第98話 出奔
ドゥーマの横暴に耐えかねたトリエネはミサキを連れて組織を離反してしまう。二人は早朝の駅のホームで、寒さと不安をごまかすように寄り添う。
遠く会議室の方からはドゥーマの怒号が聞こえてくる。詰められているのはおそらくアリーアだろう。
リピアーはそんな様子を遠巻きに感じながら、誰かを探して通路を歩き回っていた。そして目的の人物を見つけたので声をかける。アーツ・ドニエルトである。
「アーツ、ここにいたのね」
「リピアーか」
二人は並んで壁際で話を始めた。
「ミサキがいなくなったわ。トリエネも行方をくらましている」
「……」
「貴方でしょう?トリエネの脱出を手助けしたのは?」
「さあて、なんのことだかな」
アーツは取り合わなかった。けれどもひた隠しにしようと躍起になっているふうでもなかった。
「貴方は水を操れる能力者。裏世界のメンバーで、鍵を容易に盗み出せて、トリエネに協力的な人物というと貴方くらいしか思い浮かばなくて」
「……」
「もうトリエネには裏世界での居場所は無いでしょうね。ドゥーマが裏世界で幅を利かせ続ける限り、あの娘が戻ってくることはもう叶わない」
「手助けがあろうがなかろうが、あいつはミサキを連れて脱出を図っていたさ。ならせめて、すべてがつつがなく済むようにしてやった方がいいだろ」
目を閉じながら独り言のようにつぶやいた。
せいぜい五年未満の付き合いだが、それでもアーツはトリエネの人となりを正しく理解していた。罪もない少女に対する凄惨な虐待、彼女がそれを許せるはずがなかった。そもそも裏世界という彼女の性根とはソリが合わない環境に、横暴の化身であるドゥーマ……トリエネを取り巻くストレッサーはかなり多い状態であった。彼女が裏世界を離反すること自体、もとより時間の問題だっただろう。
リピアーもそれを理解していたので、アーツをこれ以上追及することはなかった。
「アリーア一人ではかわいそうだから、私も巻き込まれてくるわ。貴方が幇助した件についてはとくに言及しないから」
そう言って、足を会議室の方に向ける。去り際に言葉を続ける。
「……おそらく、私も続くことになるでしょうね。そうなったら、しばらくはアーツとアリーアこそが頼りよ。よろしく頼むわ」
リピアーが去る。アーツは壁にもたれた姿勢のまま嘆息した。
◇
数刻ほど遡った早朝。
聖都ピエロービカの通りを、トリエネはミサキの手を引きながら歩いていた。急いでいる気持ちはあったが、優しい彼女はミサキの歩調に合わせていた。それに目的地は鉄道駅なのだが、あと一時間ほど待たなければ始発列車は来ない。今慌てていてもしょうがないというのもあった。
(それにしてもなんで牢の鍵が部屋の前に落ちていたんだろう?誰かが持ってきてくれたのかな)
穏便に鍵を盗み出せて、自分を助けてくれそうな人物。トリエネはなんとはなしにアーツのことを想起していたが、いかんせん確証がなかった。
やがて鉄道駅へと着いた。
トリエネはとにかくドゥーマの脅威から逃れるため、この神聖ミハイル帝国から離れなければと思っていた。この鉄道は国を跨ぎ、ポルッカ公国を経てフランチャイカ王国まで行くことができる国際線だ。裏世界のアジトはドゥーマによってピエロービカに移されるまでは、フランチャイカ王国南部の都市オーアに存在していた。物心ついた頃からリピアーに連れられ裏世界にいたトリエネにとって、そこはとても馴染み深い街であった。助けを求めるアテがとくにあるわけでもなく、ただこの国から離れたい思いと突如沸き上がった郷愁から決められた目的地だった。
しかしここで問題が浮上した。料金が足りなかった。急いでいたので着の身着のまま、ロクな準備もできていなかった(アーツのお膳立てが逆にトリエネから考える時間を奪ったともいえる。この好機を逃すまいと思わせてしまったのだ)。
(どうしよう、これじゃフランチャイカまでいけない……あ!でも、ポルッカ公国までならギリギリ足りる!)
結局トリエネはポルッカ公国行きの二人分の切符を購入した。フランチャイカに具体的なアテがあるわけでもないし、なにより一刻も早く神聖ミハイル帝国から離れたかった。
駅のホームに据えられたベンチに二人で腰をかける。季節は初夏だが北国の早朝だ、それなりに冷える。トリエネとミサキはお互いくっつき合うようにして座っていた。ミサキもいつの間にかトリエネには心を許しているようだった。二人は寒さや不安、様々なものを必死にごまかすようにくっつき合っていた。
「……大丈夫だよ、ミサキちゃん。もう貴女をあんな目には遭わせない。私が必ず安全な場所まで連れて行ってあげるからね」
慈愛の中にも力強さの感じられる言葉だった。しかしその力強さはミサキの為というよりは、不安に潰されそうな自分自身を鼓舞したい意図からだった。
不安。
今までだってずっと組織から離反したいとは思っていた。しかし実際にしてみると、してやったりの達成感以上にこの先上手くいくのかという不安が首をもたげるのだ。
トリエネは裏世界に身を置き続けることを辛く思っていた。裏社会の組織なのだから、時には非道な行いにも手を染めねばならない。密偵やハニートラップ等の情報系任務はまだいい方だが、それでも好きにはなれなかった。なにより辛かったのは殺しの仕事であった。世の中には平気で人の命を奪える者がいるし、それどころか楽しんでそれをする者さえいる。そういう異常者に近づいてしまえば、むしろ楽になれるのではないか?そう思うことは度々あった。しかし結局、殺すという所業をかけらも受け入れられないまま月日は過ぎていった。
それなのに、なにゆえ自分は裏世界に身を置き続けて来たのか?
リピアーが自分を組織に縛り付けてきたからか?そもそもの発端は確かにそこだろう。ただトリエネはリピアーのことを心から愛していたし、彼女が決して無駄な行いはしないと信頼していたので、トリエネもまた現状を受け入れようと努力してきた。
ただそれでも、嫌い一辺倒の環境ならば早々に離反していただろう。裏世界は冷たいばかりの組織などではなく、人の優しさや温もりも感じられることをトリエネはよく知っていた。
嫌いな環境に、なにゆえ今まで身を置いていたのか?
リピアーにバズ、ムファラド、マルクスの長老勢、アーツにアリーア……トリエネによくしてくれていた存在もまた、あの組織には決して少なくなかったのだ。
そんな彼らのいる組織を、ドゥーマという脅威を残しつつ出奔してきた事実に、今更ながら身が震えた。もはや戻るわけにはいかなかった。それは自身やミサキの生命を危惧してのことでもあったし、よくしてくれていた人たちに合わせる顔がないとも思ったからだった。
大粒の涙がトリエネの頬を伝う。
「そうか、私、組織を勝手に抜け出しちゃったんだね……もう戻るわけにもいかないか」
やがて声が嗚咽交じりになって、肩が震え始める。
「もうリピアーにも、おじいちゃんたちにも、アーツにも、アリーアにも会えないんだ……寂しい……寂しいよぉ……」
泣き始めた彼女は、頬にかすかな温かさを感じた。
ミサキがその小さな手で彼女の涙をぬぐおうとしていた。
「……慰めてくれるの……?」
「……」
今のミサキの行いはコミュニケーションの手段というよりは、純粋に自分の為であった。ただ自分がそうしたいと思っただけだからできたことなのだ。
「ありがとう!なんて可愛い子なの!」
トリエネは泣き顔のまま、幼い少女に縋るように抱き着いた。
やがて、二人を新たな世界へといざなう汽笛の音が近づいて来た。




