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アネットが私に向かって、何か言っている。一生懸命に私に話しかけている。でも私は遠くて声が聞こえない。
アネット!アネット!なぜそんな遠いところにいるのだ。こちらに来てくれ。
私はアネットに手を伸ばしたが、アネットはさらに遠のいていく。行かないでくれ。アネット!なぜそんなに悲しい顔をするんだ。
私はアネットの笑顔が好きなんだ!そんな悲しそうな顔をさせるのは誰なんだ。そんな奴は私が…私が排除してやる。
愛してるんだ!アネット!どこにも行かないでくれ!アネット!!!!
「アネット!!!」
アネットに手が届くように、思い切り手を伸ばした。もう少しで届くようだったのに、いきなり場面が変わり、アネットはいなくなった。目を見張って、見詰めると天井が見えた。ここは王宮か?
「コンラート殿下!」
枕元で誰かが叫んだ。
「誰か!医師を!」
叫んだ声に聞き覚えが合って、そちらを見た。聞き覚えがあって当然だった。自分の乳母が涙を流して立っていた。なんだか乳母が一回り小さく、老けたように思えた。
その後ろを見覚えのない侍女が身を翻して、扉の外に出ていく姿が見えた。
「ど…う…し…」
声を出そうとしたが喉が張り付いてまともに声が出ない。
乳母が近くに寄って来て、枕元にあった吸いのみに水差しから水を入れ、私の口元に持ってきた。少しずつ水が口の中から、喉の奥に落ちていく。張り付いた喉が少しずつ潤い剥がれていく。
遠くから駆けてくる音がする。王城で走るなど何があったのだろうか。そう思っていたら、扉が大きな音を立てて開けられて、男達が飛び込んで来た。襲撃かと剣を取ろうとしたが、身体が動かない。手が上がるだけだ。
「コンラート殿下、無理をなさらないで下さい」
見覚えのある王城付きの医師の制服を来た男達にそう声をかけられて、彼等が私の寝ているベッド脇に寄ってきた。私は病気だったのか?おや、その後ろにいるのは魔術庁長官ではないか。
「な…に…があった…んだ」
「この指は何本に見えますか」
何を当たり前のことを聞くのだと、少し苛ついた。それでも診察だからと言われたので、聞かれた事に全てと答えると、今度は医師に身体を診察された。あちこち身体を触って診察してから『どうぞ』と後ろにいた魔術庁長官に声をかけて、ベッド脇から退いて下がって行った。
紫のローブを纏った魔術庁長官のローゼンベルガーがそばに寄ってきた。ローゼンベルガーは術を解いたようだった。何の術だったのか、身体を起こせないコンラートには判断できなかった
「奇跡的に目覚められた。国王陛下にご報告してくれ」
ローゼンベルガーが言う。奇跡とはなんなのだ。私は何の病気だったのだ。
「コンラート殿下、本当に…ようございました」
乳母が涙を流している。そんなに泣かれるほど、私の容態は悪かったのか?
そうだ。アネットが心配しているだろう。誰か、ギーセヘルト公爵家に使いを出してくれ。アネットに私が目覚めたと伝えてくれ。
「乳母、アネットに……」
目覚めたと時より、身体が少しずつ動く。乳母にそう声をかけると、乳母ははっきりとわかるほどに、顔色が変わった。
「……コンラート殿下……」
何か言い淀むのが不思議で、さらに言葉を重ねようとしたその時に、扉が大きく開き、侍従が先導して両親が入ってきた。
周りの人間は国王夫妻が入室して来た事で、ベッドから離れて、部屋隅にそれぞれ控えた。
私には乳母と同じように、何故か両親も急に年老いたように見える。
病気のようだったから、心配をかけたのだろう。申し訳ない。
寝たままではと上半身を起こそうとするが、そこまで自由に身体が動いてくれない。乳母がそばに寄って来て、身体を起こす手伝いをしてくれた。
「まだ無理です。少しずつリハビリをしないと。何しろ十年も意識がなかったのですから」
隅に控える医師にそう声をかけられた。
十年!コンラートはその言葉の意味がわかるまで、しばらくかかった。十年意識がないとはいったい何があったのか思いつかなかった。
コンラートが一番に思い出したのは、アネットの事だった。十年も経ってしまったら、アネットはどうしたのだろう。アネットとは学園を卒業して、二十歳を迎えたら婚姻する筈だった。
貴族令嬢が婚姻するのは早い。待っていてくれるのだろうか?アネット!