肆.天照のひずみ
「嘘だろ……」
何百キロという大地が抉れ、何千万という生命が消失した。無心にさせるほどの恐怖に夜舟はそう呟いた。神と人間。その圧倒的な差が彼の思考を止める。逃げろ。動け。頭がそれを命じることができない。ただ無意識に口を開け、目を丸くする。
「嘘じゃないさ。信じられないかい?」
天照が近づいてくる。眩しい太陽の光を背負い、その楽しげで不気味な笑みがゆっくりと舞い降りてくる。
「でも、信仰はしてよ。あんな偽物じゃなくてさ。まあ、もう関係ないか」
偽物。その言葉が示すのは世都来のことだろう。天照ははてと見渡した。
「おや、世都来がいないな。……ああ、そうか。人間たちを消したから信仰が途絶えたのか」
それは悍ましく、背筋を凍りつかせる笑み。夜舟はゾクリと体を震わせた。恐怖は感じなかった。ただ死への直感があった。走馬灯さえ見えそうだ。
「意外だね。ひずみくんはあの子への信仰心がなかったんだ」
小さく囁く、夜舟には聞こえない哀れみの声。夜舟は信仰してはいなかった。罵声の原因となった自分の能力も、その能力と同じ名前の幼女のことも。それで何かが変わるとは思わない。
「うーん……でも困ったなぁ。人間を戻すとまたあの子が出てきてしまう」
天照は考える。その間に逃げろと脳が指示を出す。だが夜舟は動かない。動けない。蛇に睨まれたように、鷹に会ったように生物としての本能が逃げるのを拒む。まるで神への供物だ。
「……まあ、あの子一人なら何とかなるか。まずはひずみくん。君だ――」
「まっ、待って!」
天照が片手をかざす。白く眩い小さな光が集まり始めただしたところで、夜舟は何とか声を上げた。命乞いかはたまた時間稼ぎか。天照は余裕綽々な笑みで彼に問いかける。
「ん? どうしたんだい?」
「あ……ど、どうして俺を殺そうとするんだ?」
天照は首を傾げる。質問の意味はわかってはいたが、どうしてそんなことを聞くのか疑問に思った。
「どうして?」
「あ、ああ。だって可笑しいだろ。アンタは世都来を殺せればいいんだろ? 自分を騙る偽物の太陽を無くしたいんだろ? なら、俺を殺す必要はない――」
「言わなくてもわかっているだろ?」
その言葉に夜舟の胸はどきりと跳ねた。その通りだ。夜舟はわかっていた。その太陽を生み出したのは他でもない自分であることを。今、空にある太陽は紛れもなく天照本体だ。だが、昨日の皆既日蝕のように一時的ではあるが太陽を生み出した。それは夜舟の能力によるもの。能力は信仰によって形を変える。夜舟はわかっていた。自分の能力が本物の太陽すら生み出せる可能性に。
「君はいんたーねっとなるもので世界中に世都来という神を知らしめた。信仰を集めたんだよ。あの子が消滅しても君がいたらいつでも戻ってきてしまう」
「あれはっ……」
俺がやったんじゃない。夜舟はそう言葉を続けようとするも、無駄だと悟る。たとえ動画を撮り、世界中に晒したのが自分ではなくても、同じことができてしまう。夜舟ひずみが生きている間は。
「さあ、無駄話はやめよう。それとも、引き伸ばして君に利があるのかい?」
再度光が集まり出す。静かに天照の片手へ引き寄せられる。夜舟は逃げるしかなかった。動かない体を無理矢理にでも動かす。脳に指示を出し、手で足を叩く。天照は悠長にもその様子を眺めていた。圧倒的立場による余裕。逃げようとも、戦おうとも待っているのは死のみ。
そんな余裕を持っているからこそ虚をつけるのだ。
夜舟はヨロヨロと壁際へ歩よると、備え付けられていた消化器を持ち上げ天高く投げた。赤い消化器がその自重も忘れて空を舞う。天照はそれを神的動体視力で眺め、撃ち落とした。
瞬間、白いガスが吹き荒れ天照の頭上に傘ができる。
「これで何が変わると?」
頭上をガスが蔓延しようとも、夜舟の位置は見えていた。彼の元へ空から光が降ってくる。
「うぐぁっ!」
肩を貫かれる。お前如きいつでも殺せるのだと、わざと急所を外された。だが、次はそんな遊びはしない。天照の冷たく燃え上がる目が夜舟を捉えていた。それは殺気として夜舟の体を優しく撫でるかのように刺激する。
「うぅ……は、ははは」
夜舟は突然笑い出す。痛みに頭でもやられたのか、なにが面白いのか、無理矢理にでも笑う。天照は少し驚き心配するような顔をした。
「おや、気でも触れてしまったかい?」
「よ、世都来の言った通りだ……。アンタ、太陽から力を得てるんだな」
嘘だ。世都来は天照について何も言っていない。この言葉はただ夜舟が見つけた状況証拠から導き出したもの。地下にいた時は天からの光線。天井が崩れれば天照から発した光の砲撃。あるいは片手からの。そして消化器により光が遮られたらまた、天からの光線。今天照の片手に光はない。
「世都来の言った通りだ……」
夜舟はまるでその存在を確かめるように呟く。
世都来は何も言っていない。
だが、確かに一言だけ言っていた。
『余を信じろ』
「ああ、信じてるぜ。世都来日孁命!」
天に向かってそう叫ぶ。日蝕でもない。当然雲もない。憎々しいほどの快晴。だが、天照の頭上はガスが散布し、日光を塞いでいた。天照は気づき、ガスを晴らそうと光線を撃ち下ろす。
「一歩、遅かったのぅ」
そんな言葉と共に天照の体を幼女の腕が貫く。太陽の如き燃え盛る炎の腕。血を止め、肉を焼き、身体にぽっかりと穴を開ける。痛みに喘ぐ暇もなく、天照は腕の主を睨みつけた。
「世都来っ……!」
天からの光線はガスを離散させ、それと同時に炎を纏った世都来の腕はただの幼子のものへと戻る。そのわずかな隙を見つけ、天照はその身を発火させる。
「させるかぁっ!」
後方、いつのまにか走り出していた夜舟が新たな消化器を吹きかける。白いガスが天照と世都来を包み込んだ。それと同時に天照の6000℃の炎が即座に鎮火される。二人の姿が見えなくなる。太陽すらもその光を貫くことはできない。世都来はそんな白い闇の中で天照の四肢を折った。
「うぅぅっ!」
「終わりじゃ」
世都来はそう言って、彼女の頭部へ手刀を向ける。ただの幼児の小さな腕。世都来の力は太陽の力。天照ならそれを利用できてしまう。故に世都来はその細腕のみで牽制する。だが、炎は纏わなくとも神の一人くらい潰せてしまう。それがたとえ天照大神であろうとも。太陽が遮れている現状ならなおさら。
「やだ……消えたくない、消えたくない!」
天照からはもう余裕を感じ取れない。天から光を落とそうとも、太陽のない空間においては世都来に軍配が上がり、離散したガスも夜舟が消化器で応戦する。如何なる策を講じても世都来の方が早い。負けだ。ただ見た目通りの子どものように泣き喚く。死にたくない。消えたくない。
「頼む、吾の存在を奪わないでくれ……!」
「……!」
世都来の腕が振り落とされる。
「ま、待ってくれ!」
その言葉が聞こえ、世都来は天照の眼前で腕を止めた。ゆっくりと声の主へ振り返る。声の主、夜舟は自分でも、自らが放ったその言葉に驚いた様子だった。
消化器のひずみ