第266話 近衛部隊:ベリアル
最後の亜空間に挑むマグナとヤクモ。そこは正義の神としての真価が試される場だった。
カウバル城に突入した九名の内、最後の二人――マグナとヤクモは果ての見えない闇の中に居た。
まさしく無明の闇であった。
音も光もない、真っ暗闇の只中に二人は佇んでいる。
「いったい何処だ、ここは……」
「ここが何処かは分からないが、何が起きたのかは分かる」
辺りを見回しながらつぶやくヤクモに、マグナが応えた。
二人には互いが見えていない。そこに居るだろうことが分かるだけだ。
「かつて俺の眷属モンローが、時間稼ぎの為に亜空間を生み出してドゥーマを閉じ込めたことがあった。今の状況はあの時の感じに近い」
「亜空間か、なるほどな。まあ奴ほどの神力から作り出された眷属ならば、このぐらいのことは可能だろうな」
奴とは、リドルディフィードに入り込んでいる外側の存在のことだろう。彼はこの世界にやって来る際、管理者から絶大な神力を与えられている。
「しかしどうしたものか、真っ暗闇で進むべき道が分からないぞ。昔、善光寺の本堂の下に潜ったことがあったが、あれ以上の暗闇だ。おまけに壁もないので手探りで進むこともかなわぬ」
「……いや、なんとなく分かる。おそらく進むべき道は、目で見て探すのではないんだろう」
マグナはあろうかことか、目を閉じた。
いや光の無い闇の中ではこれが最善手であった。
マグナはそれとなく感付いていた。
この世界では、物理的に見えるものに意味はないのだろう。目でなく心で見る必要があるのだ。心眼というやつが大切なのかもしれない。
彼は目を閉じて立ったままで、瞑想を始めてしまった。
(大丈夫か?マグナの奴……)
ヤクモは心配げに様子を窺うが、闇の中で彼の姿を拝むことはかなわなかった。
マグナは自分の心を見つめ続ける。
心の中では様々な出来事が去来していた。
人狩りに執心する貴族を制裁したこと、圧政を敷く悪しき女王を討ち倒したこと、過酷な身分制度を終らせたこと、文明を破壊しようとする大地の神を滅ぼしたこと――
時には躓き、心が折れそうになったこともあった。
しかし旅を通して知ったのだ、闇夜に輝く星の光のように、真摯な想いはいつか届く時が来ることを!
(俺は随分と旅をしてきた……いったい、なにゆえ、こんなにも頑張ってきたんだろう?)
過去の光景が過ぎ去ったその先で、彼は見た。
幼い少年が泣きながら、誰もいない田舎道を悄然と歩いている。
(あれは……)
栗毛色の逆立った髪。それは、かつての自分だった。
両親を強盗に殺され、逃げるように町を去ったあの頃の自分だ。
悲しい記憶が残る町から逃れたくて――
新たなる依処を求めて――
少年はあてどない放浪を始めた。
(そうだ、あんな悲しい想いを、他の人には味あわせたくない……だから俺は、正義の為に戦ってきたんだ)
少年が歩き去った彼方に、光が生まれた気がした。
彼は目を開く。
闇の果てに、一縷の光の道筋が生まれていた。
「マグナ、これは……」
ヤクモにも光が見えている。
「どうやら進むべき道筋が見えてきたようだぜ。先に進むとしよう、ヤクモ」
彼はヤクモの手を取って、悠然と歩き出した。
はぐれないようにとの心遣いだったが、急に手を握られたものだから、ヤクモは柄になく顔を赤らめた。
「……!むぅぅ……」
闇の中で、マグナに彼女の顔は窺い知れない。
◇
しばらく闇の中を歩き続けていた。
幾許か時が過ぎた頃、途端に周囲が明るくなった。二人は辺りを見回す。
どうやら見知らぬ街の中に居る。
荒れ果てた廃墟のような街並みで、人々が至る所で死んでいる姿が目についた。
「ここは……?しかし、ひどいな」
「……」
つぶやくヤクモを余所に、マグナは横たわる遺体の一つに目を向ける。ひどくやせ細って死んでいるようだった。
「これは、餓死か?」
「おそらくな……戦争か凶作か、食糧が足らなくてこんな惨事になっているんだろう」
二人が佇んでいると、遠くで悲鳴が上がるのを聞いた。
声のした方に向かうと、女性が複数の男たちに追い剥ぎに遭っている場面に出くわす。
マグナは片腕を金属硬化して鎖を射出すると、男たちの腕へと突き刺した。叫び声が上がる。男たちが慌てて走り去って往く姿を、マグナは黙って見つめていた。
「どうした?追わないのか?」
「いや、意味がない」
強盗に親を殺された男が、強盗を見逃していた。
彼の視線は、遠く丘の方に向けられている。
「奴らは確かに悪事を犯していた。だが生きるためだった。誰も彼も、追い詰められればあのようにもなるだろう。彼らもまた、毎日を懸命に生きている尊い命であることには違いがない」
彼は逃げ去った男たちに背を向けると、丘を目指して歩き出した。
「正すべきは為政者だ。上に立つ者はその権力と引き換えに、民の命を守る責務がある。もし為政者が少しでもそのことを忘れていなければ、街がこんな惨状にはなっていないはずなんだ」
先を行くマグナに、ヤクモは追い縋る。
この世界に来てから片時も迷わぬマグナに、正義の神としての資質を強く感じていた。
小高い丘に聳える王城に、二人は立ち入る。
誰もいなかった。見張りの兵も、巡回の兵も、城勤めの学者も官吏もいない。代わりに目に入るのは、累々たる屍ばかりである。
「城内もひどい有様だな」
「ここの王は、城内で王の為にと尽くしている人々にも心を向けなかったようだな。身近な存在への感謝を忘れるのは、悪への近道だぜ」
歩き続ける二人は、大広間に到達する。
そこには不思議な台座のようなものがあった。何か丸い物を嵌め込めそうな窪みがある。
「なんだこの台座は?」
「……」
マグナはしげしげと眺めていたが、構わず歩き出した。
「今は関係なさそうだな。とにかく急ごう、まず会うべきは王だろうからな」
程なくして、二人は玉座の間に辿り着いた。
玉座には確かに王が鎮座していた。しかし白骨である。しゃれこうべに王冠を被り、骨の身には豪華なマントと首飾りを纏わせて、すべての指に高価そうな指輪を嵌めている。
「これが王か、しかし死んでいるな。怒りにまみれた民に殺されでもしたのか?」
「いや違う、おそらく……たとえ何があっても自分の利益や富だけを優先するという、この王の心の有り様の体現なんだろう」
マグナが言うや、その白骨はカタカタと動き始めた。
「そうら、死んでいないぞ。コイツは文字通り金の亡者に成り果てたんだ」
【グオオオオオオ……!】
白骨は不気味な声を発しながら、これまた金色の豪華な杖を出現させた。
杖をかざすと黒い瘴気のようなものが集まり始める。
【タチサレ……!タチサレ……!】
「悪いが、そういうわけにはいかない。お前のせいで民が苦しんでいるんだからな……!」
マグナは光の巨人を出現させる。
そして、容赦なく眼前の愚かしき王を叩き潰した。
断末魔を上げながら、白骨は消えていった。
代わりにコトンと、何かが床に落ちる。それは髑髏の描かれた宝玉であった。
「……なんだ、これは?」
「まるでゲームのドロップアイテムのように出てきたな」
拾うマグナに近づいて、ヤクモが宝玉を観察している。
そしてはっとなって、手を打った。
「そうか、分かったぞ!先ほど大広間で台座のようなものを見かけただろう?あれには何か丸い物を嵌められそうな窪みがあった。あれに嵌めればよいのではないか?」
「……いや、多分違うな」
マグナは宝玉に目を落としながら言った。
「何!違うのか?」
「王の死と引き換えにこの宝玉が手に入ったということは、この宝玉は王の心や魂を暗示しているような気がする。となると、これを安置すべき場所は……」
彼は宝玉を携えて、玉座の間を出ていく。ヤクモも追従する。
「では、街の方に行くのか?」
「いや、王の権力自体は強固であるべきだ。民と同じ立ち位置まで叩き落としてやる必要はない」
彼は城の入り口の方ではなく、バルコニーを目指して階段を昇っていった。
バルコニーに至ると壮観な景色が目に飛び込んできた。
雄大な山々と平原、没しかけた夕暮れの空、そして民が住まう街並みが一望できる。荒れ果てた家々と、転がる死骸がここからでもよく見えた。
マグナはきょろきょろと辺りを窺う。
そして大広間にあったのと同じような台座を見出した。
「……やはりな、ここにもあったか。王の心のあるべき場所は狭い玉座の間であるべきじゃない。超然としながらも、民がよく見えるこの場所こそがふさわしいだろう」
きっと同様の台座が、城内のあちこちにあったのだろう。
マグナは自分なりの考えで、王の心のあるべき場所を見定めた。
宝玉を台座に嵌める。
「権力は民の信頼から与えられたものだ。なら私腹をこやすことに執心してはいけない。己の欲でなく、民に目を向けるべきだったんだ。もしそれができていれば、民も良き政をする王に応えてくれて、きっと金以上のものが手に入っただろうに……」
彼がそう言っている内に、台座がみるみる光を放ち始めた。
魂が浄化されてゆくような、清らかで神聖なる煌めきであった。
(そうか、大憲章……この男がその名を持って生まれたことは偶然でなく、きっと運命だったのだろう)
ヤクモは尊いものを見るような目で、彼を見つめていた。
程なくして、空間がひび割れ始めた――
ようやく元の世界に戻って来られたように思ったが、どうやらカウバル城内の景色ではなかった。
色とりどりの花が咲き、蝶が楽し気に飛び回り、柔らかな光の下で心地よい風が吹いている。極楽や天国というものを絵に描いてみたかのような風景だった。
「次々と景色が変わるな……いったいここは?」
「どうやら俺たちの選択は、それなりに理想的な末路を迎えたんだろう」
マグナは周囲を見渡しながら、見知らぬ人影が佇んでいることに気が付いた。
長い金髪に二本の湾曲した大角を生やした端正な顔立ち。黒を基調とした貴族然とした衣服を身に付けている。
「素晴らしい。見事です、正義の神よ」
男はパチパチと手を鳴らしながら、近づいて来る。敵意のようなものは感じられなかった。
「私は第1師団”近衛部隊”のベリアル。よくぞ我が”冥暗の領域”を乗り越えました。貴方がたの功績を讃え、ささやかながらもてなしをさせて頂きたい」
ベリアルが案内するように手を伸ばす。
そこには綺麗なテーブルクロスに覆われたテーブルと、美しい装飾の三脚の椅子。テーブル上にはティーポットと人数分のカップとソーサー、そしてケーキスタンドが置かれている。スタンドには下段にサンドイッチが、中段にスコーンが、上段にはケーキが用意されている。皿とフォーク、マドラー代わりのスプーン、砂糖とミルク、スコーン用のジャムとクロテッドクリームの用意も抜かりない。典型的なアフタヌーンティーの様相であった。
「……どうする、マグナよ?」
「まあ、有難く頂くとしよう。俺にはアイツが騙そうとしているようには見えない」
「そうか、ならばご相伴にあずかるとしようか」
先ほどまでのこともあり、ヤクモも不思議なくらいにマグナの言葉を信じられた。
二人は着席して、促されるままに紅茶に口を付けた。そして卓上のものを、気の向くままに食べ始める。ベリアルも同じようにして、しばらくこの快いひと時を楽しんでいた。
或る時、ベリアルが言った。
「私が生み出した亜空間、冥暗の領域は人の心を試します」
「……やはり、そういう空間だったか」
紅茶を傾けながらマグナが応える。
「進むべき道は心を見つめることでしか見出せません。しかし自分の心とは、自分でもよく分からないものです。もし貴方が凡庸な男であれば、あの無限の暗闇から永久に出ることはかなわなかったでしょう」
「……」
「ですが貴方は自分を見失わなかった。自分が何を考えてここまで来たのか、そして何を目指していくべきなのかが揺るがなかったのです。だから貴方はここまで到達することができた。その気高き理想と強靭なる意志は、きっと世界さえも従わせることでしょう」
ベリアルは惜しみない称賛の言葉を送っていた。
実に心のこもった言葉であると、マグナは思った。それが不思議であった。ベリアルは近衛部隊という皇帝直属の配下である。そしてその皇帝は世界に覇を唱えんとして戦事に興じており、自分はそれを打ち負かそうとしているのだ。それにもかかわらず、何故このような賛辞を送るのか?
「ベリアル……お前は初めから、俺を試そうとしていたんだろう?」
「お察しの通りです、マグナ様。だから私は、他の近衛部隊に貴方を横取りされるわけにはいかなかった。是が非でも貴方を、私の空間に招待したかったのです」
彼はティーカップを置くと、真剣な眼差しでマグナの目を見つめた。
「貴方ならば信頼できると確信しました。お願いいたします、どうか我が主リドルディフィード様をお救いください……!」
あろうことか、彼は正義の神に頭を下げた。
ヤクモは目を丸くして驚いたが、マグナは落ち着いた瞳でベリアルを見つめている。
「”救う”か……確かに、俺は倒すのではなくそのつもりでここまで来た。あれが単なる戦争好きの王とかなら、俺もわざわざ首を突っ込まなかっただろう」
「やはり、マグナ様は我が主の正体をご存じで……?」
「まあな……」
マグナはちらりと、ヤクモの方を見た。
「他の将軍級は知る由もないことでしょうが、私にはなんとなく感ぜられることでございました。我が主はもしかしたら、どこか遠いところから来られたのではないかと。そしてなにゆえこの世界に来られたのかを考えたのです」
「……」
「我が主は快活に、そして豪快に笑っていることが多いですが、その裏には淋しさが根付いているように思えました。時折り、思い出したように悲し気な顔をなさることもあります。私には思うのです、あの方は心をごまかしながら毎日を生きているのではないかと……あの方が真に居るべき場所はここではないのではないかと……」
「ベリアル、お前ほどの忠臣を俺は見たことがない」
マグナは思わず称賛の言葉を送っていた。
「マグナ様、貴方はなにゆえ戦うのでしょう」
「皆が笑って暮らせる社会のためだ」
彼は揺るぎない瞳で、毅然と答える。
「それはたとえ敵であっても、別世界の者であっても……でしょうか?」
「すべてに分け隔てなく降り注ぐ陽の光のように、暗い闇夜でも明るく照らす星明りのように、正義も斯くあるべきだと思っている」
「……」
ベリアルは立ち上がる。
そして大きく、世界の為に戦う男に向かって頭を下げた。
「マグナ様、この世界のことは貴方にお願いいたします」
そして歩み寄り、握手を求めた。
マグナもすんなりと彼の手を取った。
「そして、我が主リドルディフィード様のことを……どうか頼みます……」
さらさらと、まるで砂の像が風に吹き散らされるかのように、ベリアルの姿は消えていった。
光の粒子が、陽の光を受けて煌めいているようだった。
気が付けばマグナとヤクモは、カウバル城内の広間へと戻って来ていた。
「……ベリアルはお前を試し、力を認めた上で自分の主の行く末を委ねたのだ。真に主を想っているからこそ、そのような行動を取ったのだろうな」
「ああ……行こう、皇帝リドルディフィードの元へ」
決意をあらたに、彼は玉座の間へと向かう。




