第225話 堕ちた男
誰もいないはずの部屋で、突如剣に胸を貫かれたバルドル。そして彼は実に聞き覚えのある声を耳にする。
「こ、これはいったい……」
苦悶に顔を歪めながらバルドルは膝を付く。やがて荒い呼吸の中で倒れ伏した。
【クックックッ……】
自分以外誰もいないはずの武器庫に、不気味な薄ら笑いが響いていた。それが床に転がる大剣から聞こえて来ることに気づいたバルドルは、咄嗟に腰に手をあてがった。
「ミストルティン!」
バルドルは叫びつつ剣のあたりに向かって幾つか種を放った。瞬間、床から複数の蔓性の植物が伸びて大剣を縛り上げた。
ミストルティンは植物の神器であり、彼の腰辺りに寄生させたヤドリギに本体がある。それは彼の意思を受けて様々な役目を果たす植物の種を生み出す。ミストルティン”捕縛”の形態が、妖しき黄金色の大剣に絡みついていた。
バルドルは朦朧としつつある意識で、その剣をつぶさに眺めている。しかし何の異変も見られない。それどころか先ほどまでは感じていた違和感のようなものすらなくなっていた。
どういうことかと思っていると、今度は部屋の隅から声が聞こえて来る。
【おやおや、何処を見ているのです?こちらですよ、バルドル……】
神経を逆撫でるような声音。彼は覚えのある声であることに気づく。
「そ、その声は……まさか、ロキか……?」
ありえない、といった顔をした。
ロキはラグナレーク王国騎士団の古株でこそあったが、十年前に王女フェグリナが父王フェルナードを殺害し王位を簒奪した際に、真っ先にフェグリナ側に寝返った男であった。自分の地位以外に興味を示さず、フェグリナの圧政にもさんざん加担をしてきた。
終いには正義の神と共にラグナレーク王国にやって来たフリーレに敗北、フェグリナの治世も正義の神によって終息させられたので、今や騎士団内に彼の居場所は無かった。
彼はフリーレとの戦いで脚を折り、いまだ療養中の身であるはずだった。孤立した立場である為、兵士の助力も受けられないだろう。故にこの場所まで来られるはずもなく、それどころか声が聞こえるにも関わらず姿は見えないという奇妙な状況であった。
バルドルは床に這いつくばった姿勢のまま、懸命に辺りを見回す。どこにもロキらしき姿は見当たらない。
【こっちです、こっち】
再びロキの声がして、そこでようやく声の発信源を見出した。甲冑だ。不思議なことに、備えの甲冑の一つからロキの声が響いているのだ。
状況が理解できない内に甲冑は宙に浮き、まるで透明人間が着こなしてでもいるようにアーマーもヘルムも、グリーブもガントレットも整然と並んだ。
【ククク……ハハハハハッ!いい気味ですねぇ、バルドル!その苦痛に歪む顔、最高ですよぉ!】
ガントレットの部分が煽るような動きを見せる。
「ロキ……お前はアースガルズの軍病院で療養中のはずだ……それが何故ここにいる!?それにその力はなんだ!?」
【ククク、いいでしょう。冥途の土産に教えて差し上げます。あの日、私の身に起こった奇跡をね!】
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その日、軍病院にてロキはいつものように荒れていた。
雑念を許せば頭に思い浮かぶのは、騎士団に返り咲いてフリーレや他の隊長勢を見返してやることばかり。
しかし怪我の身では何にもならず、仮にこれが治ったとて権威を失った彼にはどうしようもないことであった。
日に日に酒の量が増えていった。ドカドカとベッドの角を力任せに叩く。
「くそ!フリーレの奴……!いつか目に物を見せてやる!それに他の隊長勢もだ!」
ジンのような、強めの蒸留酒を呷る。
「何故私がこんな目に遭わねばならない!?私は古株でありながら他の隊長勢ほど厚遇されなかった!何故私より後輩のバルドルやヘイムダルばかりが評価される?だからフェグリナが王位を簒奪した時に寝返っただけなのに……!くそ、くそ、くそ!」
ベッドが壊れかねない程に乱暴に叩いていた。
「殺してやるぞ……私をこんな目に遭わせたフリーレ……私を侮蔑してきた他の隊長勢ども……必ずや、必ずや……!」
その時である。彼は不思議な声を聞いた。
【ゲヒッゲヒッ、まったく涙を誘うお話でございますなぁ……】
ひどく不愉快な声音だった。ロキは驚いて部屋中を見回す。
初めは何も見えていなかったのだが、徐々にその姿が露わとなる。
――病室の中央辺りに何者かが佇んでいる。
それは蝙蝠を人間のような体つきにした醜悪な見た目だった。全身を黒い翼でローブのように纏っている。
ロキは一気に酩酊の気を持っていかれ、正気に戻された。恐怖で歪んだ顔をする。
「あ、貴方は……何者です……?」
「ゲヒッゲヒッ、驚かせてしまい申し訳ございません。いやはや、怖がらせるつもりは毛頭なかったのですよ?ですが生憎……何分わたくしはこのような見てくれですので、どうにも人様に不愉快な思いをさせてしまいます……どうかご容赦頂けますと幸いです……ゲヒッゲヒッ」
震えるロキに、蝙蝠男は不快な声で冗長な挨拶をした。
「わたくしは偉大なる世界の覇者となるべき存在……アレクサンドロス大帝国皇帝リドルディフィード様の忠実なるしもべ……魔軍第16師団”暗躍部隊”のビフロンスというものでございます。どうかお見知りおきを……ゲヒッゲヒッ」
「……っ!アレクサンドロス大帝国……!」
ロキは驚きに声を上げた。
しかし彼は、かの国に敵意のようなものは抱いていなかった。むしろ憎きフリーレや他の隊長勢がまさに戦争をしている相手であり、ともすれば自分の代わりに彼らに凄惨な死を与えてくれるかもしれない存在ぐらいに思っていた。
結局、ロキの感情の主たるものは立派になって見返したいとかではなく、心にわだかまる鬱屈した想いを晴らしたいという一心ばかりだった。
ビフロンスはそこに目を付けた。
「……アレクサンドロスの者が、この私に何の用でしょう?」
「ゲヒッゲヒッ、いやいやわたくしも貴方様が不憫でならないのですよ。わたくしは主様の勝利の為、ラグナレーク王国内のいろんなことを調べて参りました。そしていらっしゃるではありませんか!王にも他の隊長勢にもその価値を理解されず、燻り続けている貴方様の姿が……!」
ビフロンスはその醜悪な見た目で、実に思いやりのありそうな柔和な笑みを作ってみせた。
「価値……私が……?」
「モチロンですとも。それほどお強き向上心、燻らせるのはあまりに惜しい……!まったくこの国は王も騎士も愚物ばかりで困ったものでございますなぁ……ゲヒッゲヒッ」
「そうだっ!そうなのだっ!」
彼は実に嬉しそうに声を弾ませた。
自身の本心を初めて肯定してくれる存在……アレクサンドロス大帝国に敵意がなかったことも手伝って、彼はすっかりビフロンスの口車に乗せられていた。
「私は、私はずっと騎士団に仕えてきた……国の為、王の為……しかし私を認めぬ愚か者ばかりだった!」
「ご安心ください……我らがアレクサンドロス大帝国ではそのようなことはございません。リドルディフィード様は、正当な評価を下してくださる御方ですので……ゲヒッゲヒッ」
ビフロンスは達者に物を言うが、残念ながら実像とはかけ離れている。皇帝リドルディフィードは確かに部下をしっかりねぎらうが、それは軍団の構成員すべてが自身の眷属だからに他ならない。
しかし、一度盛り上がったロキの心は止まらない。
「素晴らしいお国です!ああ、私もそのような御方の配下であったなら……!」
「ゲヒッゲヒッ、ですからこうして貴方様をわたくしどもの国へとご招待差し上げているのでございますよ?ゲヒッゲヒッ」
「なんですとっ……!しかしかの国の軍団は、皇帝リドルディフィードが戦の神アレースの力で作り上げたもの……私などお呼びでないのでは?」
ロキは少し不安げな目で見る。
ビフロンスはにんまりと口元を歪ませながら言った。
「とんでもございません……!それほどの野心、捨て置くには勿体のうございます……!それにお力についても、僭越ながらわたくしの方で助力ができます故、ご心配なさらず……ゲヒッゲヒッ」
「ほ、本当ですか……!」
ロキの顔が輝いた。
ビフロンスは内心でほくそ笑みながら、次のように切り出した。
「……ただしその肉体を、人間を捨てられるのであればですがね」
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「……それでソイツの口車に乗ったのか、ロキ……!」
【ハハハハハッ!当然でしょう!お前たちを見返せるのなら、人間であることにこだわりなんてありませんねぇ!】
愉快そうな笑い声が響いたあと、宙に浮いていた甲冑のグリーブ部分が急に動き出したかと思えば、転がるバルドルを力強く蹴り飛ばした。
「ぐあっ!」
【さんざん私をコケにしやがって!この生意気なガキがっ!私より後から騎士団に来たくせに!】
グリーブが激しく動いて、バルドルを執拗に痛ぶり続ける。彼はぜいぜい息を切らながらも、ミストルティンの種を放る。伸びる蔦植物が宙に浮かぶ甲冑を拘束する。
しかし突如として、その甲冑から気配が抜けた。
バルドルが混乱している内に、今度は別の箇所に安置されていた甲冑が動き出し、またしても彼を鋭く蹴り飛ばした。
「ぐうう……」
【フフフ、素敵な力です!ビフロンス様は”物に命を宿す”能力をお持ちだ!その応用で、この私の命をあの剣に宿して頂いたのですよぉ……!】
呻くバルドルを踏み付けながら、ロキは言葉を続ける。
【私は肉体を喪失しましたが、形有る物体ならば自在に出入りできるようになりました!バルドル……もはや私を殺すことはできませんよぉ、なにせ殺すべき肉体が既に無いのですからねぇ……!】
それからバルドルへの加虐は続いた。ロキの無機質で、耳障りな嬌声がずっと室内に響き続けていた。
【ひゃはははははは……!あはははははは……!】
ところが突然何かを強烈に打ち付けられて、甲冑はバラバラと散乱した。どこか慌てたような動きで浮き上がりながら、言葉を紡ぐ。
【何者です?……っ!】
――打ち付けられたのは剣でも槍でもなく、黒い装飾の弦楽器であった。
変形したギャラルホルンを手に、そこにはヘイムダルが憮然とした面持ちで立ちはだかっていた。




