第196話 壊れゆく少女
兄と生き別れた少女、アンジェラ。人知れず記された彼女の日記について綴る。
――これは地下施設の何処かに残されていたアンジェラの日記である。結局これは兄のスラにも発見されないまま、瓦礫の下に埋もれることになる。
神歴一八六五年 四月三日
母が流行り病で亡くなった。父も一昨年に職場での転落事故で死んだので、残された家族は私と兄さんだけだ。兄さんは自分が働くから生活の心配は要らないと言ってくれたけれど、兄さんはあまり人付き合いが得意ではない。兄さんばかりに負担をかけたくない、私も頑張らないと。
神歴一八六六年 六月十七日
兄さんが仕事を辞めたらしい。これで何度目だろう。兄さんは器用でもなければ多才でもない。兄さんに私も働いた方がいいかと聞けば、お前は病弱なのだから心配は要らないと言った。家事だけで充分助けになっているよと。しかし家事と言っても買ってきた出来合いのものを温めたり、ちょっとした掃除や洗濯をしたりするくらいだ。ウチはあまり物がないし、兄さんも何日も同じ服を着続けるような人だから大したことではない。やはり私も何かしらの内職を始めた方がいいのだろうか。
神歴一八六七年 ニ月三日
近頃急に生活の質が向上している。兄さんがお金を多く家に入れてくれるようになったからだ。どうやら今度の仕事は上手くいっているらしい。いったいどのような仕事なのか、兄さんはちっとも話してくれない。少し嫌な予感がした。
神歴一八六八年 十月八日
今日は兄さんが休みだと言うので一緒に外食に出かけることにした。お洒落なカフェの軒先で兄さんはお気に入りのエスプレッソを傾ける。そして兄さんは私の服を選んでくれた。優雅なひとときだ。少し前までは節約節約でこんなお金の使い方はできなかった。しかし気になることがある。街を歩いている時、兄さんは少し慌てた様子を見せた後、私の手を引いてそそくさとその場を後にしたことがある。逢いたくない人でも見かけたのだろうか?やはり兄さんはよくないことに手を染めているのではないか、という疑念が募る。
神歴一八六九年 八月十一日
今晩は兄さんの好物のラザニアを作ろう。最近は家計に余裕も出て来たので、色々な料理を覚え始めている。兄さんが帰って来る前に買い物に出かけなきゃ。
神歴一八六九年 八月十三日
目が覚めるとそこは見知らぬ場所だった。なんでもヴェネストリア連邦全体がアレクサンドロス大帝国による攻撃に晒されているらしかった。ストラータ王国の、私と兄さんが暮らしていたクレッセンの街も火の海に包まれた。ここは王国辺境の難民キャンプで、私は気絶していたところを運ばれてここまで来たようだった。頭がズキズキ痛む。包帯を巻かれた頭に不意に手を添えると、じんわりと血が手のひらに染み出した。
神歴一八六九年 八月十八日
まもなく神聖ミハイル帝国への亡命が始まる。ヴェネストリア連邦は完全にアレクサンドロスの手に落ちてしまったようだった。兄さんはどこにいるの?兄さんは生きているの?兄さんに会いたい!
神歴一八六九年 十月三十日
病院から出られるようになった私は、初めて自分の脚で街を歩いた。聖都ピエロービカはとても美しい街だった。けれども兄さんがいない、それだけで私の見える景色には深い陰が差す。
神歴一八六九年 十一月二十三日
亡命者にはしばらく生活に困らない程度の金銭が支給されている。聖王様は良い人だ。とはいえ贅沢は出来ない、浪費さえしなければ飢えはしない程度の金額だ。亡命者は多いのだからそれも仕方のないことだった。聞けばこの国がもっとも多くの亡命者を懐深く受け入れてくれたらしい。別に贅沢がしたいワケではない。ただただ兄さんに会いたい。
神歴一八七十年 ニ月十一日
兄さんと生き別れてから半年が過ぎた。このまま待っているだけでは、永遠にすれ違い続けたままかもしれない。私は決心した、兄さんを自分で探しにいこうと。ただそれにはお金が必要だ。私でも働ける仕事が何かあるだろうか?
神歴一八七十年 三月九日
仕事が上手くいかない。お店の売り子ならできるかもと思ったけど甘かった。理由は明白だ、私も器量が良いワケでも明るいワケでもないからだ。お店の人と打ち解けられない、お客さんと話すのが怖い、勘定を間違えるコトもあった。今までの暮らしは兄さんに守られながら成立していたコトに気付かされた。不安に潰されそうになる。
神歴一八七十年 三月十五日
アガペーというクスリの噂を聞いた。なんでも不安がたちまち消え失せて、多幸感に包まれるのだという。値段も手頃で、若者を中心に流行しているのだという。裏街で売人から購入できるようだ。私も明日行ってみようかな。
神歴一八七十年 三月十六日
すごいすごい!とっても気分が晴れやかになる!まるで兄さんや、父さんや母さんがまだ居た頃のような幸福感を取り戻せたかのようだ。心を優しく撫でられている気分だった。これがアガペー、深い闇に満たされた私の心に光が差した瞬間だった。アハハ、なんでも上手くいきそう。ウフフ、なんでも叶えられそう。
神歴一八七十年 三月二十三日
右を向けば兄さんが居る。左を向けば兄さんが居る。素敵な世界。
神歴一八七十年 三月二十六日
人の視線がとても怖い。誰かに付けられている気がする。不協和音のような不気味な音が、耳鳴りのように反響する。アガペーが切れると、幸せ色に満ちた世界は一気にその彩りを失う。その対比で周囲がことさら恐ろしく見えるのだろうか?常に野良ネコに睨まれたネズミのような心境が付きまとう。アガペーはもう手元にない。明日また買いにいかないと。
神歴一八七十年 四月十日?
しばらく意識がなかったみたい。目を覚ませば、無機質な灰色の部屋の中に居る。簡素な寝床と机、排便用と思わしき壺があるだけ。全身が火傷のように熱い。
神歴一八七十年 四月二十日?
イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ
ネ申麻一穴七串年 匹月ミ十丑日
うでが生えてキた。セ中の、右腕の付け根の下っかわから。わあシのトコロにきたおじサマは、わあシがえらばれた存在ニなれるかもとユった。兄さんに会えるのと問へば、モチロンだともトいった。ネッシンにわあシの体おナデまわしたあと、ちゅうしゃをさしてでてイッタ。
ネ申麻一穴七串年 丑月ニハニハ
ウでもアシもたくさんふエたヨ。おじサマはこれで兄さんヲさがしニユケルねといった。うれしイなウレしいな。ワあしはカラだガワヨカタから、オカネがたまっもてさしにがいけなおもっカら。兄さをおてっどこまもでユケる。ウレシな。
・・・
・・
・
てかでかあさかごめでり
けけほでけ んとさほどる
ぼこなのら
いるさあかめため
んしると
ずをげんころじ
らすあのき
せけなありどく
あちこめんころにあじけこづ
ずちべいわちぢり
おのとなおうじ おのとなおうじ
とどこのさきつ とどそばさあ
はこらのきさつ
せけなひこあこぐごえたと
でいこんとさわ
でいこまちくつきどそあ




