第243話 冥府①
死者の魂が辿り着く場所、冥府。そこに地下施設で命を落としたある男の姿があった。
銀色の切り揃えられた髪の男が、先の見えない靄の中を歩き続けていた。意識も視界もぼんやりとしていて明瞭でなかった。
いつまでそのようであったかは定かではない。
だが、或る時彼は不意に見知らぬ空間へと迷い込んだ。それと共にぼんやりとしていた意識も途端にクリアーになった。
周囲を取り巻く靄は消え失せていて、薄暗い石造りの通路に佇んでいた。どこか肌寒く、怖気の走るような雰囲気であった。
「…………はて、いったい此処は?」
彼は淡々とつぶやいていた。
寝起きのように、調子を取り戻したばかりの思考は、まだ困惑や混乱というものには至らなかった。
しばらく辺りを見回した後、ひとまず歩き続けてみることにした。しかし歩けど歩けど、無限回廊のごとくに風景は変わらず、同じところばかりを歩いていた。
「まったく不可解な場所ですね。ところで私はどうして、こんな場所に居るのでしょうか」
彼は今までのいきさつを振り返ってみようと考える。
すぐには思い出せずにいたが、やがて思い至った。自分はたしか死んだのだ。聖王を庇いながら地下施設から脱出するべく走り続け、しかし崩落に巻き込まれて命を落とした……
「もしや此処は、死後の世界――冥府と呼ばれる場所なのではないでしょうか」
「まったく、君の推測通りだよ。スラ・アクィナス君」
突然、声が聞こえた。
振り返れば背後に謎の男の姿がある。薄暗い空間でよく映える真っ白く長い髪に端正な顔立ち、そして漆黒の法衣のような衣装に身を包んでいる。
その男を見て、スラはどきっとした。男が何者かは知らない。しかし感覚で分かるような気がしていた。
「貴方は……此処が冥府なら、もしや冥王様なのでは?」
「ご明察、君の言う通り此処はたしかに冥府さ。そして僕はこの冥府を支配する者――冥王ハーデスという者だ」
男は薄く微笑みながら名乗りを上げた。
スラは頭では状況を理解しつつも、どうにも現実感がなかった。
「なるほど、では私はたしかに死んでいるのでしょうね……しかし死後もこうして意識がはっきりあるとは、不思議なものです」
「違うさ、死した者の魂は元来明瞭な意識というものを持ち合わせていない。君が今、はっきりとした意識と思考で僕と話せているのは、他ならぬ僕が許可しているからにすぎない」
ハーデスの言っていることが、スラには気になった。
「許可……?つまり冥王様は、私に何か御用でもあるのでしょうか?」
「その通りだよ。まあ立ち話もナンだし、場所を移すとしようか」
やがて歩き始めたハーデスに、スラは警戒の心を抱きながらも付いて行くことにするのだった。
無限回廊のごとくだった通路も、彼の足取りに追従している内に様相を変え、いつの間にか執務室のような場所へと出て来ていた。相変わらず薄暗い雰囲気で、そこかしこに紫色の炎が燭台に灯っている。奥には執務机のようなものがあって、その幾分か手前辺りに背の低いテーブルと黒いソファーが設えられていた。
ハーデスが腰掛けスラにも座るように促すと、彼は向かい合うようにして腰を下ろした。
「ふふふ、突然こんな場所に出て驚いたかい?まあ権限のない者がいくら歩いても此処には来られないようになっているからね」
「権限?」
「細かい話は後でするよ。ひとまずお茶にでもしようじゃないか」
彼がそう言って、パンパンと手を鳴らすと、空間がぐにゃりと歪んで一人の漆黒の衣装に身を包んだ女性が姿を現した。自分はどれだけ、突然の出来事を見せられただろうかとスラは思った。
女性はハーデスの元まで足を運ぶと、すました姿勢を取った。
「お呼びでしょうか、ハーデス様」
「客人だ、悪いがお茶を用意してくれないかい?ペルセポネー」
「承知しました」
ペルセポネーと呼ばれた女性は淡々と返すと、また歪んだ空間と共に姿を眩ませていった。
「あの方はいったい」
「彼女はペルセポネー、まあ冥王の補佐役とでも考えればいいさ」
「はあ」
「ひとまず、この冥府について君に説明しておこうか。君は冥府というものをどこまで知っている?」
「そうですね……亡くなった者の魂が辿り着く死後の世界。そこで魂は浄化されて、やがて新たな別の命に生まれ変わるとか。魂が浄化される際に記憶も削ぎ落されるので、生まれ変わった者は基本的に前世を覚えていないとも」
スラが語っていることは、彼が特別に物知りだから知っていたというワケではない。この世界の住人であれば、程度の差こそあれど大方知っている内容であった。
「その認識で正しいよ。まあ魂の初期化システムはちょっと不具合が残っていて、たまーに前世を覚えている人が居たりもするんだけどね」
「初期化システム?」
「君の言う通り、この冥府は生まれ変わりを司る場所。要は魂を循環させるシステムなのさ。この冥府の最奥には”タルタロス”と呼ばれる仮想ネットワークコントローラ――まあ世界中から冥府へと繋がっている見えない道を管理する物だと思ってもらえればいいけど、それによって冥府は機能しているのさ。そして僕は、そのタルタロスの管理者ってワケ」
「そ、そうですか……」
次から次へと聞き慣れぬ単語が出て来るので、スラは相槌がいいかげんになりつつあった。なんとか理解しようと努めるが、大雑把な印象での理解に留まった。
そこで再び空間が歪んだかと思えば、配膳台に茶器を載せたペルセポネーが姿を現した。淡々とした所作で、二人の前に茶器を並べていく。ティーカップに淹れられた琥珀色の液体。香りからして紅茶のようであった。冥府という場所を考えれば、随分とありふれた飲み物だと思った。
スラはひとまず思考を整理しようと思って、ティーカップを持ち上げて紅茶を飲もうとする。そこに驚くべき言葉が耳に飛び込んで来た。
「でさー、ものは相談なんだけど、君、冥王になってみない?」
「ブフッ!」
衝撃のあまり、彼は紅茶を噴き出してしまった。げほげほとひとしきりむせた後、真意を問いただそうとする。
「な、何を……」
「いや、正直言って、僕もう仕事辞めるつもりなんだよねぇ。この冥王という名のタルタロス管理人はさ、言ってしまえば世界の裏方みたいなものなんだ。ヘルメースの能力はあまり目立たず裏で生きるのが好きそうな者に割り振ってきた経緯があったからね、だからこうして君に声を掛けているんだよ」
「私が冥王……世界の裏方……」
「そして冥王となるからには、この世界の正体について知らなくてはいけない。ちょっと長話になるけど、付き合ってくれるかい?」
ハーデスが微笑みと共に問いかける。冥王というわりには随分と軽い調子の男だとスラは思った。彼はひとしきり考えた後、話の続きを聞くべく首肯した。
こうしてハーデスは、スラにこの世界がアタナシアと呼ばれる仮想世界であることを説明した。同時に自身が、仮想世界内部に肉体を持っているだけの外側の人間であることも。ちなみにペルセポネーはあくまで内部の人間であり、彼女を気に入ったハーデスが直々に勧誘した経緯があるらしい。
そして何故アタナシアという仮想世界が作られたのかという、マグナがヤクモから聞いたのと概ね同じような話をされた。終始想像の及ばないスケールの大きな話をされたので、スラは最後には疲れ切った表情を見せていた。
「ふふ、お疲れ様。理解はできたかい?」
「は、はあ……なんとなくは」
「ゆっくり理解できればいいさ。いきなり受け止めきれる話でもないだろうしね」
「要するに、この世界は貴方がたの実験場……そして冥府とは、その実験を繰り返させるための機能、ということなのですね」
スラはなんとも微妙そうな表情で、手元を見つめていた。
「僕たちが憎いかい?」
「……正直、複雑な気持ちではあります。ですが貴方がたの事情もまったく分からないワケではありません。もし世界を好きに造れてそこに好きに人間を生み出せる技術が私にもあったなら、私も人間というものの研究を始めていたかもしれません。それにそのようなことを始めたのも、外側の人間たちにも色々と悩みや苦しみがあるからこそなのでしょう」
「いいね、思った通り君は冷静で理知的だよ。そして聞く耳を持っている。さすがに僕が目を付けただけのことはあるね」
ハーデスは嬉しそうに返した。
「で、どうなの?冥王やってくれちゃったりする?」
「……少し考えさせてくれませんか」
「勿論さ、いきなり結論を出さなくてもいい。そうだね、少し冥府を廻りながら考えてみるといいかもね」
それから二人は席を立った。
空間が歪んで穴が空くと、ハーデスはそこに入っていく。これも冥府の管理者だからこそ出来ることなのかと思いながら、スラはその後に続いた。
◇
二人が出て来た場所はやけにだだっ広い場所であった。
しかし夜の帳のような真っ黒い壁に四方を囲まれ、これまた薄気味悪い様相を呈している。崩れかけた家屋の柱や壁がそこかしこに散在していた。
「……ここは?」
「死者の魂が彷徨う場所――”忘却と輪廻の間”さ」
辺りを見回しながら問うスラに、ハーデスは軽い調子で答えた。
朽ち果てた街のような場所を、顔の無い暗い影が彷徨っている。この一つ一つが死者の霊魂なのだろうか。
二人は話しながら、歩を進めてゆく。
「この場所で時を過ごした魂は、やがて記憶が抹消されて輪廻転生の準備へと移る。まあその期間というのは一定ではないし、こっちの都合でいくらでも変えられるんだけどね」
「はあ」
「だからね、取っておいたんだよ、あの少女の魂を。まあここに来たのもつい最近なんだけど」
「あの少女……?いや、この街には、どうにも見覚えが……」
歩きながら、スラは気付いてしまった。朽ち果てていたのですぐには気付けなかった。
「ストラータ王国、クレッセン……我が生まれ故郷……」
見慣れているのも当然だった。
少年の頃、よく利用していたパン屋も、遊んでいた河べりも、朽ち果て壊れていることを除けば何もが記憶のままであった。
「これはもしや、私の記憶がこの景色を作っている?」
「君ではないさ。覚醒させた霊魂は君だけじゃない、これは彼女の記憶から映し出されたものさ」
「彼女?っ……!」
スラは何かに気づいて、歩を止めた。
「君の故郷は一年前、アレクサンドロス大帝国の苛烈な攻撃に晒されて壊滅した。そしてこんな景色が映されているのも彼女が近くに居るからさ。さあご覧、あちらに……」
ハーデスが示した先、崩れた瓦礫の町角で独りの少女が立ち尽くしている。
彼とよく似た銀色の髪で、頬を涙で濡らして。
「…………アンジェラ」
スラは感極まったような声で、糸目を見開いて涙を流していた。
「霊魂という者は元来意識が曖昧としているものだ。だが冥王である僕が覚醒させれば、その霊魂の自我は明瞭となる。とても心残りだっただろう?存分に話してきなさい」
ハーデスの声を背中で聞きながら、スラは一歩一歩を踏みしめるようにして少女に迫っていった。やがて彼の接近に気づいた少女は顔を上げる。
少女もまた、その表情を驚きに変じた。
「……スラ、兄さん?」
「アンジェラ……アンジェラ!」
普段の落ち着きが嘘のように、彼は愛する妹に飛び付くようにして抱擁した。
背中に腕を回し、目の前の存在が嘘や幻ではないことを懸命に確かめるように抱き締め続けた。妹もまた、兄の腕の中で信じられない思いだった。
「兄さん……?本当に、本当に兄さんなの?」
「ああ、そうだよ。君のたった一人の兄、スラ・アクィナスだ。ようやく……ようやく再会することができた……!」
スラはそれから、言葉にできないといった風に、何を語るでもなくしばらくすすり泣き続けていた。その間片時も解放してくれないものだから、アンジェラは彼の腕の中に囚われながら困ったような笑みを見せた。
「もう兄さん、いくらなんでも泣きすぎだよ。ほらしゃんとして!」
「ううう……アンジェラ……」
「兄さん、私が居なくて大丈夫だった?ちゃんとご飯食べてる?何か買い出しに行ってこようか?ああ、でも知らない内に街が壊れてしまったんだったわ、今は逃げないと……」
そこでアンジェラは頭を押さえて、少しだけ表情を苦悶に歪めた。
「あれ?私、何から逃げようとしていたんだっけ?どうして街が壊れているんだっけ?私は、どうして兄さんと、離れ離れになっていたんだっけ……?」
「アンジェラ?」
記憶が混濁しているのか、と思った。
スラはこれはむしろ都合が良いと思った。神聖ミハイル帝国に亡命し、麻薬アガペーに手を染めて異形と成り果てた記憶など無い方がいいだろう。だが一つだけ、明確に伝えておかねばならないことがある。
「アンジェラ、私たちは死んでしまったんだよ」
「……?な、何を言っているの?兄さん……」
「嘘じゃない。この壊れた街は、君の記憶から作りだされた光景だ。アレクサンドロス大帝国の攻撃に晒され、私と君は離れ離れになってしまった」
「そうだ……!私、逃げようとして、気が付いたら難民キャンプに居て、兄さんがどこにも居なくて……淋しくて淋しくて……」
アンジェラもまた、しがみつくように兄の背に腕を回し始めた。
「もう大丈夫だ、アンジェラ。もう君に淋しい想いはさせない。冥王様の気づかいで、私たちはこうして冥府で、再び巡り逢えたのだから……」
「兄さん!逢いたかった……逢いたかったよぉ!」
止め処なく、涙が溢れてきていた。
死を経て、冥府で再会を果たした兄妹は、しばらく飽きることもなく抱擁を続けた。




