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2.橋の下の神様






 そんな感じに始まった自称神様との生活を、オレは早速悔やんでいる。


「そこに直れぇえええええええ!」


 ぼろぼろの小屋が崩れそうなほどの大声で、キラは叫んだ。その前では、小汚いベッドに腰掛けた水蓮鏡がいる。


「水蓮鏡! 何度も言うけど、ベッドでは靴を脱げ! 物を食うな! ついでにそれはオレのパンだぁ!」


 水蓮鏡は、汚いベッドの上で足を崩して、固いパンを齧っていた。固い故にぽろりと零れ落ちる破片がたまらない。文句を言えるほど綺麗な部屋でもないし、寧ろその逆である。だが、敢えて汚される云われもないはずだ。

 キラの怒声に水蓮鏡は気にした風もない。最初の従順さはどこにいった、ちくしょう!


「これだけ汚れているに、僅かな汚れを気にするのか? 人はよく分からぬの。こんなちっぽけな汚れより、長年経って朽ち始めている小屋全体のほうが余程問題だと、妾は思う」

「うるせ。こんなのだってオレの城なんだ!」

「いま、己でこんなのって言ったぞよ」

「黙れこんちくしょう! ぞよじゃねぇよ、ぞよじゃ! あんたオレが最初に言ったこと全部見事にすっかりすっきり忘れてるだろう!」


 水蓮鏡は、ふむと指を口元に当てた。


「覚えておるぞ。妾は愚かではないからのぅ。じゃが、聞く気がないだけじゃ」

「余計悪いわ、ボケぇ!」


 投げつけたぼろぼろの枕は、整った顔に届く前に音を立てて弾かれた。そのまま床に落ちそうになった枕は、それ以上汚れることなくその場にあった。

 見えない力で枕を弾き、宙で浮かせている張本人は、つまらなそうに床を見た。


「………………ほんに汚い」

「やかましい。枕返せ。それオレの」


 手も使われず飛んできた枕を受け止めて、キラは再度ため息をついた。この見たこともない力に驚いていたのは最初だけだ。今ではすっかり慣れてしまった。

悲鳴を上げて小屋を駆け出したのも最初だけだ。現在は、パンが飛んでこようがベッドが持ち上がろうがびっくりしない。寧ろ物を取ってもらうときに便利だなぁと思ってしまう自分がいた。彼女が宙で浮かんで眠ることに動揺しすぎて、慣れたベッドの上でも眠れなかったのも、最初だけだ。

 水蓮鏡はキラのベッドの上の上、宙で己の足を伸ばした。その足に、土汚れなど欠片も見当たらない。


「この世界の分子が、妾を穢せるとは思わぬことじゃ。妾が良しとしなければ、仮令微かな土埃でさえ、妾に触れられるはずもない」


 言葉通り、これだけ汚いボロ小屋にあって、水蓮鏡の真白い服に汚れはない。地面を歩いているはずなのに、靴にも欠片の汚れもない。


「じゃから、ベッドは安心するがいい」


 胸を張った少女に、なぜか少々腹が立った。

 キラは勢いよく、拾ってきた椅子に座った。リサイクルだ、エコだ。貧乏だからでは、決してない。みしりと音をたてて、木片が落ちた。これもそろそろ変え時かもしれない。既に落ちた木屑は数知れずだ。

 思った瞬間、椅子の脚が折れた。空気椅子は、とてもつらい。


「だったら、あんたの服についているその黒い沁みは何だよ。オレは信用しねぇからな! オレの唯一の憩いの場、ベッドを汚したら容赦しねぇかんな!」

 透き通るほど真白い衣装に、じわりと沸いている黒い沁みを指差せば、水蓮鏡はきょとりとした。その動作に、りんっと鈴が音をたてる。さらりと飾り紐が揺れて、髪が靡いた。

「汚れ? 妾に?」


 目をぱちくりとさせ、水蓮鏡はキラを見ている。本当に分かっていない様子に、キラも首を傾げた。


「だって、あるだろ? それ。ほら、そこ。あ、違うって、そうそう。袖の下の方。あんた着てる服が白いから、なんか目立つぞ」


 示されるままに視線を落とした水蓮鏡は、己の服に存在する黒い沁みに、目を丸くした。

 まるで子どものような顔で、きょとりとキラを見た。キラは一口水を飲んだ。


「なんじゃ、これは」

「だーかーら、オレが聞いてるんだって」

「じゃが、妾の衣装が汚れるなぞ、この三千年、ありはせなんだ」


 ぶはっ! 凄い勢いで水が噴き出た。


「おまっ、お幾つですか!?」


 取り急ぎ、そっちのほうが重要問題だ。


「妾は存在して三千年ほどじゃな。そういえば、そちは随分と若いの。齢は幾つじゃ?」


 どこから驚けばいいのか分からない。


「十五ざますぅ…………」

「なんじゃ、若いとは思うておったが、それほどまでじゃったか。人の子は分からぬのぅ」


 がっくりと力が抜けるままに椅子にへたり落ちた。在り得ないことを次から次へと行なった挙句、さらりと超年齢を暴露してくれた見た目美少女、年齢超高齢者に驚けばいいのか、脱力すればいいのか分からない。

 とりあえず、どこまでも古めかしいのはその所為かと、どうでもいいことだけ納得してしまった。





 真夜中、キラはふと目を覚ました。服の中に手を突っ込み、ぼりぼりと胸をかく。

 布を取って下りた髪は、姿を幼く見せていた。ベッドの上でぼーっとする。

 視線をやれば、宙で水蓮鏡が眠っている。まるで心地よい寝台に寝転んでいるかのように丸まり、穏やかな表情で寝入っていた。

 何でこんな時間に目が覚めたのだろう。橋の下にいればよくあることだが、今日は別に橋を誰かが通って目を覚ましたわけでない。元々眠りは浅いほうだ。深く熟睡していて、目が覚めたら色んな意味でやばい状況になっていたことがよくあった。そういうことの積み重ねで、人の気配にも敏感だ。

 けれど今日は何もなさそうだ。念のために小屋を出て周囲を見てみたが、特に変わりはない。対岸にはいつものように浮浪者が溜まっているだけだ。

 お互いに侵犯しないことでここの暮らしは成り立つから、特に気にしない。どうせ全員酒を飲んで深く眠っている。

 足の裏で脛を掻いて、少しだけ川を見ていた。月がきれいで、川にもよく映っている。


「寝るか」


 ふあと欠伸をして川から視線を外したが、再度大きく振りかぶって川を見た。

 比較的きれいなこの川に、キラは鏡のようによく映っていた。月もしかり、きれいに映っている。

 問題はそれじゃない。その月から転々と、何かが軽やかに下りてくる。

 オレは普通に暮らしたいんだ。穏やかに、目立たずに、至極穏便がモットーだ。それなのに、もう勘弁してください神さま!


 月から軽やかに下りてきた少年は、ふわりと水の上に降り立った。

 どこかで見た光景だ。

 少年は、何色とも判断のつかない髪と瞳をしていた。銀にも見えたし、紫にも見えたし、金にも見えた。キラよりも五、六歳は年下だろう。人間であれば、の話だが。


「……どうしてあんたらは水の上に降りたがるんだ!」


 どうして自分はこんな非日常に、連続して会わなくてはいけないのだという叫びは、とりあえずは秘めておく。

 少年は、そんなキラの視線の先でうーんと背伸びをした。話しを聞いてほしい。


「そのほうが人ではないと分かりやすいだろ? だから俺はそうしてる。あ、あの子は違うぞ、あの子は、水が好きなんだ」

「あいつの知り合いかよ…………」


 しかも、超高齢者をあの子と言った。

 帰ってくれませんか? いや、マジで。


「そうだよ、あんた連れて帰れよ! 来れるなら帰れるだろ!? はっ!? まさか、あんたまで帰れなくなったとか言わねぇよな!?」

「帰れるよ」


 少年は、比較的キラ達に近い服装をしていた。それだけでも水蓮鏡と違う。

 少年はにっこりと笑った。その笑顔にほっとした。


「俺は、な」

「なんっ!?」

「あの子、可愛いだろー? 俺の自慢の娘なんだよな。それを泣く泣くお前のところにやったんだから、感謝してくれよ」


 つらつらと語られても、キラの堪忍袋が切れるだけだ。


「っざけんなぁ! 連れて帰れ、今すぐ帰れ! 勝手に押し付けといて何が感謝だ! あいつオレのパン取ったんだぞ!?」


 少年は驚いたような顔をした。そうだ、あいつのした悪行を知れ、そして連れて帰れ!


「そうか! 食べる元気があれば大丈夫だな!」

「そっちかよ!? オレの都合は全無視か!」


 少年は胸を張った。


「お前よりあの子が大切に決まってるだろ」


 殴っていいですか? いいよね? 

 拳を握り締めたが、立っている位置は、微妙に手が届かない。水にはいれば何とかなるかもしれないが、この川はさり気なく水量が多い。しかも、着替えがない。

 ふるふると震えるキラをほっといて、少年は溌剌とした笑顔を浮かべた。


「いや、よかった。心配してたんだ。まあ、その様子なら今は大丈夫だろ。今はあの子帰れないから、一緒にいてくれな。いずれ時期が来たら会いにくるから。それまで宜しく!」

「おい!」


 言うだけ言って、少年は再び宙に浮いた。だが、キラはあまり驚かない。今なら兎が月から降りてきても驚かない気がする。

 その点だけは水蓮鏡に感謝だ。だがこんな耐性、別に要らなかった。


「頼むよ。俺の力じゃ、どうしようもなかったんだ。力だけじゃどうにもならない事があるんだよ、坊や」

「あんたほんとにあいつの仲間だな!」


 やっぱり一発殴る!

 だが、少年に、後ほんのちょっと届かない。どうして手が届かないと諦められる位置にいないんだ。余計に腹が立つ。


「お前もおやすみ。あの子に俺のこと言うなよ? ちょっと様子見に来ただけだから、さ」

「てめぇ、今度来たときは殴るからな! っていうか、もう来んな!」


 怒鳴るキラに、少年はすっと指先を口元に当てた。その仕草は、水蓮鏡とよく似ていた。


「静かに……あの子が起きてしまう。安息の眠りなど、ほとんど得られたことがないのだから、眠らせておあげ」


 安らぎの中にある悲哀に気付き、キラは口を閉じた。少年は微笑んで天高く飛んだ。


「いい子だ」


 最後の一言は、心底余計だと思う。











 同居、と本人は言い張っているものの、まるで寄生だとキラは思っている二人での暮らしを開始して、早三日になった。

 その間、キラはほとんど小屋から出なかった。前回の仕事で懐は温もっていたし、金額に比例して身体は疲れていたし、仕事も特になかったし。

 何より予定外にも程がある事態に叫び疲れていた。

 水蓮鏡はというと、同じように小屋から出ることはなかった。

 物を食べる事も稀だった。理由は、まずいということだ。悪かったなと膨れれば、別に食べても食べなくても特に問題はないが、興味本位で食べているという答えに、枕が飛んだのはつい先日だ。

 薄汚れた小屋の中で過ごす水蓮鏡の服も髪も、一片の汚れも追加されていない。元からあった真っ黒な染みだけだ。

 その染みに、水蓮鏡はしきりに首を傾げていた。原因がさっぱり分からないらしい。

 指を舞わせて、光を放ってみたり風を吹かせてみたり、水を弾けさせてみたり。キラには見当もつかない力を使って、いろいろな方法を試みたらしいが、結局真黒い染みが消えることはなかった。染みは未だそのままだ。

 そんな風に過ごした三日間は、結構騒がしく、結構呑気で、結構忙しなかった。

 だが、それもそろそろ終わりだ。

 キラだって暇なわけではない。金を稼いで、明日のパンを買わなくてはならない。少々の蓄えがあったとしても、明日何があるかわからない。一瞬でも休むと飢え死にしてしまう者よりは余裕がある。けれど、遊んで生きるほど何かの保障があるわけでもない。

 困っていたら、行き倒れたら、優しい手が下りてくるわけではない。見返りを求めない純粋な親切なんて、早々転がっていない。

 行き詰れば、死に物狂いで頑張らなければならないし、死ねばそこまでだ。他者の優しさで腹が膨れれば、ゴミ溜めの中にごろごろいる子供達は、孤独に餓死などしないだろう。

 どんな御託を並べても、要するに、働かないと生きていけないわけで。


「つーわけで、オレは仕事に行ってきまっす」


 鏡なんてこじゃれた物はないので、勘だけで髪に布を巻いていく。中途半端に伸びた黒髪が首にかかって、少しうっとうしい。


「そうかそうか」


 水蓮鏡はにこにこと笑っている。


「外に出るのは初めてじゃ」

「連れてかねぇぞ!?」

「何故じゃ」

「当たり前じゃ――!」


 馬車が通り、天井から埃が降ってきた。


「オレは忙しいの! お前なんか連れてく暇ないの! おとなしくここにいろ! オレはお前みたいな変なの連れて目立ちたくないの! 噂とか情報とか、流れるのは早いんだよ」


 キラの仕事は万屋だ。自分で言うのも何だか、結構腕がいいと評判だ。

 だから、危ない仕事もする。ばれたら首が飛ぶようなこともした。こんなボロ小屋だが……いいさ、認めよう。そうさ、オレの自慢の城はボロ小屋さ!


「オレはでかい仕事だってやるし、家がぼろいのはいつでも捨てられるからだ! 現にオレはちょくちょく寝床を変えてるんだ」


 全部橋の下だが。

 住める川を探すのは骨だが、街中は嫌いだ。場所問題がうるさいし、家で住んでる連中は更にうるさい。素性の知れない奴のテントが張られるのをとても嫌う。

 言われなくても、食べ物求めて扉を叩く幼子に、蹴りを食らわすような奴らに近づいたりしない。目の前で捨てられるほど余った食料を、餓死していく人々に投げつけて遊ぶようなガキを育てるような奴らに、頼まれたってお近づきなんかにはなりたくない。


「それに、オレといたら情報屋とかなんとかが、お前のこと調べるぞ。もしかしたら、商売敵に情報売るかも。あー、そういやオレ、前にそれやられたんだよな……。依頼人のお嬢さんだったのに、あれでオレは大口の仕事逃したんだった! ちくしょう! スレッグのやろう、今度会ったらぶちのめす!」


 思い出した過去の出来事に、情報屋スレッグを一発ぶん殴ろう。

 水蓮鏡は、不思議そうに首を傾げた。


「妾は困ることなど一つも無いぞよ」

「…………そうでした」


 自称異世界の神様なので、この世界での人間関係などのごたごたや、お家騒動も全く無縁だった。それを考えれば、別に連れてってもいい気がする。


「いやいやいや、ダメだ、オレ。こいつは歩く面倒だ! 既にオレのパンを取った!」


 あれが最後の一個だったのに。しかもまずかったらしい。殴りたい。オレは男女平等なのだ。でも、加減はするぞ。


「主は妾を連れていかねばなるまいぞ?」

「はぁ?」

「妾は主の魂を間借りしておる。主が行くなら妾も行く。当たり前じゃ。それに、妾は主の守護を約束した。神は約束を破りはせん。契約じゃ。人とは違う。神の言葉は絶対じゃ」


 水蓮鏡はまっすぐにキラを見ている。その瞳に揺れは無い。


「……じゃあお前、嘘、ついたことないのかよ」

「無いぞ」

「それこそ嘘じゃねぇか! 嘘をついたことの無い奴なんているもんか!」


 嘘をついたことの無いというウソツキを、たくさん見てきた。

 誤魔化しも虚勢も張らず、真実だけで生きてきたことのある奴などいるものか。もしもそんな奇跡のような存在があるのならお目にかかりたいものだ。どうせ、そんなお綺麗な存在は、既に死んでいるだろうが。

 正しさだけで生きられるほど、世界は優しくはない。


「嘘をつけるのは人間だけじゃ」


 それなのに、目の前の少女はさらりと頷くのだ。


「何度も言うようじゃが、妾を人と一括りにせんことじゃ。妾は人ではないのじゃ。偽らずとも生きてゆける。偽る相手もおらぬ。神は一人じゃ。一人であるから神なのじゃ。虚勢を張らねばならぬような強大な相手も、偽って隠さねばならぬような事柄を共有する存在もおらぬ。神は生命に慈悲を与えるものじゃ。時に祟りを、怒りを、鉄槌を。下すこともあるがのぅ。妾の愛し子達は、みな良き子に育った。じゃが、みな嘘をつくのぅ。嘘をつかねば生きてはいけぬようじゃ。悲しいのぅ。切ないのぅ。何故、みなあるがままで生きられぬのじゃろ。何故、己が偽ったのに、あのような哀しい顔を、するのじゃろうなぁ」


 紐飾りを指先で持ち上げて、水蓮鏡はため息をついた。


「主も、嘘をついてもよい。妾を偽ってもよい。それで主が得る物があるならば、幾らでも妾を騙すがよい。じゃがの、それが主自身を傷つけるものであるならば、せんでおくれ。自分を守る為につく嘘は、虚しい。誰かを守る為につく嘘は、哀しい。自分も人も傷つける為の嘘は、ないほうがよい。そんな嘘をつかねばならぬのならば、そんな嘘をつかねば生きてはいけぬと申すのならば、妾が引き受けよう。妾に祈るがよい。妾がその祈り聞き届けよう。その為の謗りも受けよう。じゃから、みな笑えばよい。楽しい楽しいと笑うて生きてゆけばよい。妾がおるとも。何時でも、仮令見えずとも、妾がおるよ。笑って、幸福に、ただそれだけで生きていけばよい。痛みも苦痛も妾が引き受ける故に」


 水蓮鏡は、にこりと微笑んだ。


「妾は嘘など言いはせんよ。言葉の通り主を守ろう。必ず、妾が帰るその時まで。約束じゃ。神の言葉は絶対じゃ。破られるのは、その存在が消滅した時だけじゃ」

「神さまって……死ぬのか?」


 不老不死というイメージしかない。人ならざりしもの。だからこそ神なのだ。

 水蓮鏡は外に出ながら、キラを振り向いた。ボロ布が勝手に上がり、外の光を入れている。光を浴びて艶めく黒髪を揺らしながら、少女は笑った。逆光で顔は見えないのに、何故かそれだけは分かった。


「神は死なぬ。あるのは消滅のみじゃ」


 布が落ちて、部屋に暗闇が戻った。

 呆然としていたキラは、既に水蓮鏡が出て行っていることに気がついて、慌てて後を追った。ボロ布をくぐった先で、水蓮鏡は興味深げに橋の上を眺めていた。


「何をしておるのじゃ。ほれ、さっさと参ろうぞ」

「あ、もう来る気まんまんなんですね。オレの意思は全無視なんですね。そして、その格好、すっげ目立つ」


 袖の汚れ以外は、本当に汚れ一つ見つからない真白い衣装は、凄まじく眼に眩しく、果てしなく目立った。







 ざわざわざわざわ。人々の視線が痛い。目立つ。死ぬほど目立つ。出来る限り後ろを振り向かないで、大股で歩く。歩くのに。


「のう、キラ。あれは何じゃ? 何やら面妖な物体が売られておるぞ」

「…………豚の足だよ。煮て食うとうまい。ついでに、安いからオレはよくお世話になる」

「のう、キラ。あれは何をしておるのじゃ? 女子が次々と(おのこ)に声をかけておるぞ」

「……娼婦だよ。ああやって生きてる奴らだ。男もいるけど」

「ああ、交わいか。じゃが、ああいう営みは夜ではないのかえ?」

「………そういう街で、こういう場所に向かってんだよ」

「のう、キラ」

「っだぁ! 黙れ黙れ黙れ! 田舎者みたいにあれこれ聞いてんじゃねぇ! オレは目立ちたくないの! ひっそりとそれなりに平穏に生きたいの! それを、めちゃめちゃ目立つ格好して、皆の視線独り占めにしながらオレの袖ひっぱんな! オレまで目立つじゃねぇか!」


 さっきから、ひそひそざわざわ視線が痛い。もう泣きたい。

 薄汚れて、全体的に茶色か灰色が多い下層部で、水蓮鏡の真白い装束だけで、相当に目立っているのに。

 次に何を言われても完全無視するつもりで、再び歩を進めた。後ろからは人混みの喧騒しか聞こえてこない。ほっとした矢先、再度聞きなれた声が、キラを呼んだ。


「のう、キラ」


 無視だ、無視。いっそ虫だ。虫の羽音だ。オレとは無関係の音だ。


(おのこ)の相手をして働いてみなんだと、先ほどからこれが喧しいのじゃが、妾は手伝ったほうがよいのか? 人手が足らんので、困っておるのだそうじゃ。いろんな趣味の相手に、臨機応変に対応してやればよいだけと言っておるのだが、何をするのじゃ? 妾で出来るのならば、手を貸してやりたいのじゃが。困っておるのならば、そのままにはしておけぬ」

「それは引っかかっちゃ駄目だろ!? 早く言えよ!」


 慌てて振り向けば、サングラスをかけて、ひょろりと細い男が水蓮鏡の白い腕を掴んでいる。薄い帽子を深く被っている男は、見るからに怪しい。怪しい男に腕を掴まれている当の本人はいつもの様子で、透き通った目でキラを見ていた。


「主達だけではどうしようもない事柄を引き受けるのが、妾の役目じゃ」

「あんたの役目はここにはねぇよ!」


 繋がれている腕を、チョップで叩き落とす。ひょろりと細い男は、がりっと痩せた腕を慌てて引っ込めた。


「あんたも相手選べ。そんなんで稼がなくても、こいつはいいんだよ。仕事探しに出てきた奴じゃないんだから。格好見りゃ分かるだろ。金には困ってねぇよ」


 キラは水蓮鏡の手を取って、人の目から逃れるように歩調を速めた。白い手は、強く引っ張っても文句を言わずに、不思議そうについてきた。


「先ほどの者は困っておるのではないのか? だから妾に願掛けに来たのじゃろう?」

「あれはただの勧誘だっつーの。お前、ここじゃない世界の神さまなんだろ。なんでこの世界の奴がお前に願掛けなんだよ。しかも、ここは教会かよ。わざわざお前ピンポイントで願掛けなんかに来るわけねぇだろ。あんた神様なんて、ここの奴ら全員知らねーよ」


 言われて初めて気づいたというように、水蓮鏡は眼を丸くした。手を離し、キラは暑くなって服をぱたぱたとはたいた。


「そうであった。ここは社ではなかったのぅ。妾に話しかけてくるものは、大半願いを届けにきた者であったからの。すっかり失念しておった。妾はいま、そち達にとっては同じなのじゃったな。普通の『井戸端会議』、なるものにだって、参加できるのじゃったな」

「井戸端会議に参加できるのは、ほとんど主婦だ。年配のお節介お喋りおばちゃん達に混じれるようになったら、堂々のデビューだよ。お前ちょっともう黙ってろ」


 普通の基準で判断すれば、怪しげな店ばかりが並ぶ通りをずんずんと進む。怪しげな煙を吸っている奴の前を通り、魅惑気に手を揺らす胸元の大きく開いた女の前を進み、焼け落ちた建物の前を進んだ。売れと擦り寄るやつを無視して、買われろと肩を抱く男をぶん殴り、よこせとのたまうやつを蹴り飛ばした。

 そして、三日前にも訪れた、仲介屋の生地の厚い暖簾をくぐる。

 相変わらず薄暗く、相変わらず暇そうに、相変わらずぶよぶよと揺れる肉が、相変わらずそこにいた。


「よう、ヨンパ。なんかでかい仕事ないか? オレ、しばらく忙しくしてたいわ。色々忘れてぇ」


 長い棚テーブルの上に肘を置き、キラはがりがりと頭に巻いた布を掻いた。ヨンパは、その太い肉に隠されてしまいそうな眼を丸くした。


「キラ、お前は尻を狙われてるほうだと思ってたが、やるときゃやるんだな。可愛い子じゃないか」

「うっせぇ、バカ。ちげぇよ。こいつのことはいいから、仕事だ仕事。今なら何でも受け付けてやるよ。もち、七三でな」


 舌打ちしてヨンパの視線を自分に戻す。水蓮鏡は店の中を興味深げに見ている。どこの世界でもあるだろう湯のみでさえ、不思議そうだ。

 整った桜色の爪先がかけた湯飲みをつんっと揺らした。それを何となしに二人で眺めていると、ヨンパが揺れる顎に手をやった。


「でかい仕事ならあるぞ。さっき入ったばかりだ。誰に渡すか考えてたんだがな。少々、面倒だぞ。しかも、けっこうやばい」

「報酬は」

「300」


 指輪が多量に嵌った指が、三本と、片手で丸を作り、二回ぽんぽんと横に揺れた。


「お、いつもの雑用とは桁が違うじゃん。なに、そんなやばいの?」

「面倒なだけで、そんなにやばいとは思わなかったんだがな。額を聞いてやばいと思ったぜ。俺も受けるか迷った」


 迷ったけれど、結局額に負けたって所だろう。それくらいあれば、三割でもかなりになる。大儲けだろう。うまくいけば、の話だが。


「中身は? その額だ。どうせ上の奴らだろ」


 上というのは、上流階級、ということだ。街の中には段差がある。身分的にも、資産的にも、土地的にもだ。段差の一番上は、もちろん貴族が分捕っている。

 景色もいいし、空気も水もきれいだ。中は、上からのおこぼれがある。下は、それらのごみが降ってくる場所だ。ここは最下層だ。

 それでも上は、ここに仕事を落とす。

 ヨンパが、ぶよっとした肉を寄せて小声で話し出す。


「でかい屋敷あるだろ。壁全部黒の」

「ああ、黒の屋敷」

「そこの情報を少し、持ってきてほしいんだと」


 黒の屋敷と呼ばれるのは、分かりやすくも壁が全部黒いからだ。下の人間からも見えるほど大きなそれは、見ただけで異様だ。けれど、上の人間が何も言えないのだから、すごく金があるか、危ないか、身分があるかだ。


「初めて悪事を企む金持ちが、相場が分からずこの金額、ってとこだと思うんだがなぁ」

「なに、見るからに?」

「お坊ちゃまだった」


 ヨンパは肉を揺らせた。丸々とした腕があがり、自分の額の前で横にすっと線を引いた。


「…………ぱっつんか」

「見事に。横も、後ろも」

「ぱっつんか」


 何故か神妙な空気が流れた。


「……オレだったら、恥ずかしくてそんな髪型は死んでも出来ねぇ」

「安心しろ、キラ。お前が死んだらその髪型にして墓に入れてやるよ」


 キラは、片眉を上げた。


「なに、オレの墓作ってくれんの? やっさしー。オレはお前が死んでも墓なんて作んねぇぜ。てめぇなんざ、重たくて持てもしねぇよ。豚小屋の餌にでもなっちまえ」

「このクソガキが。てめぇこそ畑の肥やしさ。どうせ布団の上で死ねないだろうしな」

「だろうな。ま、葬式くらいは出てやるぜ」


 ははっと笑いを投げて、キラは頭の横に垂れた布を手で遊んだ。


「ん――……。おいしいはおいしいんだろうけどなぁ。おい、水蓮鏡。あんまうろちょろすんな。こっから出んなよ」


 キラの言葉に、際どいポーズをした女性のポスターを覗き込んでいた水蓮鏡は振り向いた。長い黒髪と飾り紐が、ふわりと波打つ。りんっと、鈴の音が響いた。


「そこにいろよ」


 それを見ることも無く、キラは考え込んでいる。


「なあ、キラ。あのお嬢ちゃん連れていくんなら、やめといたほうがいいぜ。どういう関係かは知らねぇが、お荷物連れて、詳細の分からねぇ仕事に行くもんじゃねぇ」


 ヨンパの言葉に、水蓮鏡は軽く眉を上げた。


「黙りゃ、小童」

「こわっ……!?」


 引き攣ったヨンパに、水蓮鏡はふわりと笑った。すっと、白く細い指が、何段にもなっている顎にかかる。


「妾を侮るでないわ。……そちは少々肥え過ぎじゃの。早うに死にとうないのなら、ちと減量するがよい。みな、元気が一番じゃ。健やかに生き、長う存在するがよい。そちの神も、そう願っておるじゃろうて」


 艶やかに微笑む水蓮鏡の肩を掴み、キラは慌てて引き剥がした。ヨンパは呆然としている。目をぱちぱちとさせて、熱に浮かされたように水蓮鏡を見ている。


「あんたやり過ぎだ! ヨンパがどっかの世界にいっちゃったじゃねぇか!」

「キラ、好きにするがよい。妾は主の決めたことでよい。じゃがな、忘れるでない。主は妾の守護の中にいる。妾の守護の中にいる限り、主の死はありえない」


 今度はキラの顎にかけられた細い指は、心地よく冷たく、なのにじわりと温もりが伝わった。口付けてしまいそうなほど近く、水蓮鏡の整った顔が目の前にあった。白い肌に花よりも色づく唇が、笑いを形作った。


「妾の力、知らぬわけではあるまいて?」


 キラが口を開くよりも早く、鈴の音が響く。短く鋭い音と、澄みやかに伸びる音が重なり合う。

 袂で口元を隠し、少女はくつくつと笑った。その目は、挑発的に揺れている。

 傲慢な瞳だった。引くことを知らない傲慢さを伴った、けれどそれに相応しい力を持つことを承知している瞳だった。

 そこにいるのは、紛れもなく人外の者だった。













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