第230話 終末の戦い③
トールとフレイヤは、マッカドニア南の海上でボティスと対峙する。敵の加勢もあり二人は次第に追い詰められてゆく。
トールは元来、戦闘を楽しむタイプの戦士である。それゆえ数々の武勲を立ててきた。
しかし臆するということを知らないわけではなく、この時ばかりは恐怖の方が勝っていた。それは海上という戦いに不向きな場所だったからか、敵が規格外の大きさを誇っていたからか、蛇という動きの読めない相手であったからか。とにかく色んな事情が絡み合っていたからかもしれない。
【フフフフ……】
対してボティスは不敵に微笑んでいた。
【貴方がたはさぞ驚かれているのでしょう。これほど大きな生物を目の当たりにしたことなどないと……事実、私はグラシャと並ぶ魔軍最大規模の将軍級。この体の全長がいったいどれほどの長さなのかは、私自身もよく分かっておらず、魔軍七不思議の一つとしてよく話題に上げられます】
現在海上に飛び出している頭部は、ボティスの全長のごくごく末端にすぎないのだろう。海中にはいったいどれだけの長さの体が横たえられているのか。一同は目を落としてみるが、暗い夜の海底など見通せるはずもなかった。
【そのため、私は海にしか居場所がございません。それに年がら年中このようなところに居るものですから、陸を寝床としているグラシャと違って、私はリドルディフィード様に一度もお逢いしたことがないのです】
ボティスは哀しげに零した。それから今度は喜色をはらんだ声で続ける。
【フフフフ、その私が……!ラグナレークの将を討つという、このような大役を仰せつかった……!分かりますか?この私の喜びが……!そういう意味では貴方がたには感謝すらしております】
ボティスは会話はここまでと、その巨大な頭部を高く振り上げた。
【今宵こそリドルディフィード様のお役に立ちましょう……!ラグナレークの将、トールとフレイヤよ!ここで海の藻屑となりなさい……!】
振り上げた頭部を、まるでハンマーのように勢いよくフリゲート艦に叩き付けた。艦は真っ二つに割れて、ぞれぞれ垂直に傾きながら海中に沈み始める。
割れた際の勢いで幾人もの兵士が海中に投げ出されていた。残った兵士も沈みゆく艦に必死にしがみついている。トールもまた艦の上で、ミョルニルを構えたまま驚異的なバランス感覚で踏みとどまっていた。
一方フレイヤは、自ら海へと滑り落ちた。
「ブリーシンガメン、モード:水!」
海中という水のマナが豊富な場所ならば、一瞬で必要分を補充できる。
フレイヤは集めた水のマナを解放し青いドレス姿に変貌すると、海上に浮き上がって水面を滑るように移動し始める。水の力を制御する現在の彼女には、造作もないことであった。
【フフフフ……水を操るモードですか。ですが私どもは海上において魔軍最強の部隊……簡単にはいきませんよ?】
その時だった。
海中から突然長い触手のようなものが伸びてきた。吸盤がびっしりと付いた緑色の触手だ。それがフレイヤの体に巻き付いた。それから更に大きな触手が大量に飛び出して来たかと思えば、残りのフリゲート艦に次々と巻き付いて、海の底に引きずり込み始める。艦上の兵士から続々と叫び声が上がる。
「うう、こ、これは……?」
馬鹿力に拘束されて、フレイヤは身じろぎひとつできなくなっていた。
やがて触手の主が、豪快に水しぶきを上げながら海の上に姿を見せる。緑色の体色をした巨大なイカの姿であった。
【ご紹介いたします。彼は覇海部隊で私に次ぐナンバー2の巨体の持ち主――アンドロマリウスくんです。どうやら貴方がたを海の底にご招待したいようですね】
【フシュアアアッ……!】
アンドロマリウスの騒がしい咆哮が響く中、みるみる艦は海の中に追いやられていく。
「ちくしょう!やめやがれっ!」
トールは腰に巻いたベルト型の神器――メギンギョルズのスイッチを入れる。彼の身体能力を向上させる神器だ。手に嵌めた手袋型の神器――ヤーレングレイプルも身体能力向上のための神器だが、こちらが腕力特化であるのに対し、メギンギョルズは足腰の強化に重点が置かれている。
全力稼働だとへばってしまうので多少抑えた出力だったが、それでも彼は驚異的な跳躍力を見せて、空中からアンドロマリウスを狙う。ミョルニルを振りかざし叩き下ろそうとする。しかし新たな触手が飛び出して、払い除けるように彼を打ち払った。
「ぐあっ!」
ミョルニルを手にしたまま、トールは海へと落とされた。
アンドロマリウスはイカの姿をしているものの、その触手は明らかに十本以上存在していた。大きさも不揃いである。一部はフレイヤ、ボティスが叩き割った以外のフリゲート艦に巻き付き、それ以外は所在なく水上に揺らめいている。
「うう……!」
フレイヤは苦悶に顔を歪めながらも、なんとか窮地を脱しようと努める。彼女は現在拘束されている。身振り手振りを伴わないマナ操作は実はかなり難しいのだが、それでもこの状況を打破しようと躍起になっていた。
「水よ!刃となりて、我が枷を断ち切れ!」
突如真下の海面が揺らめいたかと思えば、水の刃が飛び出してアンドロマリウスの触手を切断する。彼女は拘束から逃れ、再び水上に舞い降りた。いつの間にかトールも海から上がって、浮かぶ艦の残骸に立っていた。
【フフフフ、なかなかやりますね。いいでしょう、こちらも出し惜しみをせずに全力で仕留めに掛かると参りましょう……!】
ボティスは空中に向かって顔を上げる。トールとフレイヤが何事かと見ていると、ボティスはあんぐりと巨大な口を開けると共に真っ黒い霧のようなものを周囲一帯に撒き散らした。
(これは、もしや毒……!?)
フレイヤはぎょっとするとともに、ブリーシンガメンに手をかざす。まだ残っていた風のマナを解放するとともに緑色のドレス姿へと変わる。
「ブリーシンガメン、モード:風!」
風の力で宙に浮きつつ、自身の周囲に風を纏う。これで毒の霧はフレイヤには届かない。
そして周囲の毒を一網打尽に吹き飛ばそうと力を込める。
「風よ!激しく吹き狂い、悪しき魔障を吹き飛ばせ!」
辺りに強風が吹き荒れた。毒の霧は一時は霧散したが、ボティスは続けざまに毒を吐き出し続ける。
【そう来ると思っていましたよ。ですが吹き飛ばされてもまた吐けばよいだけです。そして貴女は何度も何度もこれを吹き飛ばせるほど体力がもちますか?】
「くっ……」
フレイヤは悔し気に眉根をひそめながらも、再び強風を起こそうとする。
しかし間に合わなかった。まだ沈み切っていない艦から兵士の叫び声が聞こえて来る。毒を吸い込んでしまったのだ。
視線を海に浮かぶ残骸の方に移すと、そこではトールが艦上の兵士たちと同じようにして、苦しみながら膝を付いていた。
「うう、ぐぐっ……!」
「トール!大丈夫ですか!?」
尋ねながらも無事ではないのは明白だった。彼は明らかに毒を吸い込んで苦しみ悶えている。
再び強風を起こして毒の霧を吹き散らす。しかしまたしてもボティスが毒を吐いたので、再び海上は黒く染められた。
(くっ、これでは埒が明かない……それに私以外の全員が既に毒を吸い込んでしまっているでしょう。なれば即座に決着をつける以外に道はない……!)
フレイヤは覚悟を決めたように息を吐くと、再びブリーシンガメンに手をかざす。
風のマナを解放した状態のまま、水のマナを解放しようとしていた。踊るように手足を動かしながら全身が光に包まれる。首飾りの宝石の青と緑の部分が同時に光るとともに、彼女は青緑色のドレス姿へとその出で立ちを変える。
「ブリーシンガメン、モード:嵐!」
複数マナの同時解放はとにかく体力も精神力も消耗する。しかし四の五の言っていられる状況ではなかった。彼女は上空に浮かんだままで両腕をアンドロマリウスに向かって伸ばすと、一気に風と水のマナを放出した。
「嵐よ!疾風の如くに飛沫を届け、我が敵を穿て!」
爆発のようなすさまじい突風とともに、大量の水の礫が飛んでいく。やがてアンドロマリウスはひとしきりそれを浴びると、全身から青い血を噴き出して絶叫を上げた。
【フシュアアアア……!】
【アンドロマリウスくん!】
ボティスの心配もむなしく、アンドロマリウスは苦し気に体を痙攣させながら海の底に沈んでゆく。
しかし手遅れだった。
乗ってきたフリゲート艦はすべて海の藻屑と化しており、かろうじて生き残っている兵士たちもみな毒を吸い込んでいる。
もはや生還は絶望的な状況だった。
(はあ……はあ……)
フレイヤは息が上がってくるのを感じていた。
このまま水と風の同時展開は続かないと判断し、水のマナの解放を止めた。ドレスの色が青緑から純粋な緑色へと戻る。風のマナを残したのは、自身に纏っている風を解いてしまうと毒を吸い込んでしまうからに他ならない。
とにかく早く決着をつけねばと彼女は考えていた。自身も限界だったが、トールが心配になり彼の元へと飛んでゆく。トールは苦しそうにしていたが、一介の兵士たちと違ってまだ体を動かせそうであった。彼の精神力のなせる業だった。
「トール!大丈夫ですか!」
「はあはあ……まだ、なんとかな……」
「とにかく早くボティスを倒しましょう!ですが、先ほどのようなマナの同時展開はもうできません。トール、毒で辛いでしょうがここは力を合わせて……」
「いや俺独りだけでいい。お前は逃げてくれ、フレイヤ」
トールは胸を押さえ、ぜえぜえ息を切らしながら言った。
フレイヤは目を見開いた。
「何故です!」
「このままじゃ間違いなく全滅する……!お前だってもう体力も精神力も限界なんだろ?このまま戦い続けたら、風を保てなくなって、お前まで毒を吸い込んじまう。逃げようにもタイミングが遅かったら、きっと陸に辿り着く前に力尽きて海に落ちちまうだろう。逃げるなら今しかねえんだ、フレイヤ……!」
「し、しかし……」
「隊長格が二人して死ぬよりかはずっといいさ。なあに、後はすべてこの俺に任せておきな……!ラグナレーク騎士団第一部隊長にして騎士団長トール、ただでは死なねえよ。必ずこの海蛇をぶっとばしてやる……!」
もはや彼の死の運命には、一切の疑問が介在する余地はなかった。
フレイヤは覚悟を決めたようにきっと表情を引き締めると、空に浮かび上がった。逃げる覚悟ではない、仲間を見捨てる覚悟だ。しかしこれだけが今できるせめてもの抗いだった。
「トール、どうかご武運のありますように……」
フレイヤはそう言って残された風のマナを振り絞り、全速力で戦場からの退避を始めた。
トールはちらとボティスの方を見る。
彼女はおとなしくトールだけを見続け、逃げるフレイヤにちょっかいを出そうといった素振りはなかった。
「へえ、意外だな。おとなしく見逃してくれるとはよ……」
【かまいませんよ。この場に居る第一、第六部隊はもはや全滅。そこに騎士団長であるトールの亡骸も加われば、ひとまず戦果としては充分でしょう。それに……】
ボティスはにんまりと瞳のない眼を愉悦に歪ませて、言葉を続ける。
【貴方はこの私を倒すと宣言して、熱烈に視線を送ってくれています。最後まで諦めない純然たる戦士の眼差しです。これほど真剣に見つめられては、私も同様に貴方のことだけを見つめていないと失礼だと思いますので】
「へっ!随分と礼儀をわきまえた海蛇なこって……!」
トールはミョルニルを振り上げる。それを巨大化させると共に、ヤーレングレイプルとメギンギョルズを全力で稼働させ始める。
アロケル戦でやった時はしばらく動けなくなったように、この三つの神器の全力稼働は相当に負担の掛かるものだった。しかしもはや出し惜しみをする要素はどこにもない。これが生涯最後の戦になろうことが、彼には分かり切っていた。
「うおおおおっ!」
彼は浮かぶ残骸から勢いよく跳び上がると、力任せにミョルニルを叩き下ろす。しかしボティスは首を捻じ曲げてこれを躱した。トールは勢いのままに海中に没する。
【フフフフ、もはや船も沈み切り、足場も過少な状態。浮く術のない貴方にどこまで戦えるでしょうか?】
「はあ……!はあ……!足場なら、まだあんぜぇ……!」
トールの荒い声が聞こえる。見れば海面付近に出ていたボティスの体に乗っていた。
「こうして海上に首を出している以上、頭部に近い部分は海面付近まで来ていることになるからなぁ……!お前の体自体が足場だぜぇ……!」
【フフフフ、そうですか。ならば……】
再び彼は高く跳躍してボティスの頭部を狙うが、またしても体をねじって躱される。トールはなんとかボティスの体に乗ろうとするが、彼女は海上に頭部を出すことを諦めて、海中へと身を潜め始める。
「ちいっ……!」
舌打ちをしながらトールは再び海に沈んだ。
【貴方のような矜持のある戦士を相手に、このような手段を取りたくはなかったのですが……敗北を喫するぐらいなら致し方ありません。私は海中に引きこもらせて頂きます。もはや船はすべて沈み、毒の霧が蔓延しているこの状況……黙っていても、着実に貴方の元には死が訪れることでしょう……!】
彼女の言う通り、このままでは毒で体が動かなくなり溺死は免れないだろう。
もはやトールは死を覚悟していた。しかし彼の類まれなる精神力が、体を動かす幾ばくかの猶予を与えていた。そして死ぬ前にボティスを討つ為の活路はあった。
「これで打つ手がなくなったとでも思ったか?甘えなぁ、とりゃあっ!」
彼はミョルニルで付近の水面を思い切り叩いた。これは攻撃ではない。周囲に衝撃波を発生させることで、足場のない状態から、むりやり自身の体を上空に打ち上げたのだ。
トールは空中から、真下の海に向かって狙いを定める。
そしてミョルニルを全力解放の最大サイズにまで巨大化させた。
「どっせええええええええええええええいっ!」
海面にミョルニルを渾身の力を込めて叩き付ける。
爆発のような衝撃音と共に、付近の海水が大量に飛び上がった。周辺の海が一時的に消えてしまったような状況だった。海中に隠れていたはずのボティスの頭部がたちどころに露わになった。
【っ……!こんなことが……!】
「覚悟しな、ボティス!俺たちゃ二人、仲良く冥府行きだぜぇっ!」
素早くミョルニルを振り上げ、再び渾身の一撃を、今度はボティスの頭部に叩き下ろした。すさまじい破壊音と共に、巨大な海蛇はおびただしい血を噴き出して海の藻屑へと変わった。




