第194話 アガペー
ピエロービカの麻薬問題を調査する一行。出回っている麻薬はどうやらアガペーという名であるらしかった。
スラとイロセスは、それぞれ自身の名前と旅の目的をメレーナに伝えた。簡単な自己紹介を終えると、スラは二人を伴って更に裏街を往く。
図らずも両手に華となっていた。メレーナは先ほど男二人に絡まれていたことからも分かるように絶世の美女と呼んで差し支えない容姿であったし、イロセスもそんな聖女に負けず劣らずの美貌を持っていた。二人してフード付きの外套を纏っているにも関わらず人目を引いていた。
(さて……これから麻薬組織に潜入することになるのでしょうが、このままではいささか目立ちますね)
彼女ら二人はともかく、スラに関しては既に潜入する気満々であった。二人がまだそこまで考えていないのは、そもそもスラの能力について知らないからである。
彼はここで秘密を打ち明けようと思った。警戒心のそれなりに強い彼にしてみても、既にこの二人は信用していいと思っていた。
右手でイロセスの手を、左手でメレーナの手を握る。急に男性に手を握られたので、二人は驚いて顔を赤らめた。
「……!」
「ス、スラ様、急に何を……?」
「貴女がたお二人はとても麗しく目立ちますのでね。私のヘルメースの能力で姿を消すとしましょう。ついでに足音や話し声も周囲に聞こえなくなりますよ」
そうしてスラは能力を展開させる。彼の能力は周囲に姿や音を認識されなくなる”感覚阻害”の能力。そして触れている他者にも能力を伝播させられる。
彼ら三人はもはや周囲に認識されない状態となった。
「姿を消す……?ど、どういうことでしょうか?」
「ヘルメース……も、もしやスラ様は神の能力をお持ちなのでしょうか!?」
驚きと戸惑いの混じった目でスラを見る。
「ええ、黙っていてすみません。とにかく我々は今誰にも認識されなくなっています。試してみましょうか。私の手を離さないように、それと実体が消えているわけではないのでうっかり他人に触れてしまわないようにお願いします」
手を繋いだ状態で、スラは道路の脇の建物に挟まれた細道に目をやる。そこには街の不良少年が怪しげな二人組の男と会話している場面があった。スラは既に情報源になりそうな人物を見つけていたのだ。
そこにぐいぐい近づいていく。まるで彼らの輪に加わったがごとくに至近距離まで近づいたが、誰一人としてスラたちを意に介さず話を続けている。
「す、すごいですね。本当に気付かれていません……!」
「ええ、それにわたくし達の話し声も聞こえていないようですね」
二人は初めて体感する神の能力に驚嘆しているが、スラだけはじっくりと男たちの様子を伺っている。
「……いいだろう、確かに金は受け取った。ほらよ、お待ちかねの”アガペー”だ」
「へへ、ありがとヨ。最近はコレがねえとむしゃくしゃが収まらなくてな」
それはまさしくクスリの売買の様子であった。
「アガペー……それがこの街で流行っている麻薬の名でしょうか?」
「そうですね、アガペーという名は麻薬情報を調べている内にわたくしも聞き及んでいます。なんでも現実離れした多幸感をもたらすのだとか。そしてそれに手を出した者の行方不明情報も絶えません」
「ふむふむ、どうやらこの売人たちに付いていけば、いずれ麻薬組織の元へ辿り着けそうですね」
やがて少年が去った後、二人の売人は何処かへと向かい始めた。その足取りはなにやら明確な目的地がありそうなものである。
「移動を始めましたね、追いかけましょう。私の能力は長時間途切れなく持続させることはできませんが、早くに動いてくれて助かります」
「ありがとうございますスラ様。戦い慣れされているだけでなく、姿を消す能力まで持っているなんて……調査にあたってこれほど心強い味方は他にいないでしょう。わたくしは貴方に出逢えた幸運に感謝いたしますわ」
三人は姿と声を消したまま、売人たちの後ろを付いて行く。
しばらくして売人たちが立ち止まった。辺りをきょろきょろ伺った後、一軒の建物の中に入っていった。スラたちも彼らに続いてそこに立ち入る。
そこは何らかの事務所のような場所であった。長椅子とテーブルが設えられていて、他にはちょっとした木箱、衣装掛け、執務机が置かれている程度である。
何の変哲もない事務所に女性陣二人は少々面食らったが、スラだけは違った。麻薬組織のアジトが表立って分かりやすい佇まいなどしているはずがない。これは偽装なのだと見抜いていた。
やがて先輩らしき売人が突き当りの壁を手で押した。驚くべきことにそれは壁に偽装された回転扉だった。売人たちはその奥へと入って行き、スラたちも扉が閉められる前に便乗して扉の向こう側へと渡った。
薄暗い通路がしばらく続く。スラたちは堂々と後ろを付いて行くが、靴音や衣擦れの音も聞こえなくなっているのでまるで気付かれている様子はない。
そして奥のこじんまりとした部屋に辿り着く。簡素なテーブルと椅子があるだけの殺風景な部屋だった。売人たちは椅子に腰掛けると、売上金の入った布袋を取り出しテーブルに置いた。そして中身の一部を予めテーブルに据えられていた箱の中に収め、同じく予め備えられていた紙とペンを用いて何やら書き始めた。
その様子はスラには得心がいった。箱に入れた金はいわゆる上納金だろう。紙に書いているのはクスリの販売を担当した地区や販売量、売上金、購入者情報の記録であるらしかった。
ここが麻薬密売人と麻薬組織の交流地点らしいことが分かってきた。
やがて紙への記入を終えると、男たちが立ち上がる。
「さて今日のノルマもはけたし、ちょっと遊びにでもいこうぜ」
「先輩、また朝に来るとその日に売るアガペーが用意されているんですよね」
「そうだよ。もう一度言っとくが商品のクスリを持って行く時と上納金を収める時以外はこの部屋には入っちゃダメだぜ。どうやってんのか知らんが、部屋の中に誰かいるかどうかは遠隔でも分かるらしいからな。無用に長居してちゃ怒られちまうぜ」
「怒られ……で済むといいですけどね」
「ハハハ、そうだな」
そうして売人たちはそそくさと出て行った。
どういうわけか、この部屋は監視されているらしい。しかしそれが問題となるのは通常の人間だけだろう。スラたちは今外部から一切認識されない状態になっている。
彼はこのまま待ち続けるか、それとも一度出直すべきかを悩んだ。というのも彼のヘルメースの能力は間断なく長時間持続させることができないからだ。もって三十分程度である(それでもフェグリナ討伐の旅をしていた頃は十分から十五分程度だったので、それに比べれば随分と伸ばせていた)。
しかし幸運なことに、すぐに部屋には異変が現れた。
地響きのような音がしたかと思えば、なんと部屋の奥の壁が地面にめり込み始めたのだ。実は扉になっていたとかではない、本当に壁がひとりでに地面にめり込んでいた。
そして壁だった場所にできた穴から一人の男が歩み出てくる。おそらく麻薬組織の者が上納金を回収しに来たのだろう。
非常に悪い人相とスキンヘッドの男――スラはその男に見覚えがあった。
(あれは裏世界のNo.10、バジュラ・レムナツキー!そういえば彼はとある施設の管理を任されていると聞いた気が……)
点と点が繋がった瞬間であった。その施設というのが、おそらく麻薬製造施設のことだったのだろう。そして施設の管理者がバジュラであることが判明すると共に、何故ただの壁でしかなかったものがひとりでにめり込んだのか、その理屈が分かってしまった気がした。
非常に嫌な予感がした。しかし進むしかない。
「……よし、充分だな」
バジュラは箱に入れられた上納金を持参の袋に移し替えると、壁の穴の中へと戻っていく。スラたち三人は、壁が戻る前に急いでバジュラの後に続いた。
壁は地面からせり上がって完全に元の形に戻った。つまり出入口が完全に消滅したということであり、もはや普通には脱出はままならなくなった。
スラは焦り過ぎたかとも思った。しかしあの場で飛び込んでいなければ、ここまで立ち入ることはできなかったろう。
彼らが居るのはこじんまりとした空間であり、地下への階段が伸びるのみである。
バジュラがそこを降りて往くのを三人も追従する。やがて薄暗いというか、薄気味の悪い場所に出る。黒っぽい石レンガの細長い通路がしばらく続いている。
バジュラが遠く離れて往くのを見送りながら、彼らは周囲を見回しつつ言葉を交わす。
「ここが麻薬製造施設……ですかね?」
「まさか壁の向こう側に地下への入口があるなんて」
「おそらく先ほどのような、売人と組織の者とがやり取りする場所が、街の至るところにあるのでしょう。そして普通では製造施設までは辿り着けない。なにせ入り口が壁で隔てられてしまっているのですから……それにしても、此処は本当にただの麻薬製造施設なのでしょうか?」
スラの疑問ももっともであった。通路のあちこちに鉄格子が備えられているのである。
三人は恐る恐る鉄格子の中を覗き、そして驚愕した。
――そこには下半身が昆虫のように変形した人間が、ぐったりした様子で横たわっていたのだ。




