第212話 凍ったように冷たい月の下で
謎の疫病で壊滅した町を少女は往く。空っぽの未来は、不死の呪いによって終わらない悪夢へと変わった。
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少女は陽の沈みつつある町を歩いていた。
道端には自分の父や母と同じように、グズグズに腐乱した果実のような死骸が散乱している。
しかし自分はどれだけ待ってもその一部になれなかった。
町は混乱の最中であった。
遠くで上がる悲鳴を聞きながら、少女は時が止まったような無表情で歩いていた。
既に涙は枯らした後だった。
瞳に光はない。
されども足取りに澱みはなく、少女はやがて町の河川を見下ろす高台へと辿り着いた。
「今行くわ、父さん、母さん……」
少女は迷いなく、空中にその身を投げ出した。
真下の河原の砂利が広がった辺りに激突する。
全身に激痛が走って、体の力が抜けてぐったりと動かなくなる。
その脱力にどこかやすらぎさえ見出していた。
しかしいつまで経っても天に召されない。
それどころか痛みが引き、負傷が跡形もなく消えていったので少女は困惑した。
「……嘘、なんで……?」
少女は河原をよじ登ってまた元の高台へ戻ると、同じことを繰り返した。
しかし何度身を投げてもその命を散らすことはできなかった。
「どうして……どうして……どうして……どうして……」
血だまりの中に手を着き、うなだれながらボヤいている。
壊れた人形のようだった。
しばらく少女はそのようにしていたが、やがて不気味な影が目の前に現れた。
脚は無く、宙に浮いている。
まるであの世にでもいそうな不穏な気配であった。
【我ガ名ハ死ノ神タナトス。コノ世ノ死ヲ司ル存在ダ】
影は心にまとわりつくような、不気味な声を少女に届けた。
【名モ知レヌ少女ヨ、オ前ノ絶望シカト見セテモラッタ。オ前ハ完全ニ生キル気力ヲ失ッテイルナ。果テノ無イ闇ノヨウナ絶望ニ囚ワレ、未来ニ何ノ希望モ抱イテイナイ】
「……」
少女は死んだような目と呆けた表情で、影を見つめている。
既に心はいっぱいいっぱいで、眼前の存在に恐怖する余裕すらなかった。
【ダカラコソ、オ前カラ死ヲ取リ上ゲタノダ。オ前ハドウヤッテモ死ヌコトガデキナイ体トナッタ。空ッポノ心デ空ッポノ明日ヲ迎エ続ケルガイイ。ソシテ人間ノ可能性ヲ我ラニ示スノダ】
「……」
麻痺した思考でも、その影がロクでもない存在だということは理解できた。
やがて影はかき消えるようにして消えていった。
少女はしばらくぼうっと、その場にへたり込み続けていた。
それからまた何度も、何度も、何度も、何度も、高台から飛び降りた。
盗んだナイフで首を引っ搔いたり、胸を突き刺したりもした。
民家に火を放ち、その中に身を置いたりもした。
何をしても、少女は死ねなかった。
既に陽は没していた。
灯りの無い暗い夜道を少女は歩いている。
地獄を往く亡者のように、表情の無い顔で、力無い足取りで歩いている。
腐乱した死体はもはや風景の一部であった。
道端の石ころのように、なんら特別感もなく、ごく当たり前に転がっていた。
その一つが、不意に蠢いた。
まだ生きているようだった。
妙齢の女性で、下半身が完全に崩れていて、歩くことができなくなっているようだった。
虫の息だった。
「誰か……誰か……居るのですか……?」
「……」
転がっていた女性が、気配のする方に向かって籠を差し出した。
中にはまだ一歳にも満たないであろう赤子が寝かされていた。
「どなたか存じませんが、お願いします……どうかこの子だけでも助けてください……どうか、どうか……!」
少女は黙って、差し出された籠を冷たい目で見つめていた。
やがて力尽きたのか、どさっと籠は地面に落ちた。
女性は既に息絶えていた。
「……」
少女はしばらく黙って、死んだ女性を見下ろしていた。
そして、突如として蹴り飛ばし始めた。
執拗に、執拗に、蹴った。
「なんでよ……なんでみんな死ぬのよ……!私だって、私だって死にたいのに……!」
そこで堰を切ったように涙が溢れ始めた。
少女は泣きながら、何度も何度も女性を蹴っては踏み付けた。
息を切らしながら、ジロリと籠に目をやった。
かよわく、小さな命がそこにあった。
やや乱暴に抱き上げてみた。
少女はその後、どうするかをまるで考えていなかったが、赤子を連れていくことにした。
死を渇望する彼女にとって、死を与えてやるなど有り得なかった。
「……そう、あなたトリエネっていうのね」
服の刺繍を見ながら、少女は抑揚の無い声で呟いた。
町はずれのひとところに、まだ息のある人々が集まっていた。
篝火の仄かな灯りの下で、生きたまま腐った人々が寝かされている。
まだ余裕のある者が、生死の境を彷徨っている者を懸命に励まし続けている。
しかしまるで打つ手などなかった。
刻一刻と、死体の数は増えるばかりであった。
そんな彼らが遠方に目をやると、赤子の入った籠を抱いた少女を見出した。
不思議な少女だった。
この惨状の中で、まるで自身の命の心配をしていないのが、ことさら奇異だった。
「……あらら、起きちゃったわね」
少女はまったく感情の無い声で言った。
赤子は大きな目をぱちくりさせ、きょとんとした目を少女に送っている。
やがてぐずり出した。
「……何?お腹でも減ったの?それともおしめ?」
世話をする気などまるでないのに、少女は言った。
その心の有り様は、彼女自身にもよく分からなかった。
「このぐらいの赤ん坊って何を食べるのかしら?穀物とか芋をドロドロに煮溶かしたものを食べさせるとか?」
そんなことを言っていた時のことだった。
突如、石が飛んで来た。
少女の頭に命中する。
血を流しながら振り返ると、まだ生き残っている町民たちが、鬼のような形相で少女を睨んでいた。
――どうして、あの女だけ平気なんだ?
――きっとこの疫病は、あの女が撒き散らしたんだ!
――アイツは魔女に違いない!
次から次へと石が飛んで来た。
少女は痛みに顔をしかめながら、みるみる負傷していった。
「止めて!何するの!?」
叫びながらも、少女の負傷はみるみる修復していく。
その摩訶不思議な現象は、なおのこと町民を疑心暗鬼に駆り立てた。
投石は止まない。
石の一つが赤子に命中した。
赤子は大きな声で泣き始めた。
「止めなさいって言ってるでしょう!」
少女は大声で怒鳴った。
しかし町民は取り合わない。
おもむろに一人の町民が言った。
――あの女の生き血を飲めば、病気がなおるんじゃねえか?
その言葉を皮切りに、まだ動ける町民たちは続々と立ち上がって、少女に近づいていった。
乱暴に、少女の腕を掴んで引き寄せようとする。
「……嫌っ!……止めて、止めて!」
少女は籠を落として、赤子を抱きながら、無我夢中で走り去った。
体が崩れ出している住民たちを巻くことは、難しくはなかった。
町から離れた森の中に、少女は佇んでいる。
腕の中の赤子はいつまで経っても泣き止まない。
「……うるさいわねぇ、静かにしなさいよ」
ようやく吹き返した感情は、哀しみと苛立ち、寂寥だけであった。
それらは枯れたはずの涙を再び押し出してゆく。
「……泣き止んでよ……泣きたいのは、私の方なのに……」
少女の心はついに限界を迎えた。
泣いた赤子を抱き締めたまま、声を上げて泣き出し始めた。
凍ったように冷たい月の下で、二人の泣き声がずっと響き続けていた。
これにて第8章終了となります。最強の神との対立が深まる中で、人の有るべき姿がテーマとなったかと思います。次章では世界の真実が解き明かされます。




