。世界への関係は、主達よりも濃い。そして脆弱じゃよ。じゃから妾は神なのじゃ」
「もう、訳分かんね……お前それじゃ最強じゃん」
がっくりと疲れ切った肩に手を置いて、彼女は夜空を見上げた。
「ほれ、もう行こうぞ。この屋敷、あまり長居せぬほうがよい」
「元々長居しちゃ駄目なんだって。潜入しただけなのに、オレ、なんでこんな疲れてんの」
ぐったりとした足を踏み出しても、砂利は何の音も発さない。砂利自体は動いているのに、音だけが伝わってこない。その奇妙さに鳥肌を立てながら、そぅっと歩いた。
「のぅ、キラ」
「何ですか――……」
あっという間に建物に辿り付き、窓ガラスにひたりと手を添える。粘着質な物質を塗りたくった布をガラスに貼り付け、音の出ないように叩き割る。
元々音が出ないのならば、張らなくてもよかったと気付いたのは、今だ。
「もったいな……これ作るの面倒なのに」
しょぼんとした。水蓮鏡はそんなキラを哀れみの目で見ている。
「可哀相なものを見る眼で、そんな眼でオレを見るなっ」
泣く泣く鍵を開け、窓から身体を滑り込ませた。
「この世界の犬とは、みなあのようなのかえ?」
「はい?」
質問に気を取られ、廊下に墜落した。できたこぶは猛烈に痛かった。
静まり返った屋敷の中は、物音一つしない。音なんて消さなくても、ふかふかの絨毯が足音を消してくれる。勿体ない。これを絨毯にするくらいなら、オレの布団にする。
「ちくしょう……痛い」
「すまなんだ。主があまりにも見事にすっころんだのでな。止められはせなんだ。すまんの。ほれ、額を出すのじゃ。妾が治してやろうな」
顔が近づいてきて、キラは凄い勢いで壁に張り付いた。
「結構だ!」
「ほれ、大声を出すでない。声までは消しておらんのじゃから」
慌てて両手で口を塞ぐ。そういうことは、早く言ってほしい。
「声を消せば、主が困るじゃろ? 妾のように」
『音以外で言葉を伝える術を持たぬのじゃから』
頭の中で、直接言葉が響いた。思わず頭を押さえて水蓮鏡を見る。
「人は不便じゃ。じゃからこそ、愛おしい」
「…………馬鹿にすんなよ。オレだって読唇術くらい心得てる。あんたが喋った唇の形で、何言ったかくらい読める」
「ほぅ、賢い子じゃのぅ」
「だ、か、ら、ガキ扱いすんな」
何が楽しいのか、水蓮鏡はにこにこ笑いながら、あい、分かったと言った。
絶対分かってないと思った。
屋敷は、外見だけでなく全てにおいておかしかった。一階はまだ普通だった。普通に部屋があり、廊下があり、装飾品があった。
だが、問題なのは二階だ。
長い廊下が一本、一階と同じように伸びている。なのに、部屋の入り口が一つしかない。後は、真っ黒な壁が廊下に続いているだけだ。
外から見れば窓が会ったはずの場所にも、壁が続いている。つまり、二階には外に繋がる場所がない。恐らく、外から見た窓ははめ込まれているだけのガラスなのだろう。
「うへ、気持ち悪。オレ、こんなとこに長くいたら病気になっちまう」
「そうじゃの。風の加護がまるで受けられぬ」
「そんなもの受けた覚えはオレもねぇ」
依頼人の取ってきてほしい情報は、この二階のものらしい。
「確かに、気になる。猛烈に気になる。こんなへんてこな建物の構造、しかも二階が秘密にされてたら尚更。気になる。が、オレだったら関りたくはないね。オレは穏やかに人生を終えたいんだから」
黒い扉を少しだけ開き、中を覗く。人がいないことを念入りに確認した後、そろりと隙間から身体を滑り込ませた。窓がない為に、月明かりは望めない。僅かな明かりもないから、用意してきたロウソクをつけようとしたが、ふと気がついた。
真っ暗闇を、よどみなく歩いているやつがいる。
「……見えるの?」
「妾の前で、闇は無意味じゃからの」
「…………こんな時こそ、助っ人がいると思うんだ、オレは」
「まあ、妾じゃと、タダ、というものじゃからの。よいよい、ほれ」
水蓮鏡は、首飾りの勾玉を一つ引き抜き、放ってよこした。それは、仄かな光を放っている。明かりが小さすぎる、と、思った瞬間に、キラの周囲を照らすほどの光を放った。
眩しさに細めた視界の両端に、聳え立つ影が続いていた。
部屋の中は、端から端まで本棚で埋め尽くされていた。黒い本棚に、これだけは黒くない本が、所狭しと詰まっている。それは床にまで続き、倒れた本の山で足の踏み場もない。
「うへぇー。なんだよ、これ。本しかないじゃん。つっまんねーの」
げしっと、一冊蹴ってみた。危ういバランスで成り立っていた山が、ぐらりと揺れた。慌てて体全体で止めた。が、上から一冊降ってきた。
思わず目をつむったが、それは白い指が受け止めて、キラに降ってこなかった。
「これ以上、主に瘤はつけられぬからの」
水蓮鏡は、興味なさそうに本を捲っている。その間に、部屋中の壁や床を調べてみたが、特に変わったことはない。どこかに通じる隠し通路もない。全然無い。つまんない。
「なんだよ、これの何が秘密なんだよ」
平和なのが一番だが、ここまで穏やかな結果だと、少し拍子抜けだ。まあ、仕事が楽に越したことはないのだが。
水蓮鏡は、さっきまで流し読んでいた本をキラに投げて、自分は本棚を眺め始めた。床に倒れている本も時々拾い上げ、開いている。
「主、字は読めるか?」
「へ、あー、読める。昔覚えた。覚えなきゃ、依頼人に騙されるからな」
「そうか。さて、読めるのならば、その本を読んでみ?」
「こんな短い時間で読めねぇよ」
「内容の把握だけでよい。それから、そこらにある題名、じゃな。どれも同じじゃ。秘密の内容は多分、これじゃろう」
呆れたように、水蓮鏡は本を足の先でつついた。
首を傾げながら、目次を呼んでみる。手元は、勾玉の明かりだけで充分に明るかった。
最初は水蓮鏡と同じように呆れた様子で読みながら、足元を見た。次に隣りの本棚を見た。本の山を見た。段々、呆れが気持ち悪さに変わっていく。
「なんだよ、これ……。まじで、やってんの」
「じゃろうな。戯れだけで、この量を集めあることはせんじゃろ……愚かな者どもじゃ」
その物言いに、愛しさはなかった。哀しさも。いっそ冷徹さを混ぜた瞳が、闇の中に浮かんでいる。キラは、背筋を通る悪寒を消せなかった。
「だって、不老不死なんて、出来るわけないじゃん! ばっかじゃねぇの、こいつら!」
キラの手元にあるのも、足元に転がっているのも、部屋中を埋め尽くしているのは、ありとあらゆる命の知識だった。それは、医学的なものからオカルトじみたものまで。
ピンからキリまでだが、共通しているのは、全てが死を失くすためのものだった。
あり得ない。こんなことを本気で研究している奴らがいるのだろうか。無理だ、あり得ないと、子供だって知っているし、願いなどしない。それを金持ち共は本気で信じているのだろうか。
叫んだ後、はっとなって水蓮鏡を見た。彼女は苦笑した。
「出来ぬよ。じゃが、ありえんことでもないのぅ。妾のように端からそういうものとして存在した者。神に愛された者。神により、世界の安定に必要と判断された者。神より承った者は、元から不老でなくともなれる。不死にはなれぬがの。不老不死とそち等が表現する存在は、妾達にもあり得ない。妾達には、死がないのじゃから。不老と不死を同じと考えるのはやめておくのじゃなぁ」
キラには信じられなかった。こんなことを本気で信じているものが。いま、水蓮鏡が言った事が事実だとしても、それを自分が授かると思っているのだろうか。自分に関係がある話だと思っているのだろうか。
それとも、貴族や金持ちには誰もが当たり前に夢見ることなのだろうか。それほど現実味のある話なのだろうか。
自分達とは、それほどに生物としてさえも、何か、どうしようもないほどの差があって、彼らは願えばそうなれるのだろうか。だからこんなことを本気で調べているのだろうか。
明日の命さえも覚束ない自分達とは違い、永遠を願えるほどの権利を、彼等は持っているというのだろうか。
奥が見えないほどの遠くまで続く本棚を見て、気持ちが悪くなった。ここはそんなに、キラとは異なるものが集まっている場所なのだろうか。上の住人達は、そんなにも自分達下の住人とは異なる存在なのだろうか。同じ、人ではないのだろうか。
ぽんっと肩が叩かれた。
「いつの世も、どこの世でも、不老を不死を、願う輩は存在するのじゃよ。それは共通じゃ。じゃからこれほどの書物が存在しておるのじゃろう。じゃがの、夢見て、それで終わりじゃ。こういった事柄はどこでも溢れておるじゃろ? 長生きが出来る、寿命が延びる、万病の薬、若さを保てる。それらは全て同じ願いの元から溢れた。じゃが、みな知っておろう。それらが偽りである事を。それでも心の隅で願ってしまうのじゃろう。哀れな事じゃ」
肩を竦めた水蓮鏡が本の上に立っている。本は、その存在がないかのように、崩れない。
「主らはみな均等じゃ。身分や金で差をつけようとしておるが、妾から見れば何も変わりはせぬよ。心根は違うじゃろうが、人間として生まれてきた主らの格式に、なんの変わりはありはせん。所詮こやつらの目論見もただの夢じゃ」
ふわりと、目の前に顔があった。
「これも所詮、夢じゃ。夢を見るのは主らが専門であろう。幾らでも見るがよい。じゃがのぅ、叶わぬと知っておる夢を、いつまでも追うのはどうじゃろうなぁ。いつの世でも、この夢は共通らしいの。終わらぬ命はそれほどまでに心うつものらしいの。妾にはそれほど良いものとは思えぬがの。主のように必死に毎日を生きる様を見るほうが、妾は好きじゃよ」
多量の本の上に立ち、水蓮鏡は微笑んだ。それは憐みを含んだ慈愛のように見えた。
「ここにいる者共は、みな一人なのじゃな」
「なん、で、んなことが分かるんだよ」
「一人でなければ、このようなものに縋るものか。愛しい者に遺されて生きることを望むものなどおらぬ。望むもののない世で、一人生きてなんになるのじゃ。それでも不老を望むのは、それ以外に望むものがないからじゃ。人としての世に、繋ぎ止めるものがないからじゃ。その者は、きっと、この世のどの命も愛しくはないのじゃろう」
キラには、分からなかった。
自分も決して孤独でないとはいえない。寧ろ、天涯孤独の身の上と呼べるだろう。
死んだって誰も悲しまないし、困らない。ああ、あいつ死んだのかと、きっとそれで終わるだろう。
キラだって今までそうしてきた。煙突掃除の奴が落っこちて死んだってさ、へぇー。何でも屋がとちって死んだとさ、へぇー。あの家の美人、病死したってさ、あっそー。それだけだった。
別に、誰が死んだって変わらない。ここは、そういう街だ。
誰とも繋がらない、誰にも頼らない、誰も愛さない。そういう人間はごまんといる。キラも、その中の一人だ。誰に遺されても哀しいなんて思わない。遺していく人間すらいやしない。知り合いが死んだ事など、日常茶飯事だ。
けれど、どうでもいいのだ。
寧ろ、生き残った自分を褒めてやりたい。死んだのは、失敗したか馬鹿やったそいつらの責任だし、自分はそうではなかった。今日も生き延びた。死ぬのは嫌だ、だから毎日頑張るんだ。けれど、不老不死になんて、なりたいとは思わない。
深く息を吐いて、足元の本を踏みつけた。
「バッカバカし。長く生きたって、いいことなんてそんなにあるもんかね。オレみたいな貧乏人には分かんねぇよーだ」
毎日を生き抜くことに精一杯で、気の遠くなるような未来のことまで考えない。
いつだって、明日のパンのほうが重要だ。
「それでいいのじゃよ。さて、幾つかの題名を写し、撤収しようではないか。これ以上ここにおってもつまらぬじゃろう。妾とて面白うもない。こんな書物を幾ら読んだところで、妾に何の得もありはせん。無論、主にもな……このような書物で願いが叶うのならば、誰も泣きはせぬよ」
早く帰りたい一心で、本の題名を書き写していたキラには、その小さな呟きは聞こえなかった。
しばらく、ペンを動かす音だけの部屋で、腕を組んでいた水蓮鏡がぴくりと動く。水のようなたおやかさで、名を呼ばれる。
「主は豪快と穏便、どちらが好みかのぅ」
「んー……え?なんだよ、それ」
ぴたりとペンを止めて、水蓮鏡を見ると長い袂で口元を隠している。こういう仕草をよく見かける。癖なのかもしれない。
そのまま、伺うように視線を向けてくる。
「主はどちらを好む達じゃ?」
「そりゃまあ、オレは穏便が大好きさ。何事も、目立たず静かにさようなら! それがオレの主義だし?」
「そうか。じゃが」
すたすたと歩いてきた睡蓮鏡は片手で壁に触れ、片手でキラの手を握った。
「目立たず、というのは少々難儀じゃ。諦めておくれ」
「はい?」
この時ほど水蓮鏡と一緒にいたことを感謝した事も、後悔した事もない。
突如扉が開き、黒い覆面をした男達が雪崩れ込んでくるのと、水蓮鏡が触れていた壁に皹が入ったのは同時だった。それに怯んだ男達と、叫び声を上げたキラもまた同時だった。
眼を瞠った。瞬時の状況判断能力が優れていなければ、今まで生きてこられなかった。だからそれには自信がある。けれど、自信はあっても理解は出来ても、ついていけないこともあるのだと初めて知った。
闇の中で白い線が音と共に向かってくる。銃声も聞こえているから、これは銃弾だと判断した時には既に、キラの身体は宙だった。
「でぇえええええ!?」
「やれ、騒々しい子じゃ。あやつらもあやつらじゃ。なんと物騒なモノを持ち出すのじゃ」
音も無く、水蓮鏡は地に降り立った。キラは息も絶え絶えに地面に手をついた。しゃがみ込んでいるだけでは、足元が心許ない気がした。自分の意思で飛び降りるのと、いつの間にか飛び降りさせられていたのでは心構えが違う。
未だにぐらぐらして、ちゃんと地面に下りているのかを確かめたかった。
砂利を踏む音が慌しく聞こえてきた。当たり前の音なのに、久しく聞いていなかった。
あっという間に、周りを銃を持った男達が取り囲んだ。全身黒尽くめで、顔の覆面も黒だ。闇に紛れて何人いるのかも分からない。
反射的に飛び起き、水蓮鏡の前に立った。銃を持っているということは、ここは相当身分のある者の屋敷だ。銃なんて高価なもの下層部には出回らないし、国の許可を取るだけでも相当の時間と手間が掛かる。
「……犬はどうした」
「それが………………」
ぼそぼそと話し声が届く。異様な集団であっても、人なのだと認識したため、幾分気持ちが楽になった。
「……なあ、お前、犬どうしたんだよ」
「少々、な。おいたをせぬようにねんねしてもろうた」
「へー……」
深くは追求しないでおこう。
周囲を取り囲む男達は、発砲してこない。輪を縮めてこないことから、こちらの動きを警戒しているのが分かる。
キラ達を囲む輪の一部が割れる。ちらりと視線をやれば、同じような服を着ている集団の中で、一人だけ違う形の服を着ている男が出てきた。長い黒衣を着ている。白衣を黒くしたような感じだ。顔を覆う黒い薄絹のようなものを垂らしている。
「どこの子鼠だい。こんな夜更けに、迷惑だねぇ」
男は、気だるげに声を出した。
「僕の可愛い犬達にいたずらした? 眠らせて、何をしたのかな? 変質者だねぇ。いけないねぇ……君達も、同じにしてあげようか? いたずらは、したほうは忘れてもされたほうは覚えてるって、教えてあげようかぁ」
間延びした声は、緊迫感の欠片もない。だが、キラは背筋に何かが走ったのを感じた。
純粋に、気持ちが悪いと思った。
「……犬になんかいたずらするわけねぇだろ。てめぇこそ犬に変な感情持ってるから、そんな勘ぐりすんだろ、バカ」
ぴくりと、男が肩を揺らした。
「僕に、僕に向かって馬鹿って言ったなぁ!?」
「ばかばか、ばーか。気色わり」
ぶるぶると男の身体が揺れる。男にしては甲高い、裏返ったような声で男は叫んだ。
「ころ、ころ、殺してやるぅ!」
急変した態度と声に、キラは少し怯んだ。
「なんだよ、あいつ。何で怒ってんだ!?」
「さぁて、のぅ」
隣りにいた人間から銃を奪い取り、男はキラに銃口を向けた。
「やばっ!?」
「挑発などするからじゃ。やれ、仕様のない子じゃ」
夜の闇を切り裂くような銃声が、キラへ向けて放たれた。思わず目を閉じる。
戦闘の中で目を閉じるのは命取りだと知っているのに、反射的に瞑ってしまった。
ああ、これで終わった。目を閉じちゃ駄目だって分かっていたのに、なんで閉じちゃったんだろうなと、ぼんやり思った。
ああ、やだな、死にたくないなぁ。不老不死なんていわないから、せめてもう少し生きていたかった。じいさんにまでなれなくてもいいから、せめておっさんくらいにまではなりたかった。
自分のおっさん姿を想像して、ヨンパみたいには絶対なりたくないと固く思ったところで、周囲が騒がしい事に気がついた。
恐る恐る目を開ける。目の前には真っ黒の闇があった。
地面に尻餅をついていた手は、砂利で痛みを訴えている。けれど、他はどこも痛くはない。血もない。
首を傾げて視線を上げ、目の前にあるのが闇ではなかったと知った。息が止まりそうだ。
「おまっ、ばっ……!」
「怪我はないかのぅ」
「お前、オレを庇ったのか!?」
目の前に立っているのは、キラのマントを被った水蓮鏡だ。フードを深く被ったまま、片手だけを男達に向けている。
「なに、妾にこんな鉛玉、届きはせぬよ」
伸ばされた手の前に、銃弾がある。宙に止まったままのそれに、男達がざわめている。
「さて、そこな」
呼ばれて、銃弾を放った男がびくりと水蓮鏡を見た。
「おいたが過ぎたのはそちじゃ。この狂気、この子に放ったは許さぬ。じゃが、今宵の無礼は妾達のほうじゃて。ならばここは双方水に流そうではないか。妾は何もせずに帰ろう。じゃから、そちもこのまま褥にお戻り」
銃弾が砂利の上に落ちていく。水蓮鏡は呆然としているキラの腕を掴み、前に出していた手を空に向けて掲げた。親指と人差し指だけ広げられた白い手は、闇の中でも光って見えた。
「今宵は、これにてお開きじゃ」
瞬間、キラは自分の目がおかしくなったと思った。水蓮鏡が覆いかぶさってきたのか、それとも突如気を失ったのか、分からない。だって、目の前には何もなかった。
自分の意識ははっきりしている。なのに、何も見えない。
恐慌状態に陥りかけた。それは黒尽くめの集団も同じだった。あちこちで叫び声と、誰かが何かにぶつかる音とうめき声が聞こえる。
「どこに行ったぁ! 探せ、殺せ! 僕を馬鹿にした奴らを、このまま逃がすなぁ!」
一際金切り声で叫ぶのは、さっきキラを撃った男だと分かった。彼等に比べれば自分は冷静だと思いながらそろりと腰を浮かせた。幸い音はしない。このまま離れようと思っていたが、頬を掠った痛みで動きを止めた。
「うわああああ!」
悲鳴を上げたのはキラではなかった。
「あいつら同士討ちしてんのか!? 馬鹿だろ! 視界ねぇなら、飛び道具なんて使うなよ!」
ぬるりとした感触が頬を伝う。慌てて障害物になるものは探したが、己の体さえ見えない闇の中では、そんなものを探すことは出来ない。ますます恐慌状態に陥っていく男達は、自分達の武器で互いを傷つけている。
銃声がますます激しくなり、足元で火花が爆ぜた。思わず一歩下がれば、頬にふわりと何かが触れた。
「やれ、すまなんだ。人がこれほどに闇に弱いとは知らなんだ。キラ、後三歩お下がり。そうしたら右に寄っておいで。そこに塀があるでな、そのまま伝えば門じゃ。門は開いておる。じゃから先にお戻り」
優しい声がした。
「お、お前はどうすんだよ」
「妾はこの阿呆どもを止めねばならん。まさか、ここまで怖がるとは思わなんだ。このまま無闇やたらに鉛玉を放たれては、草木だけではなく、キラ、主にまで当たってしまうじゃろ。人は知識を得る代わりに、時に草木よりも脆く儚い。ほら、お行き。妾も後からゆく。あの崩れ欠けのほったて小屋でよいのじゃろう?」
「…………………………そこまで言うか」
笑う気配が伝わってきた。手が離れていく。
「ほれ、先にお行き」
声が離れていく。慌てて手を伸ばしたが、それは宙を切った。
水蓮鏡がたてる音は、声しかない。だから、視界の利かない闇の中では、キラに彼女を追う手立てはなかった。
闇の中を睨みながら唇を噛んだ。そして、言われたとおりに足を下がらせた。手に、ざらりとした壁の存在を感じる。見えなくても、音がしなくても、ここは確かにさっきまで見ていた空間なのだとほっとした。
一度だけ後ろを見て、闇しかないのを思い知った。キラはそのまま足を進めた。
「さて、無粋な連中じゃ。互いに水に流そうと言うに、妾の言う事が聞けなんだか」
突如目の前を覆った闇の中、男の傍で声がした。よく響く声だった。男は自分の顔を覆っていた薄絹を捥ぎ取っていた。それでも、やはり何も見えない。
「僕、僕の目に何をしたぁ!」
「何もしてはおらぬよ。ただ、闇を深くしただけじゃ。何を脅えておる。ここはそちの庭じゃろうに」
やはり傍で声が聞こえる。それなのに何も見えないのだ。それでも響く鈴の音に、ほんの少しだけ冷静さが戻ってきた。
他の面々もそうなのか、銃声が少しずつ収まってくる。りんっと鈴の音が鳴り響く。その音がひとつ、またひとつと響くたびに、心が落ち着きを持ち、思考を取り戻す。
「やれ手間の掛かる連中じゃ。己が庭で何を脅える。ここはそちらの庭じゃ。何も変わりはしておらぬ。ただ夜を深くしただけじゃのに、それだけで互いを傷つけあうでないわ。月明かりがないと、それほどに怖ろしやかなものかのぅ」
またひとつ、鈴が鳴った。透き通ったその音は、どこから鳴っているのか判断がつかない。声もまた同じだった。
「お前、なんなんだっ。僕にこんなことをして、ただで済むと思ってるのかぁ!」
「そちに名乗る名はない。じゃが、そうじゃの。少しだけ言の葉を残そうか」
男のすぐ耳元で、少女の声がした。びくりと身体を震わせた男の肩に手が置かれる。耳元に息がかかると同時に、ふわりと花の匂いがした。
「あまり、神の領域に興味をもつでない。あれはそちが踏み込んではならぬ領域じゃ。……犬は少々、行き過ぎたようじゃな。過ぎる行為は汝が身を滅ぼすぞ」
「何をっ、僕は大丈夫だ!」
「過ぎた自信も、な。そうして焼かれるのは汝の魂じゃて」
くすりと笑う気配と共に、闇が一瞬にして姿を消した。
真夜中の闇はそのままだが、視界は戻っている。薄くなった闇は、いつもの夜の風景を作り出している。陰が延び、ベールを被ったような庭だ。先程までの、自分の体さえ見えないほどの濃密な闇は、どこにもない。
同時に、そこにはもう、侵入者の気配は欠片も残ってはいなかった。