参.世都来のひずみ
白昼の街中を幼女が男を担ぎ、走り抜く。幼女は常に日陰を探して逃げていたが、まだ十時だというのに頭上に登る太陽がそれを許さない。
人、人、人。道ゆく人々がその異常な光景を目にして、立ち止まる。世都来は小さく舌打ちをし住宅街では屋根に登り人を避け、繁華街では重力を無くしたかのように飛び去っていった。
「おい、一体何なんださっきの女は」
「……」
世都来は答えない。その焦りから夜舟の声が聞こえていないようだった。夜舟は何とか世都来から脱出しようとするが、万力に掴まれているかのように体が微動だにしない。
やっとこさ離されたのは東都の中心部の駅へと続く地下道でだった。簡素で閉鎖的な空間。狭く長い一直線の通路は白熱灯が音を立て不気味さを感じさせる。世都来は息を切らしながらも怒ったように叫ぶ。
「どうしてこの街はこんなに人が多いのじゃ!」
「そりゃそうだろ。ここは日本の首都だし、毎日500人の子どもが生まれる街だ」
そんなことよりと夜舟はさっきの問いを続ける。
「さっきの女は?」
「……あやつは、天照大御神じゃ」
夜舟はとても信じられないという顔をしたが、それでも胸のどこかでは幼女の話を信じていた。人が一人消えたのだ。超常の力。能力を発芽した人間ならできるかもしれないが、それも簡単に、虫を潰すように幼い少女がそれをやった。あの少女は人間ではない。そんな予感があった。それに今目の前にいる幼女のことも。
「あ、天照? なら悪神というわけでもないじゃないか。なんで逃げているんだ?」
「……余が天照の代わりに信仰された神だからじゃ」
世都来はバツが悪そうに俯きがちに答えた。世都来日孁命は天照大神が天岩戸に隠れた際に信仰された神だ。彼女曰く、天岩戸に隠れてしまった天照大神を見て、八百万の神ではなく、人間たちは太陽がもう現れないのではないかと危惧していた。そこで新たな太陽を信仰することで人為的に太陽を生み出し、世界を照らそうとしたのだと言う。
「人間たちが信仰し始めると太陽が徐々に顔を出し始めたのじゃ。実際には天照が機嫌を直しただけじゃが、それを知らない人間たちはしばらくの間、現れた太陽を世を継ぐ日の女神と呼んだのじゃ」
しかし、と世都来は言葉を続ける。
「それに怒った者がいたのだよ」
世都来とは違う音色の声。気がつけば、辺りを行き交う人は居なくなり、地下通路には夜舟と二人の子どものみとなった。
「考えてみたまえ。吾が引き篭もっている間に知らぬ誰かが新たな太陽として信仰されていたのだ。たまったもんじゃないよ」
天照はやれやれと首をすくめる。
「そして、今もね」
その言葉はあまりにも小さかったが、その燃え盛る怒りを夜舟ははっきりと感じ取れた。額から汗が吹き出る。心臓の鼓動が速くなり、呼吸さえままならない。
「どこかの誰かが太陽を作った。そしてその事実は国を駆け巡り、誰もがその太陽を信じた。わかるかい? 世都来日孁。それから……」
偽物の太陽。億を超える人間たちが同時にその存在を認めた。多くは怒りだったが、世都来日孁命を信じた。皆既日蝕に現れた太陽は世都来日孁命という神のせいだと。その結果、世都来日孁命は形を取り、何千年ぶりに現世に姿を見せたと天照大神は言う。
「そうだ。自己紹介がまだだったね。吾は天照。君は?」
天照は夜舟を見る。暗く濁ったような目を細めて気味の悪い笑顔を貼り付けている。夜舟はその目をじっと見つめて、心底恐怖しつつも口を動かした。
「よ、夜舟ひずみ」
「おぉそうかい! ひずみ。いい名前だね。日……不見? まあ、なんにせよ日がつくなんていい名前だ」
「…………」
夜舟は否定しなかった。自分の名前が間違えられていようとも、この状況でそんなことを言える胆力などなかった。わからない。まだ何も起きていない。自分よりも小さな子ども。その子どもが途轍もなく大きな存在に思える。彼女の機嫌を損ねればとんでもない悲劇がおこるのだと、人間の本能が、日本人としての神の血が騒いでいた。
「だけど残念だ。ひずみくんと世都来とはここでお別れだなんて」
天照がそう言ったかと思うと夜舟の頭上から光線が降り注ぐ。だが間一髪、世都来が夜舟を引き寄せてそれを回避する。そのまま逃げようとするが、新たに降り出した光線が地下の天井を打ち崩し、二人の退路をたった。
「はぁ君はこんな状況でも眉一つ動かさないんだね。何だか不気味だ」
天照は関心したように言った。言われた夜舟は確かにいつも通りの無表情だったが、その内心は恐怖と焦りでいっぱいだった。
「おい、ひずみ。立てるかの?」
小声で話す世都来に応えるように夜舟は震えながらも立ち上がる。
「良し、良いぞ。少し耳を貸すのじゃ」
世都来は夜舟に耳打ちする。しかし、それを悠長に待ってくれるような神はいない。二人の元へ再び天から光が降りそそぐ。
「内緒話は苦手だよ」
無数の光線が止み、砂埃が晴れる。いつのまにか夜舟たちを足止めしていた瓦礫は大きな穴を開けて、二人はどこかへ行ってしまった。
「おやおや、また逃げられてしまった」
天照にとって、日光の届かない地下は戦いづらい場所だった。せっかく天井を壊しても、長い通路のせいで新たな日陰に隠れられる。天照には顔にある目ともう一つ、太陽を媒介し世界を見ていた。それ故に日陰にいられては相手の行動を把握できない。だが――見えないのなら見えるようにすればいい。
天照は空へと飛び上がる。地下への異変を察知した人間たちが陥没した地面を取り囲んでいた。天照は指で彼らをなぞる。すると彼らは姿を消した。殺してはいない。ただ消しただけ。そしてこれから行う攻撃の斜線上に存在する生命も諸々消した。いや、面倒だと見える範囲全て消そうと天照は手を払う。日本上からほとんどの生命が消えた。問題は日の届かない地下にいる人間たちだが、それは後からでも処理できる。
天照の体を日光が包む。白く、見ていられないほどの発光。強い光と熱が空間を歪める。
「八咫鏡」
瞬間、天照を包んでいた膨大な光が一直線に解き放たれる。凄まじい爆音と寂光。昼を一段と明るく染め上げる白の波動。それが地面を消失し、ビルを崩し、遠く離れた山々を破壊する。生命への危険はない。壊れたものも後で元に戻す。人の作ったものなど神にとっては幼稚な積み木遊びにすぎない。天照はさてと下を向く。
消えた地面からこちらを驚いた顔で見る地下の人々と二人の姿。天照は二人以外の生命を消した。