第197話 魔人の嘲笑
地下施設の奥でアガペーの製造装置を発見する一行。やがて魔人の最高傑作を自称するバジュラとの戦いが幕を開ける。
不穏な靴音は異形の呻き声も、追い縋る女性の声も振り切り、やがて開けた場所へと到達した。
そこは地下にしては妙に明るくて、天井もかなり高い区画だった。中央には巨大なフラスコのような形状の装置が設えられている。装置は不穏な音を奏でながら内部の結晶体を鳴動させており、それに従って側部の穴からパラパラと粒のようなものが降り注いでいる。
見れば錠剤のような見た目である。錠剤の落下地点には小さな褐色のガラス瓶が待ち構えており、ガラス瓶は錠剤で満たされた頃に動き出して次の瓶へと交代する。瓶が動いているのは自動で輪転を続ける帯の上にあるからだ。帯は装置を取り巻くようにして配置され、錠剤で満たされた瓶を保管区へと移しつつ装置の元へと新たな瓶を届けている。
スラはここがアガペーの製造区域なのだろうと思った。
やはりただの麻薬でないことが明らかであったが、あの装置はいったい?
思案し始めた頃に、装置の傍らに一人の男性の姿を認める。バジュラではない、地味な色の外套に身を包みながらも滲みだす高貴な風格――スラは彼が何者であるかを瞬時に見抜いた。
「……!だ、誰だ!?」
「……貴方は」
スラが名を呼ぶ前に、背後から二つの足音が近づいて来た。メレーナとイロセスがようやく彼に追いついたのだ。
「ス、スラ様、どんどん先に行かないでください……!」
「……っ!あ、あの方は……」
息を切らすイロセスの横で、メレーナの目が点になった。
「……父上、やはりここにいらしたのですね」
「ま、まさかメレーナなのか……?」
男の正体は神聖ミハイル帝国の現聖王にしてメレーナの父親、ミヴァコフであった。やはり噂通り、彼は麻薬組織と繋がりがあったのだ。
「……信じたくないことですが、噂はどうやら本当だったようですね。父上、なにゆえ麻薬組織と関りを持っているのですかっ!それにこの施設で行われている非道な人体実験、いくら父上といえども見過ごすワケには参りません!」
「ち、違うんだ、メレーナ、その、あの……」
聖王はおろおろと取り乱し始めた。聖王ミヴァコフはかつて優れた智君であったと聞いている。しかしスラもイロセスも、聖王を実際に見るのは初めてであったがとても前評判通りの人物には見えなかった。ここ数年の悪政ぶりも納得がいく程の醜態であった。
そしてその醜態ぶりは、実の娘であるメレーナにとっても予想外のものであったようだ。怒りと困惑が混じったような表情を父親に向けながら、彼女はただ立ち尽くしていた。
「うう、あうあう、違う、メレーナ、ワシを許してくれ……」
「父上……?いったいどうしたというのですか?」
父親の様子がいつも以上におかしいことに、メレーナもまた内心で取り乱し始めた。
「おいおい聖女サマ、あんまり聖王サマをいじめないでやってくれよ」
突如奥の方から声が聞こえた。ベルトコンベアの駆動音の中で靴音を鳴らしながら、人相の悪いスキンヘッドの男がやって来る。ズボンの両ポッケに手を突っ込み、タトゥーの入った顔を妖しく歪ませた。
裏世界のNo10、バジュラ・レムナツキーが一行の前に立ちはだかった。
「聖王サマはもう限界なのさ。すっかりアガペーに体を蝕まれ尽くしているからなぁ」
「……!やはりそうなのですね。父上、何故ですかっ?」
「ううう……あうあう」
聖王はもはやまともに話ができる状態ではなかった。バジュラは嘆息すると、説明の代役を引き受ける。
「代わりに俺が説明してやるよぉ、聖女サマ。こんなどうしようもない状態に聖王サマがなっちまったのは他でもない俺たちのせいさ。クスリ漬けで意思薄弱になり、俺たちの言いなりになってくれた方が都合がよかったからなぁ」
「……それは貴方、というよりドゥーマがそれを望んだからですか?」
ここで沈黙を保っていたスラが口を開いた。バジュラと目が合う。
「……ああ、そうさ。知っての通りドゥーマはこの神聖ミハイル帝国で帝国議会議員として活動している。”社会平等党”って聞いたことあるか?アイツが発足した政党なんだがよ、現在急速に支持を伸ばしている」
「その為に聖王を利用したのですね。クスリ漬けにして悪政ばかりを行うように仕向け、国王としての権威を失墜させた……!」
しかしスラには分からないことがあった。何故ドゥーマがわざわざそんなことをしたのか?スラは実際にドゥーマを見たことがあるから分かる、アレは人間を下等生物としか思っていない存在だ。唯我独尊の極まったような、行き着く先まで行ってしまったような存在である。
それがなにゆえ市井の評判なんぞを気にする?それどころか議員に身をやつしていること自体が理解できない。
兎にも角にも、この施設の黒幕の一人が、やはりドゥーマであったことがここで明白となった。
「バジュラ、貴方がこの施設を出入りする際に壁がひとりでに動いていました。ですからドゥーマが関わっていそうだとは最初から予想していました。しかし分からない、彼女は自分の支持率だとか、そんな些末なことを気にする存在にはみえません。アレは自分こそが世界の中心であるとごく当然のように捉えています。人間なぞゴミとしか思っていないでしょう」
「アイツの真意なんか俺が知るかよぉ、とにかくこの施設は十年以上昔にドゥーマが始めたものさ。アイツの金稼ぎの手段でしかなかったんだよ」
「ドゥーマの動機もよく分かりませんが、もう一つ腑に落ちないことがあります。それはアガペーです」
スラは中央部の巨大な装置を指差す。
「あの麻薬は間違いなく神の力で作り出されたものでしょう。人間を現実離れした幸福感で包み込み、やがて異形へと変貌させる恐るべき麻薬……!しかしドゥーマは大地の神”ガイア”の力を持つ存在、あのような麻薬を作りだすのはどうにも力の領域違いのように感じます。土や砂、岩石を操作するのが彼女の能力なのですから」
「何が言いてえ?」
「……他にもいるのでしょう?神の力を持つ黒幕が」
バジュラはポリポリと頭を掻いた後、観念したように話を続ける。
「そうさ、この施設にはもう一人神の能力者が居る。人形の神、”ピッグマリオン”の力を持つ男がな」
「ピッグマリオン……!?」
よく聞く名ではあった。なにせピッグマリオンの秘石という量産型の神器が裏世界ではよく使われてきたからだ。その出どころや肝心のピッグマリオンの能力者が何処にいるのかはまったく情報がなかったのだが、ずっとこの秘密の地下施設に居たのであれば道理である。
「アイツの能力は、初めは人間を”人形”に変える程度のモンだったらしい。だがそれを応用し、人間を”異形”に変える能力へと開花させた……!」
「なるほど、その者こそがアガペーを生み出している張本人というワケですね」
そして妹アンジェラを壊した憎き存在か、とスラは内心で舌打ちした。
やがて話はここまでだとばかりに、バジュラは羽織っていた上着を脱ぎ棄てた。逞しい彼の上半身が露わになる。
「さてと、何故こんなにもべらべらと喋ってやったのか疑問には思わなかったか?」
「まあ、察しは付きます」
「一人も生きて帰すつもりがねえからだよぉ!スラも、聖女サマも、そこの誰だか知らねえ女も、この場所を知られた以上は死んでもらうぜぇ!」
それを聞いた聖王は、先ほどまでの取り乱した様子から一転して表情を険しく歪めた。
「な……!話が違うぞ!ワシがお前たちの言う通りにしていれば、娘にだけは手を出さないのではなかったのか?」
「残念だったなぁ、聖王サマ!アンタの娘は自ら死に場所に来ちまった!こうなってはもうどうしようもねえなぁ!」
「ふ、ふざけるな!娘を……メレーナを死なせてなるものか……!」
聖王はふらふらの覚束ない足取りでバジュラに掴みかかる。彼は案の定、たやすく払い除けられてしまう。吹き飛んだ後で、呻きながら身を起こす。
「ぐっ……!約束が違うぞ、バジュラ……!」
「ハン、約束だぁ?やっぱアンタ、クスリで耄碌してんな?約束が意味を為すのは互いが対等の場合だけさ。どちらか一方が強者の場合、それは簡単に破られるんだよぉ!それに心配要らねーだろ?アンタはもう永くねえ、娘もアンタも冥府で一緒になれるぜぇ!」
バジュラは近づいて聖王に追撃を加えようとする。それをスラが遮った。
「どきな、羽虫が」
「どきませんとも」
「生意気な奴め、お前は最初に逢った時からスカしてて気に喰わなかったんだ。いい機会だ、この場でお前には鬱憤晴らしの人間サンドバックにでもなってもらおうか……!」
バジュラの肉体が膨張したかのように張り詰める。血管がピクピクと蠢き、筋肉が不気味な脈動を始めている。
やがてスラたちは我が目を疑った。
――そこには巨人の如き体躯に変貌したバジュラの姿があったのだ。全身は灰っぽい体色に変わっている。頭部には幾本もの角を生やし、背中には巨大な翼を広げ、太くて長い尾をしならせていた。
「……やはり貴方も、ピッグマリオンの力によって生み出された魔人だったのですね」
「ああそうさ!俺はかつてアイツの実験体のひとりだった。そして今や魔人の最高傑作にして、管理者の立場なのさ。金にも不自由しねえ」
刺すような鋭い眼光をスラに向けている。スラも両腰に差していた一対の短剣を抜いて構えた。
「見るがいいこの肉体を!そして恐れおののきながら死んでゆきなぁ……!」
床に伏し呻く聖王の元に、メレーナが駆け寄る。彼女は父親を抱えるように助け起こす。吹き飛ばされた勢いで外套は取り除かれ、服も幾ばくかはだけていた。
彼女はそこで初めて、自分の父親の肉体が鱗に覆われていることに気が付いた。このような変化が一朝一夕で起きるはずがない。聖王はとうの昔にアガペーに毒されていたのだろう。
「……父上」
メレーナの目は涙ぐんでいる。
「……すまぬ、メレーナよ。こうなったのはワシにも責任がある」
「どこがですか!悪いのはあのバジュラという男とドゥーマ議員、そしてあの麻薬を生み出した男でしょう!」
「いや、ワシにも非がある。ワシは抗えなかったのだ、アガペーの魔力に。アレを初めて摂取した時、まるで死んだ妻が生き返ったかのような錯覚に憑りつかれた。抗いがたい幸福だった。こうして肉体が蝕まれていったのは、あの幸福を求め奴らにそそのかされるままにアガペーに手を出し続けたワシの心の弱さにこそ非があるのだ」
聖王はそこまで話して途端に喀血した。メレーナはぎょっとする。もはや聖王は永くない、それは誰の目に見ても明らかであった。
「父上……!父上、しっかり……!」
メレーナは涙を流しながらぐったりした父親を抱えている。
その様子をイロセスは額を押さえながら見つめていた。
(このままでは聖王様の命が失われてしまいます。失う……?うう、頭が……)
イロセスは両手で頭を抱えて膝をついてしまう。
いつの間にか騒がしい音が聞こえ始めた。バジュラの爪撃とスラの短剣が交差する音である。しかしただの短剣を振り回しているに過ぎないスラは、バジュラの強靭な肉体に容易に弾き飛ばされてしまった。
スラという遮りがなくなったことで、いよいよメレーナと聖王がその残酷な爪牙に晒されようとしていた。彼女は父親を抱いたままぎゅっと目を閉じる。
しかし鋭い爪で斬り払われる感覚は訪れず、代わりに空を裂くような音が炸裂したかと思えば僅かにバジュラの呻き声が聞こえた。
メレーナは恐る恐る目を空ける。なにやら邪魔が入って、バジュラの攻撃が中断されたようだった。
後方に目をやれば、イロセスが水面のように美しい刀剣を構えている。
「……すげえ、ラヴィアの言った通りだ。本当にすさまじい斬撃が飛んでゆくんだな」
彼女の表情は、それまでの不安につままれたようなものではなくなっていた。
「もう大丈夫だぜ、聖女様!アンタのことはアタシが守ってやるよ」
「イ、イロセスさん?もしかして、記憶が……!」
「ああ、もう心配要らねえよ。ったく何やってんだかアタシは……両親と家を失くして、盗賊団も失くして、好きだった人も失くして……これで記憶まで失くしてたら世話ねえだろうがよ」
メレーナと聖王を庇い守るように、彼女は立ちはだかる。その表情はイフリート盗賊団に居た頃のような不敵さを取り戻している。
「スラ!聖女様の護衛はアタシに任せな!アンタはそこのデカぶつをぶっ倒すことに集中しやがれ!」
イロセスの勢いある声を聞きながら、スラはバジュラの前まで戻ってくる。イロセスの変貌ぶりに驚きながらも頼もしさの方が勝っていた。
「ありがとうございます、イロセスさん……覚悟しなさいバジュラ、ここで貴方に引導を渡してあげましょう……!」