第234話 終末の戦い⑦
マルコシアスの真の力にフリーレは追い詰められる。一方テュールも、ナベリウスを相手に苦戦を強いられる。
――フリーレは、確かにたじろいだ。
どのような状況でも臆することなく突き進んできた彼女が。
フリーレという人物を一言で表現するならば冷静沈着、あるいは泰然自若であろうか。しかし彼女がそのように振るまえるのも、実力を身に付け神器グングニールをも使いこなせるようになってきたここ数年の話である。
昔は神器も無ければ、戦闘能力も現在ほどに洗練されてはいなかった。幼少期ともなればなおさらである。力無き彼女は、治安の欠片もない荒野をおっかなびっくり過ごしてきた。恐怖に怯え、逃げ惑い……眼前にはだかる巨大な黒い狼は、忘却の果てに追いやったはずの恐怖をたしかに呼び起こしていた。
「驚いたか?俺は巨兵部隊のベレトと並んで魔軍で陸戦最強と謳われる存在だ。つまりただの取っ組み合いなら近衛部隊や精鋭部隊よりも上ってことさ!」
「……」
「おら、どうした?さっさと来いよ!俺は気に入ってるんだぜ、お前のことをよぉ……!見せてみろ、お前の底力を!」
「……う、うおおおっ!」
フリーレは意を決して駆け出した。
周囲を駆け巡りながら、様々な角度からグングニールによる斬撃を浴びせる。しかしどうにも手応えが感じられなかった。絶妙に受け流されている。
フリーレは一度、グングニールを上空に放った。
そして四足獣の動きで相手を翻弄しようとする。しかしマルコシアスはその巨大な体躯からは想像もできないほど俊敏に動いて対応してくる。
「へっ、人間がこんな戦い方をできるのはまったく恐れ入るぜ。だがテメェは所詮人間だ。本物の野獣に通用するとでも思ったか?」
全力を解放したマルコシアスはニ、三十メートル近い巨躯であったが、その図体のまま両手を地に付けフリーレと同じように周囲を目まぐるしく駆け始めた。
フリーレがどのように動いてもマルコシアスの意表を突くことはできなかった。先回りされるようにして迎撃され、攻撃を仕掛けても反撃に晒される。彼女はあっという間に満身創痍の身となった。
「……ハァ、ハァ」
上空に手を伸ばしグングニールを呼び戻す。
そしてマルコシアス目掛けて投擲するが、あろうことか彼はそれを片手で受け止めてしまった。
「……なっ!」
「ちんけな槍だな、爪楊枝にもなりゃしねえ」
マルコシアスはそう言って指先の力でグングニールをボキリと折ってしまった。
フリーレの心中にはいよいよ絶望が席巻し始めた。
ここからはもはや戦いと呼べる様相ではなくなっていた。
最大の攻撃手段を失ったフリーレは、俊敏な動きで翻弄する戦法もマルコシアス相手には通じず、とにかく敵の攻撃を躱すので精一杯になっていた。防戦一方だった。
このままではいけないとばかりに、どうにか隙を見つけて蹴りを入れてみせるがむしろ脚を掴まれてしまう。
「ぐっ……」
「無様だなぁ、フリーレ。さっきまでのお前は確かに戦士であり獅子だった。だが今のお前はまるでその獅子に歯向かう野鼠みてえなモンだ」
マルコシアスは乱暴にフリーレを地面に向かって投げ捨てる。
彼女はどうにか受け身を取るが、既に意識は朦朧としていた。血まみれで片眼も潰れていた。それでも彼女は立ち向かうことを止めなかった。
しかし戦いの趨勢は何も変わらない。残酷な仕打ちを続ける悪逆非道な大人に、力無き子供が必死に抗い続けているような、直視に堪えない凄惨なものだった。
ついにフリーレは、がくりと膝を付いた。
「もはやここまでか。だが安心しろや、お前は間違いなく今まで戦った人間たちの中では最強だった。そのことを誇りに思いながら死んでゆくといいぜい!」
マルコシアスは巨大な腕を振り上げ、その残酷な爪牙でフリーレの命に幕を引こうとする。
……ところが突然、周囲の地面が大いに震えた。
「な、なんだ?何事だ!?」
彼がそう言うや否や、彼らの足元の地面が盛大に崩落を始めた。
崩落の原因としては二つあった。
一つは主戦場となっていたのがひと際高台となっている地形であった為、地盤が比較的脆かったこと。もう一つはフリーレが滅茶苦茶にグングニールを投げていたり、力を解放したマルコシアスがその巨体で縦横無尽に暴れ回っていたものだから、随分と地面に衝撃が及んでいたことだ。
土砂崩れが引き起こした派手な狂騒の中で、マルコシアスの巨体も、ボロボロのフリーレもその姿は見えなくなってしまった。
◇
アレッサ西側の戦線では、エインヘリヤル第四部隊長テュールがナベリウスと激突していた。
三つ首の黒い犬が、牙を剥きながら突進してくる。テュールは神器グレイプニルを振るい、敵の進路を妨害しつつ距離を取る。そして隙を見つけて、ナベリウスの肉体を鎖で拘束した。
「ほうほう、なかなかやりますね。攻撃にも攪乱にも使える汎用性の高い神器のようです」
「すっとろいんだよオメェ!捕まってんじゃねーよ!」
「だ、大丈夫。全然問題ないよ……」
鎖に巻かれたまま、三つの頭が言葉を交わしている。
「まあまあ、よいではないですか。敵に歯ごたえがあるほどやりがいもあるというものです。どれ、ではこちらも本気でやるとしましょうか……!」
真ん中の頭がそう言った後、計六つの紅い瞳がギラリと輝いた。それに伴ってナベリウスの体躯が数倍に膨れ上がり、グレイプニルの鎖を力任せに引きちぎってしまった。
「なんだとっ……!」
「フフフ、私は全然本気ではなかったのですよ?さあさ、その噛み応えのありそうな体を喰い散らかしてあげましょう!」
ナベリウスは再び牙を剥くと、獰猛な勢いで駆け出し始めた。
テュールはグレイプニルを伸ばして応戦する。
グレイプニルは伸縮自在の神器である為、末端部分が壊れた程度では問題ない。引きちぎられた分を再び伸ばして彼は鎖を打ち付ける。しかし敵の強靭な体躯に弾かれてしまう。
「ちぃ……!」
彼は舌打ちをすると、退避に努めた。そして逃げ惑いながらとにかくグレイプニルを振るい続ける。
しかし慌てているのか、彼の狙いは先ほどまでに比べると随分と精彩を欠いていた。繰り出す鞭は周囲の地面や岩に滅茶苦茶に当たるばかりで、ナベリウスへの攻撃にも牽制にもなっていなかった。
いくらか逃げ惑い同じような動きを繰り返した後で、彼はついにナベリウスに嚙みつかれてしまった。
大きな三つの頭は彼の分厚い鎧をたやすく喰い破った。それから胴、腕、脚を同時に噛みつかれた。凄まじい出血の中で苦痛に顔をしかめる。もはや絶体絶命であった。
「グフフ、これでお終いですねぇ、テュール……!」
「……ハァ、ハァ、おい犬っころ……知ってるか?動物ってのはな、飯を食ったり得物を仕留めたり、そういう時が一番無防備なんだよ……!」
「何を言って……っ!」
ナベリウスが気付いて見上げた頃には、すぐ近くに有った高い巌が音を立てて崩れ出していた。退避を試みるもいつの間にかグレイプニルが巻き付いていてすぐには動き出せず、崩れ落ちる岩塊が直撃した。
テュールの神器グレイプニルは相手を翻弄する戦法でこそ真価を発揮する。そして彼は巨漢である故に単純な力押しが得意なのだとよく誤解されるが、実際にはかなり頭を使って戦っている。
彼は周囲にいくつか高い巌があることに気づくと、逃げながらそこにナベリウスを誘導していた。巌だけを攻撃するのは不自然なので、なんでもない地面やまったく見当違いの岩を攻撃するといったブラフも織り交ぜていた。ナベリウスの予想外の力に実際に驚いていたのも、慌てふためいている演技に真実味を与えた。
「俺は得意なんだよなぁ、兵士だけど追い込み漁がよ……」
言いながら最期の力を振り絞り、ナベリウスの体をグレイプニルで強烈に縛り上げる。岩塊の直撃と鎖の拘束でかなりのダメージとなっていた。
「グアアア……!」
「痛ってええ!」
「く、苦しい……」
三つの頭が苦悶に顔を歪め、なんとかもがこうとするが、鎖に雁字搦めに拘束されていたので身じろぎひとつできなかった。テュールはどんどん拘束する力を強めていく。
ついにナベリウスは三つの口から血を吐き出すと、ぐったりと脱力してしまった。
「へっ、三つ首の犬なんて俺は認めねえぜ……ペットにもなりゃしねえよ、地獄で番犬でもしてやがれ……」
力の抜けた声でそう零した。
脱力したのはナベリウスだけではなかった。
テュールもまた、全身の各所から血を流してぐったりとしてしまった。荒い呼吸をしながら、仰向けで天を見上げている。
「……ハァ、ハァ……俺もここまでか……すまねえ、後は頼んだぜみんな……」
それきりテュールは口も目も閉ざし、すっかり動かなくなってしまった。
空っ風が、命の抜けた骸を虚しく吹き晒していた。




