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無垢の戦場

作者: 東雲白雨

 戦場があるからこれが生まれたのか。これがいるから戦場が生まれるのか。

 強弱は入れ替わる。栄枯盛衰の流れは無限の循環である。生命はそうして進化し、源はやがて磨耗する。ひとりの人間のように。ひとつの惑星のように。

 そこに疑問はない。全ては大前提の摂理。その世界が生み出したのはその循環を守るための機構。強者という概念の補助機能であり、純粋な力そのものだった。

「名前など不要。迷いなど不要。成長など不要。変化など不要。交わりなど不要。戦いにおける矛であれ。自らを戦場の旗とせよ。鳴らすは慟哭、掲げるは首。それがお前の役目だ。泥より生まれた者、自らの骨が砕け、渇きがお前を殺すまで、お前は永遠に戦いから逃れられぬ。お前は死の淵を駆け、死神を刺し貫いてでも戦わねばならぬ。忘れるな。忘れるな」

 見下ろすのは顔のない化け物だった。何人も何人もひしめき合って、同じことを繰り返している。ひとり殺すと次が湧いて出る。虫を潰すのと同じように、何人も何人も殺した。それがいつまでも続くので、とうとう飽いて自らの心臓を砕いてしまった。

 死んで、巡って、次が来る。前を覚えていても、それは戦うための道具にしかならないので一度確認しさえすれば振り返ることもない。

 何度も何度も繰り返し、何度も何度も葬り去った。不思議なことに、それでも歩み寄ろうとする者は何人もいたのだ。心から涙を流して、命が尽きるほどの全力で立ち向かって、そして皆死んでいく。殺して殺して積み上げる。

「殺さなくていい者とは、どういう者だと思います?」

 星の数ほどの戦場を駆け抜けて、ひとりの僧侶と出会った。

「ねえ、ナタク。貴方は、戦いというものの概念の体現者だ。しかし貴方は、戦いというもののいち側面しか知ろうとしない。貴方が戦いを他に求め続ければ、いつかは乾いて壊れるでしょう。けれど、壊れるだけで死ぬことはない。貴方を殺せるのは最早仏の御手ですら成し得ぬ業となった。それがどういうことか解りますか」

 ナタクと呼ばれた赤髪の男は無感情に目の前の男を見つめる。人間の年齢でおよそ六十を超えているだろうか。右目を失い、左足を失い、木杖をついて歩くその人物がゆっくりと近づいてくるにも関わらず、ナタクは身構えることもなく立っていた。

「さて、始めの問いに戻りましょう。貴方は、戦う必要もなく、殺す必要もない相手というのは……貴方にとっていったいどういう存在なのか。その答えが解りたくありませんか」

 不要。ナタクは即座に返答する。抑揚もなく、温度もなく、感情もないその声に、相手の男は満足そうに笑って言った。

「天の業。やがて終わりがくるその日まで、どうでしょう、私に貴方の時間を頂けませんか」

 ナタクの手を握る男の手はしわくちゃで、あちこち傷跡がくっついてできた皮のつっぱりがある。戦いを知っている者の手だとナタクはすぐに理解したが、警戒するに至らなかった。

「よろしく、ナタク」

 ナタクは相手の魂を見る。もう長くないことは、既に解っていた。







 戦いは常に己の内にあると心得よ。老師は常々そうナタクに言い聞かせた。

 ナタクは男に、「自分を老師と呼ぶように」と言われ、素直にそれに従った。とはいえ呼びかけることはなく、また同様にふたりが時間を共にすることも殆どなかった。それはナタクが生来の本能のままに戦場を求めて彷徨うからであり、老師は戦場から遠い存在だったからだ。

 ナタクが何処にいても、戦場をひとつ超えるたび老師はナタクの前に現れた。そうして答えは解りましたかと問い、興味のないナタクはいつも無言で返した。解を悩む思考などなく、また問いに答えるだけの言葉をナタクは持っていなかった。

 無から何も生まれないように、問いそのものに無関心なナタクからその後十年経っても言葉が返ってくることはなかった。やがて老師は戦場の終わりに現れることもなくなり、ナタクも渇きに侵され壊れた。

 次の巡りが来て、ナタクはまた泥の内から起き上がった。壊れるたび何かがすり減っているのだろう。目を覚ますたびナタクは少しずつ小さくなっていた。

「おかえりなさい、ナタク」

 ナタクの巡りには数年がかかる。けれど記憶と寸分も違わない老師が、全て解っていたかのように沼の淵に座っていた。

「さあ、始めの問いに戻りましょう」

 こつこつと杖を鳴らして、老師はいつかと同じ言葉を口にした。

 何度も渇き、何度も壊れた。老師はいつも変わらず目の前に現れ、同じことを問い掛けた。

 やがてナタクは初めて疑問を抱いた。

 これは何だ。

 人に対する問いではなく、事象に対する問いではなく、その個体を認識しよう疑問が生まれる。人間が天災を神の形に例えたように、畏怖が亡霊を生み出したように、その輪郭を識別しようとナタクの内に疑問が浮かぶ。そんなものは不要だと、天の雷が泥を砕く。何も思う事なかれと泥の器から記憶が削られていく。それでも何度も出会う老師は、変わらずナタクに問い掛けた。

「そう、貴方の目の前にいるのは紛うことなき『他者』なのです」

 戦いの化身は自ら言葉を口にする。幾度天が泥を貫こうと、その言葉がナタクから消えることはなかった。

 問いは自らの内より生まれ、解は己と他者の間に生ずる。

 ナタクから消えない疑問に対して、老師はそう答えてただ見守っていた。疑問はナタクの戦いの手を緩めることも、その目を曇らせることもない。まるで猛毒のように忌み嫌われていたそれを飲み干すと、存外それは悪いものではなかった。

 ならば何故、天はそれを抱かせることを恐れたのか。

 疑問は泡だ。ブクブクと浮かんでは消え、忘れた頃に水の底から湧き上がってくる。本能的に行っていた戦いの方法はやがて洗練され、渇きに至る時間も随分長くなった。老師と出会ってから二百年。変わらず老師は同じことを問い、しかしナタクはそれに答えず、そして自らの疑問に答える術にも未だ至ってはいなかった。

 戦う為に太平を壊した。戦う為に誰かを守った。戦う為だけに戦いを邪魔する全てを葬った。

 それでも時は巡り、人は生きる。戦場の上に草花が芽吹くように、誰かの終わりの次には他の誰かが立ち上がる。

「戦いとは、何だったのだろう」

 数えきれないほど迎えた乾いた終わりに、ナタクはそれを口にした。

「戦いとは、貴方そのもののことでしょう」

 老師が告げた言葉が、ナタクの身の内に返ってくる。

「貴方は戦場。貴方は戦いの運命そのもの。そして我らの罪そのもの」

 老師がナタクの頭に触れる。ナタクは老師の瞳を見た。茶と思われたその瞳の奥深くに金が混じる。金を宿すのは天の象徴。御仏の慈悲を賜った証。そしてその色が鈍るのは天より落とされた罪と罰。

「長い長い復讐でした。ですが、これはこの身を堕としてでもなさねばならなかったこと。貴方も私と堕ちるのです。貴方が奪った多くの命に、ようやく死者の手が届いたのです」

 疑問は毒だ。解はきっと、その毒を飲み干す術だ。慣らして慣らしていつか痛みを忘れる日まで、魂をも蝕む不治の毒。言葉は身を縛る枷、あるいは身に突き立てる刃そのもの。

 それをナタクは知らなかった。誰も教えてはくれなかった。置き去りにした疑問が心臓を貫く。存在意義に罅が入る。

「貴方を殺すのは渇きなどではないのです。水を知らぬ不毛の土地が、砂に変わろうと再び降り積もるだけなのですから。貴方は泥。そこに根を張る強き芽吹きこそ、貴方を殺す唯一の方法なのです」

 金茶色の瞳が強く輝く。ナタクにはその瞳に抱いた感情を表す言葉を知らなかった。

 遠い遠い、人間にとっては遥かに昔のこと。

 まだ天と地に境がなかったころ、ひとりの天の御使いが、少女の魂を導いた。天と地が近しいが故に、人の身でも巡る者が多かった。その少女もそのひとりだったが、その少女には天が授けた運命があった。

 戦が起きれば必ず死ぬ。戦場の始まりを告げる贄の子だ。戦いの理由として少女は死ぬ。栄枯盛衰、世界の摂理、それらを成すひとつの柱。何の罪もなく、その為に生まれる少女。

 それを憐れんだ御使いが、御仏に嘆願した。御仏は告げた。戦いは運命也や。それに絶望した御使いは天を降りた。その罰に寿命を得た。

 ひとりの男となった老師は考えた。ずっと考えて、考えて、その命を運命の終わりに費やそうと決めた。戦いはこの世の常。世界が進みゆく為の約束事。御仏すらも手の届かぬ世界の決まり事。

 ならば世界に生み出された約束事を壊すのだ。世界と戦いの運命を繋ぐものを壊すのだ。

 その決意は果たされた。

 概念の罅を繕う術をナタクは持っていない。

「こんなこと意味がないことぐらい、解っていますよ」

 例えひとり殺したとしても世界は回る。世界はそうできている。そんなことは解っている。それでも抵抗したかった。ひとりよがりの英雄譚に浸っていたかった。だから『殺す』と決めた。

「私の我儘に付き合ってくれてありがとう。これで私も、行くべき場所に行けるでしょう」

 ナタクが死ぬよりも前に、男の身体が崩れ落ちる。それを見て、ナタクはようやく自分の解を得た。

「すまなかった」

 その言葉はもう届かない。その言葉に誰も意味をくれない。けれどその言葉を口にした瞬間に、ナタクという存在が終わりを告げることを、ナタク自身が理解していた。

 次は生まれない。次は巡らない。此処に終わりはやってくる。

 ただのありふれた物語。それは実に緩やかに、そして誰知らぬ場所で、世界へと鳴らされた終わりへのカウントダウンだった。






(生命というものが個では完成しないのと同じように、世界という機構もまた、自動的で機械的で、どうしようもなく穴だらけの構造体なのだと、教えて欲しかった。諦める理由が欲しかった)

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