第245話 ミーミルの泉
戦場で虚しく命を散らしたならず者、フリーレ。彼女は気付けば、不思議な木の生えた泉のほとりに立ち尽くしていた。
この世ならざる場所は冥府以外にももう一つ存在した。そこは薄暗い冥府とは反対に、柔らかな光に包まれた白い空間であった。
そこにたった一人だけ、ぽつんと佇む影が存在した。
金色の髪を揺らし、凛々しい眼差しで辺りを伺っている。
「……いったいどこだ?此処は」
そこには例えようもなく大きな木立が、天に向かって無数の枝葉を伸ばしていた。そして根元付近には透き通った水の、神秘的な泉が湧いている。
彼女はしばらく辺りを見回しながら、呆然と立ち尽くしていたが、或る時背後から声を聞いた。
「ここは世界の裏側――ミーミルの泉だよー。フリーレさん♪」
随分と間の抜けた女性の声であった。
振り返れば格式高い学衣のようなものに身を包んだ、ウェーブがかった茶髪の女性が居る。服装やロケーションとは打って変わって軽薄な印象を受けた。
フリーレは、猜疑心に満ちた視線をその女性に送っていた。
「お前は誰だ?何故私のことを知っている?」
「そりゃー、知ってるよぉ。だってウチ管理者だしぃ」
「管理者?お前は何を言っている?」
不愉快げに応答した後、彼女はしばらく考え込んでいた。朧げな思考をなんとかクリアーにしようと努める。そして、自分が此処に来るまでにどのようなことがあったのかを思い出していた。
巨大な黒い狼――
崩落する断崖――
涙ぐみながら、傍らに座していた少年――
「……第一、私はたしか死んだはずだ。そしてこの現実離れした雰囲気の空間……随分聞いていたイメージと違うが、此処が冥府というやつなのか?」
「違うよぉ、まあ此処も世界の裏側にあたる場所だから冥府に近い場所ではあるかなー。此処はミーミルの泉。仮想データベース”ユグドラシル”の管理スペースなんだよ♪」
「仮想データベース?」
ワケの分からぬことを言うなと、フリーレは目で抗議していた。しかし眼前の女性は構わずに話を続ける。
「そそ、でウチが管理者のミーミルってこと。あっちにむっちゃデカい木が生えているのが見えるでしょ?あれこそがユグドラシル。あの木は枝葉を伸ばして世界中と繋がっていてね、世界のすべての記憶があの幹に集められているんだよぉ」
「世界の記憶、だと?」
「だからねフリーレさん、当然貴女のこれまでの人生も、あの木に記録されているの」
自分を含めた世界中のすべてが記録されている樹木……
なんとも不思議なものを見る目で、フリーレはその樹木を見つめていた。
「なるほど、まあ此処がどういう場所かはだいたい分かった。しかしなにゆえ私はこんなところに居る?死んだ者の魂は冥府とやらに向かうのではなかったのか?」
「それはねぇ、ウチが貴女に目を掛けたからだよー」
ミーミルはニコニコ笑いながら言葉を続ける。
「目を掛けた?どういうことだ?」
「貴女のこれまでの人生は見させてもらったよん。とっても数奇な人生を送って来てるねー。荒野で生まれ育って、生き抜くために戦い続けて、実力を認められて騎士に封ぜられて……こんな波乱万丈な人生送ってきた人はなかなかいないよ?だから思ったんだぁ、このまま終わらせちゃうのは勿体ないなーって」
ミーミルは口元に指を当て、虚空を見上げながらつぶやいている。
「勿体ない……だと?」
「そそ、でねでね、さっきも言ったけど此処は冥府と同じく世界の裏側にある場所だから、こっから冥府に行くこともできるんだよね。もし生き返ってやり直したいとか思うなら、ウチが冥王ハーデスに掛け合ってあげるけど?」
「ふざけるな」
フリーレはぴしゃりと言ってのけた。
生き返りという言葉を耳にしても、彼女の意志には迷いも揺らぎもなかった。
「おりょ?嫌ってこと?」
「当然だろう。誰が生き返してくれ、などと頼んだ?私は生き返りなどまったく望んでいない」
「ええー……でも貴女って生きたくて、死にたくなくて今まで頑張ってきたんじゃないの?それで戦い続けて、ついには類まれなる強さを手に入れた。でも結局負けちゃって、悔しくないの?やり直したくないの?」
「そうだな……悔しいか悔しくないかで言えば悔しいさ。だが私は、わざわざ生き返ってまで雪辱を果たしたいとは思っていない」
自分の最後の戦いを、フリーレは思い返していた。
彼女は荒野で必死に生き、そして培ってきた己の力にそれなりの矜持というものを持っていた。しかし本気を出したマルコシアス相手には、まったく力及ばずに敗北を喫したのだ。悔しくないはずがなかった。
しかし生き返しという反則を用いてまで、是が非でもリベンジを果たしたい気持ちは彼女の胸中にはない。
「どーして?」
「たしかに、あの時敗北を喫して死んだのは心残りではある。その結果自体は残念だ。だが私は、たった一度きりの人生を必死に生き抜いてきた。その上での結末だったはずだ」
「ふんふん」
「つまり私は結末にこそ心残りはあれど、自分の生き様にまで後悔はしていないんだ。ここでわざわざ生き返ってまでやり直そうとして、またしても想いを遂げられなかったらどうする?唯一満足だったはずの己の生き様すらも喪失し、いよいよ目も当てられんぞ」
負けたこと自体は不本意でも、フリーレは己の人生を呪ってなどいなかった。だからこそ、生き返しなどというあり得ぬ奇跡で己の生き様を汚したくはなかったのだ。
しかしフリーレのそのような崇高なる心持ちをミーミルは理解しておらず、その為彼女にしてみればフリーレの返答は意外であったのだ。生き返ってやり直せるとなれば、きっと二つ返事で承諾するだろうと、彼女はそのように思っていたが実に理解の浅いことであった。
しばらく、ミーミルは「ふーん、へぇー、そー」と髪をいじくりながらつぶやいていた。
「そっかー、でも勿体ないなぁー、貴女みたいな人の人生をこんな簡単に終わらせちゃうのも」
彼女はひとしきり同じようなことを言い続けていた。
フリーレはしばらく腕を組んで黙っていたが、或る時ミーミルがなにやら思いついたようにパチンと手を鳴らした。
「あっそうだ!なら、こんなのはどうかなぁ?」
「……なんだ?」
次はいったいどんな奇想天外な提案が来るのかと、フリーレの目は再び警戒の色に満ちる。ミーミルはそんな彼女の様子も意に介さず、次のように切り出した。
「――このユグドラシルの機能を使って、貴女の生き様を他の誰かに託す、とかどう?」




